透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

ブックレビュー 1003

2010-03-31 | A ブックレビュー


 3月も今日で終わり。で、今月のブックレビュー、読了本は5冊。

『和の思想』とはサブタイトルの「異質のものを共存させる力」だと著者は説く。なるほどな視点。仏教の共生(ともいき)にも通じるか・・・。

『ソラリスの陽のもとに』知的生命体の海という未知との遭遇。

『永すぎた春』「春」がタイトルに付く小説ということで再読。三島由紀夫にしては俗っぽいという印象は読者がそうだから・・・?『春の雪』の再読は無理かな。

『タタド』小池昌代 この小説を味わう感性、中年オジサンには既に無し・・・。

『人間の建設』日本を代表する知性の対談。でも、なぜ今文庫化?



おっと『国土学再考 「公」と新・日本人論』が抜けていた。この1冊を加えて3月は6冊。


「ガラパゴス化」とは

2010-03-30 | A 読書日記



 先週末、この本のことをネット上で知った。本書によると「ガラパゴス化」という言葉は、北俊一氏が「日本は本当にケータイ先進国なのかガラパゴス諸島なのか」という論文(2006年)で使ったのが最初だという。この手の言葉は大好き、早速買い求めた。

「日本製品のガラパゴス化」を日本企業がつくりだすモノやサービスが海外で通用しないことと本書では定義付けている。日本という国のガラパゴス化、日本人のガラパゴス化の定義の紹介は省略するがおよそ見当はつくと思う。

ケータイだけでなく日本の大学や若者、東京などガラパゴス化しているものは多いという。このような状況で日本が生き残っていくポイントは・・・。

『日本の常識は世界の非常識』という本を昔読んだが、書名としては本書の方がいい。

今週はこの本を読む。


カヤバ珈琲@谷中

2010-03-26 | A あれこれ



■ 路上観察 今回は東京谷中のカヤバ珈琲(観察日 不明)

雑誌「新建築」の3月号に上の写真の町屋が取り上げられていた。記事によると、この町屋は1916(大正5)年に建てられたそうで、1階の喫茶店は戦前、1938(昭和13)年の創業。以来長きに亘って営業していたが2006年に閉店したという。それが最近改修工事を終えて再び喫茶店として復活したそうだ。

私は谷中で数回路上観察したが、交差点に建つこの町屋は存在感があった。谷中にはこのようなどっしと存在感のある町屋がまだ残っていて、街並みに懐かしい雰囲気を与えているが、残念ながら次第に取り壊され数が減っているらしい。

出桁構造、寄せ棟の瓦葺屋根。梁や垂木の小口が白く塗装されている。以前も書いたことがあるが、これは本来、水を吸いやすく腐りやすい小口を保護するためのもの。それが外観のアクセントとなり、デザイン上の特徴にもなっている。 

小さな喫茶店ではあるが取り壊されることなく、再生されたことはこの地域にとって幸せなことだと思う。街の歴史を記憶に留めるこのような建築の存在は貴重だ。

 


左利きでもOK?

2010-03-25 | A あれこれ

 1973年ということは36、7年も前(そんなに!)、麻丘めぐみが♪わたしのわたしの彼は~ 左利き~ と歌いました。

そのときは左利きの男の子が、うれしい気分になったかもしれませんね。当時右利きなのに左手を使うことが流行ったとか。実は私も左利きで(日常生活では右手を使うことが多いですが)、ちょっとうれしかったです。

ところで、何年も前からバリアフリーとかユニバーサルデザインという言葉をよく耳にするようになりました。ユニバーサルデザインとは、要するに誰でも普通に使えるようなデザインということですから、体にハンディのある人や小さな子ども、お年寄りにも不自由なく使えるデザインということですね。もちろん左利きでも。

確かに左利き用の道具も増えているようですが、まだまだ右手で使うことを前提にデザインされているものが多いですね。

最近、耳の不自由な方のために邦画でも字幕が出ることもあるそうです。テレビ番組にも是非取り入れて、文字表示モードを選択できるようにして欲しいと思います。

もちろん建築もユニバーサルデザインの考え方を当て嵌めて設計しなくてはなりません。で、例えば車椅子トイレが設けられるのですが、この設計が難しい・・・。使いやすさは人それぞれですから。



この写真はせんだいメディアテークの確か3階の男子トイレです。男女それぞれのトイレに車椅子トイレがあります。これはいいですね。車椅子トイレは男女共用が一般的ですが(最近は多目的トイレとしておむつを替えるためのベビーシートやオストメイトなども設置されています)、このような計画の方がいいと思います。

多目的トイレ←過去ログ

でも、異性の人がサポートして使う場合には、困りますね。女性が男性の車椅子を押してここには入れないでしょう・・・。

せんだいメディアテークはさすが!です。このような男女別車椅子トイレの他に共用タイプの車椅子トイレもあります。手摺なども仕様を変えてあり、それが利用者に分かるように専用パンフレットも用意されています。

設計段階ではワークショップを何回か開いて市民の意見を聞いたそうです。きっと車椅子トイレの計画にも仙台市民の良識が反映されているのでしょう・・・。 


「それから」に出てくるブラングィンの絵

2010-03-23 | A あれこれ
■ 松方幸次郎の絵画収集の指南役となった画家、フランク・ブラングィン。現在国立西洋美術館でブラングィン展が開催されている。知名度があまりないのかどうか、会場はそれ程混んでいないらしい。東京国立博物館で開催されていた長谷川等伯展に集中したのかもしれない。

ブラングィンのことが漱石の『それから』に出てくることを今日の新聞で知った。で、探してみた。あった。

**代助は仕舞に本棚の中から、大きな画帖を出して来て、膝の上に広げて、繰り始めた。(中略)やがてブランギンの所へ来た。代助は平生からこの装飾画家に多大の趣味を有っていた。(後略)**

そういえば草枕にもミレイ(←過去ログ)というイギリスの画家が出てきた。漱石は建築家を志していた時期もあったそうだから、絵画にも相当関心があったのだろう。

『それから』で漱石はブラングィン(小説ではブランギンと表記されている)のある絵を取り上げ具体的に説明している。展覧会に出かける機会があったらその絵を探してみるのも一興だ。


「和の思想」

2010-03-22 | A 読書日記



 芭蕉の しばらくは 花の上なる 月夜かな という句を前々稿に載せたが、兼好が 花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは と「徒然草(第百三十七段)」に書いていることを今日読んだ『和の思想』長谷川櫂/中公新書 で知った。

満開の桜や満月を観るのだけが花見や月見ではない。**雨の夜に見えない月を恋い、花が散ってしまうのも知らず、簾のうちにこもっているのもなかなかいい。**ということだそうだ。なるほど!深い。

著者の長谷川氏は和とはさまざまな異質のものをなごやかに調和させる力のことだと解く。異質の共存が和の本質だと。

古池や 蛙飛こむ 水のおと この句の「蛙飛こむ水のおと」が現実の物音であるのに対して古池は心の世界にあるのだそうだ。現実の物音にそれとは次元の異なる心の世界を取り合わせた、ということで大いなる「和の句」なのだそうだ。

小堀遠州は仙洞御所の庭園で切石で直線的に池の岸を仕切り、松を植え、自然石を組んだ。これは西洋と日本という異質なものを調和させる企てではなかったかといい、隈研吾はサントリー美術館で遠州とは逆のこと、ミッドタウンという最先端の街に和紙や桐という日本古来の素材を持ち込んだと指摘している。 

遠州は和に洋を取り込み、隈研吾は洋に和を取り込んで調和させた、ということか・・・、なるほど!! 3連休の最後に興味深い本を読んだ。

巻末の略歴によると長谷川櫂氏は大卒後、読売新聞記者を経て俳句に専念、朝日俳壇選者で「季語と歳時記の会」代表。



春だ 本を読もう

2010-03-22 | A 読書日記

 

しばらくは
花の上なる
月夜かな

芭蕉

30日は今月2回目の満月、ブルームーン。東京あたりでは満開の桜と満月を観ることができるだろう。                             

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小林秀雄と岡潔の対談を収録した『人間の建設』、小池昌代の『タタド』を読んだ。

『人間の建設』

小林秀雄と岡潔、本のカバーでふたりを文系的頭脳の歴史的天才と理系的頭脳の歴史的天才と評しているが、お互い相手の領域についても見識を持っており会話が成り立っていることからして凄い。

岡さんがドストエフスキーと比べて**トルストイは端まで一目で見渡される町に似ている。一目でわかるものを歩いてみる気はしない。(後略)**といえば、小林さんは**そういうことはありません。トルストイも偉いです。** と少しムキになってきっぱり。

しばらく文豪ふたりについての会話が続き、**善人で努力家。トルストイを悪く言うのはやめましょう。(後略)**と岡さんが言う。

話題は多岐にわたるが、ふたりは和して同ぜず、自分の見解をきちんと述べている。

『タタド』

人は恋人、夫婦、友人や同僚など他人との関係に規定されて生きている。その関係を「決壊」させた世界を描きたい、と小池さんは以前、NHKの「週刊ブックレビュー」というテレビ番組で語っていた。

東京から車で四時間半(ずいぶん遠い)という海辺にあるセカンドハウスに集まった四人。一組の夫婦、ふたりと旧知の男性、夫の仕事上の知り合いの女優。中年四人のエロスな週末などと書けば少し違うような気もするがラストの一文は・・・。

以前から読んでみたいと思っていたこの小説は川端康成賞を受賞している。詩人でもある著者の感性には同調できなかった。エロスなら川端康成の作品の方がよさそうだ。


昔の新聞記事から

2010-03-21 | D 新聞を読んで

『国土学再考』で著者の大石氏は、自然災害によって、一瞬にしてすべてのものが壊れたり、流されていたという恐怖の経験によって、日本人のほとんどすべての人が流れる歴史観、無常観をもっている*1と書き、かつての街の記憶を消し去り、塗り替えていくような東京の再開発ラッシュの光景はいかにも日本らしいものだと続け、更にそうした動きが、日本の文化や経済活動に、他の地域では見られないダイナミズムを与えているのも、また確かなことなのだと論じている。



かつて東京駅を取り壊して新しい駅ビルをつくる、という計画があったことはよく知られている。このことを伝える新聞記事の切抜きが手元にある(19770421 読売新聞朝刊)。

記事となった日の前日(0420)、当時の都知事、美濃部さんは外人記者クラブの昼食会に招かれて、丸の内再開発構想についてスピーチした。

東京駅を含めた丸の内ビジネス街の大改造プランに対して、外人記者から「東京駅の赤レンガは震災などをくぐり抜けてきた東京の名所、とりこわしてしまうのはどんなものか」と訊かれ、美濃部さんは「東京駅は駅としては非常にまずい。もう少し近代化したいというのが国鉄総裁の意見で、私も賛成だ。しかし、非常に惜しい建物なので明治村に再生するなど、なんらかの形で保存したい」と答えた。

更に記者から「明治村には明治はいっぱいあるが、東京にはひとつしかない」と追求されて美濃部さんはタジタジだったと記事にある。

建築を経済活動の手段としか考えていないと、こんな見解を述べることになってしまう。最近では東京中央郵便局(←過去ログ)がやはり保存か再開発かを巡って議論された。

都市の実態を見れば、確かに大石氏の指摘通りなのかもしれない。しかし、このままでは日本全国記憶喪失都市になってしまう・・・。
 
*1日本人の無常観の由来について、納得できる説明はなかなか見あたらない、と大石氏は指摘しているが自然災害で虚しく死んでいくという人間の経験の深いところに根差すものというのが氏の見解だ。

この見解に「なるほど!」とはならない。そんな災害でしか無常観は培われてこなかったのだろうか、日本人はそれほど感性が鈍くはないだろう。自然のうつろいを知ることができる細やかな感性による、といった指摘の方が頷ける。




岡潔と小林秀雄の対談

2010-03-20 | A 読書日記
 

『国土学再考「公」と新・日本人論』大石久和/毎日新聞社 読了。

**われわれの暮らしをよくしていくためには、「国土に働きかけることによって、国土から恵みを得る」行為が重要になってくる。** 「おわりに」からの引用だが、大石氏は「はじめに」にも同じことを書いている。

この本から長野県の高校入試に出題された。通読して、問題文はなかなかいいところを抜き出したなと思ったがそのことには触れない。

・長いが「不十分」な日本の道路
・アジアで置き去りにされる日本の港湾
・「よりよい明日」を実現するインフラの更新

このような小見出しから著者のスタンスが分かる。

国土に働きかけ続けて**より安全に、より効率的に、より美しく快適にして、後世に持続可能な国土として引き継いでいく責務を有している。**と著者は書いている。この「より美しく」や「より快適に」が具体的にどのような状態なのかは、環境にやさしくとかエコな暮らしとかいわれるご時世、人によって見解が違うだろう。

この本で論じられていることには同意できないところもあるが、「何でも読んでやろう」に意味がある。入試に出なければ読む機会はなかっただろうが・・・。

この本を読んで和辻哲郎の「風土」をいつか再読しようと思った。

さて次は『人間の建設』。岡 潔と小林秀雄の「雑談」。なぜ今頃このふたりの対談が文庫化されたのか、事情は分からないが**日本史上最も知的な雑談**(カバーより引用)となればやはり必読だろう。


建築展@近代美術館

2010-03-20 | A あれこれ

 東京国立近代美術館で建築展が開催される。
 
しばらく前に世田谷美術館で内井昭蔵展が開催されたが、日本では建築展が美術館で開催されることはあまりないのではないか。

建築は絵画や彫刻のように純粋芸術ではないから、同類とは見なしにくいのかもしれない。

建築展というとギャラリー間、GAギャラリー、パナソニックミュージアム、大手ゼネコンのギャラリーあたりが直ちに会場として浮かぶが、これらはいずれも建築に関係する企業のギャラリーだ。だから近美で建築展が開催されると知って、ちょっと驚いた。

4月29日から8月8日の会期で開催される展覧会 建築はどこにあるの?(←展覧会の概要)には7人、いやアトリエ・ワンも入っているから7組か、が参加するという。

参加する建築家のひとり、伊東豊雄さんのインスタレーションはノルウェーのオスロ市ダイクマン中央図書館のコンペで提案した空間構成システムを使ったものになるそうだ。3種類の多面体を空間全体に展開させていくというシステムはNHKの「プロフェッショナル」でも紹介された。残念ながらコンペでは当選しなかったが。

内藤廣さんがどんなインスタレーションをするのかも興味がある。会期中に、参加する建築家の講演会も行われる。

近美に行かねばならぬ。


 


再読したい本

2010-03-18 | A 読書日記
 このところ春うららな日だな、と思っていると翌日は冬に逆戻りといった状態が続く。♪一歩進んで二歩さがる~っ、ではいつまでたっても春にならない。二歩進んで一歩さがる、といったところだろうか・・・。

この頃ようやく小説を読もうという気持ち、小説モードになってきた。

タイトルに「春」のつく小説やエッセイということで三島由紀夫の『永すぎた春』を再読した。三島作品には他にも春がつく小説があったな、とずっと気になっていたが、ふと思い出した。『豊饒の海』の第1巻は「春の雪」だった。手元にある新潮文庫は昭和52(1977)年発行、随分昔に読んだ小説だ。

『豊饒の海』は三島由紀夫のライフワークの長編だが、もう全4巻通読する気力はない・・・。『金閣寺』は新潮文庫で約250頁(昭和44年18刷)、これなら再読できそうだが活字が小さくて老人力がついてきた身にはつらい・・・。新たに買い求めた方がよさそうだ。

樋口一葉が紙幣の肖像に採用された年に『にごりえ』や『たけくらべ』、『十三夜』などを新潮文庫で読んだ。『たけくらべ』のすーっと余韻を残して終るラストが印象的だった。60頁に満たない短編、再読できそうだ。擬古文は苦手だが・・・。

北杜夫の『木精(こだま)』は記録では4回読んでいるが、この小説は何回でも読みたい。ただし春はこの小説にふさわしい季節ではないかもしれない。晩秋から初冬に読むのがいいと思う、それも夜中に。

あとは・・・、山本有三の『波』。中学生のときに図書館で借りて読んだという記憶があるがストーリーは全く覚えていない。

読書の春になった。


週末読書はこの本

2010-03-17 | A 読書日記
 

『永すぎた春』三島由紀夫/新潮文庫 40年ぶりの再読をようやく終えた。婚約してから結婚するまでの期間に男女ふたりに起こる様々な出来事。三島由紀夫の小説にしては随分俗っぽい内容だと思うのは読者が俗っぽいからなのか・・・。

ちょうどタイミングよく先日注文しておいた『国土学再考』大石久和/毎日新聞社が今日届いた。今年の長野県公立高校の国語の入試問題がこの本から出題されたことは書いたが、確かめると「人が育てる美しい国土」という章の「人が働きかけてこそ生まれる「自然」」と「日本の自然美と日本人の自然観」であることが分かった。

この週末に読もうと思う。


小野竹喬展

2010-03-16 | A あれこれ

■ NHK教育テレビの「日曜美術館」はよく観る番組です。14日は日本画家 小野竹喬の作品が紹介されました。

不要なものを削って削って最後に残ったものを捉えた風景、グラフィックな構成と淡い色彩が晩年の作品の特徴でしょうか。裸木の枝越しの空を描いた「夕茜」や代表作の「宿雪」などが紹介されました。

「夕茜」は枝という現実の向こうに茜色に染まる空を理想郷として描いているかのようでした。

番組にゲストとして出演した洋画家の入江観さんが竹喬の絵を「感性の砥石で研ぎだした自然」と評してしましたが、作風を的確に捉えた上手い表現だと思いました。

竹喬展@竹橋。竹橋の東京国立近代美術館で小野竹喬展が開催されています。この展覧会の会期は4月11日まで。自然との謙虚な対話によって生まれた静かな絵。観に行きたいです・・・。