■ 久しぶりのアップです。今回は長野県飯山市の民家(198008)。茅葺き屋根の場合15~20年位で葺き替える必要がありますが、かなり費用がかかることや人手不足(地域力の低下)などの理由で茅葺き屋根をこのように鉄板で葺いてしまう例が多いです。
風景によく馴染む茅葺きの民家が今ではあまり残っていません。残念なことです。この屋根も鉄板で葺いてしまっています。煙出し(だと思います)は塞がずに残しています。それが特徴的な外観をつくっています。職人さんの心意気を感じます。
■ 久しぶりのアップです。今回は長野県飯山市の民家(198008)。茅葺き屋根の場合15~20年位で葺き替える必要がありますが、かなり費用がかかることや人手不足(地域力の低下)などの理由で茅葺き屋根をこのように鉄板で葺いてしまう例が多いです。
風景によく馴染む茅葺きの民家が今ではあまり残っていません。残念なことです。この屋根も鉄板で葺いてしまっています。煙出し(だと思います)は塞がずに残しています。それが特徴的な外観をつくっています。職人さんの心意気を感じます。
■ 衣服(という表現が適当なのかわかりませんが)というのは体を「包む」ことによって、体温を保つ、体形を保つ、体の一部を隠す、体を飾るといった目的を達成しています。
この衣服にある目的を達成するために「仕切る」という機能を付加することを思いついた友人がいます。考案したのは男性用下着、名付けてパーティション・トランクス。
パーティションは仕切り、仕切ることという意味。この単語は専ら建築用語として使われていると思っていました。空間の仕切り、間仕切壁。
ネットで検索してみてIT用語としても使われていることを知りました。ハードディスクを複数の領域に区切ること、あるいは区切られた領域のことだそうです。
友人の付けた名前によってパーティションは衣服用語にもなったわけです。柔軟な発想にびっくり! そして拍手!
■ 長野県内の某高校の部室棟。
鉄骨の柱と梁は錆止め塗装止まり、仕上げの塗装は施されていないが扉の緑色とマッチしている。外壁の白色とも対比的で柱の繰り返しが際立っている。美しい。
この部室棟で青春している生徒達は「繰り返し」を美しいと感じているだろうか・・・。
■ 前稿を書いたときは続稿の内容が決まっていたわけではなく、まとめを先送りしたに過ぎなかった。
何か書こう・・・。
住居の原初は自然の横穴ということになるだろうか。なんとなくそのような教科書的なイメージが浮かぶ。(有名な壁画も横穴で見つかったんだっけ。いくら無知を曝けるといっても壁画の名前くらい調べて書いておこう・・・、そうラスコー洞窟やアルタミラ洞窟の壁画。 ? これらの洞窟って住居ではなかったのかな?)。
横穴はやがて日本では竪穴式住居になる。横穴から竪穴への変化。壁の無いこの住居に壁が出来て屋根が持ち上がる・・・。そこで出来るのが現代にまで通ずる民家の原型だ。この辺の歴史を藤森さんがちくま新書で概観していると思うが未読なので内容が分からない。書名も調べないと分からない。
住居の歴史の過程で人体近傍に留まっていた環境の制御は次第にそのエリアを広げていく。 冬、厚着をしたり火鉢で暖を採っていた昔の住居、やがて設備によって部屋を暖めるようになると冬でも薄着で生活するようになる。エネルギーを大量に消費する生活スタイルの到来と定着・・・。
化石エネルギーが枯渇する日もそう遠くはないだろうし、それに代わる原子力なども扱いに不安が残る。中越沖地震による発電所のトラブルをもっと深刻な事態だと捉えておいた方がいい。
太陽エネルギーなどを利用することも次第に盛んになっては来たが、代替エネルギーの利用を進めてもエネルギーを使うという生活スタイルに変わりはない・・・。
今読んでいる本(『「縮み」志向の日本人』)によると日本人は縮み志向なのだという。自然を縮めて庭を造り更に縮めて盆栽を作って室内に持ち込んでしまった、と著者は指摘している。
この考え方に倣って住まいを縮めて衣服にしてしまうか・・・。環境を秩序づける(制御する)という機能を住まいから衣服に負わせるか、昔のように。
でも一度覚えた快適な生活を昔に戻すなどということは不可能だろうな。いまさらかまどで薪を焚いてご飯を炊くなどという生活に戻れるわけがない。部屋の真ん中に据えた火鉢で暖を採るなどという生活に戻れるわけがない。電気の無い生活なんて、考えられな~い!
化石エネルギーをとことん使って、ひたすら環境を汚染しつづけて・・・。原子力発電所でとんでもないトラブルが発生して・・・。
始めのあるものには必ず終わりもある・・・って一体何が書きたい。
テーマから外れてきたが軌道修整する気もなし、外れてもいないか。
何やらお疲れモード、こんな夜はパ~ッと飲んで寝るに限る。
■ 仮に建築を「人体を取り囲む環境を秩序づける装置」とでも定義すれば日傘も衣服もその範疇に含まれることになる。
具体例を書く。登山をしてテントを張ってシュラフの中で寝るということを考えてみる。テントは雨風を防ぐ機能は備えているが、断熱性能は備えていない。で、シュラフに断熱性能を分担させていると捉えることができる。この場合テントはもちろんシュラフも建築というわけだ。
雨漏りする部屋で傘を差しているというマンガの図、この場合傘は建築の基本である雨を防ぐという機能を補っている。
寒い季節に室内で厚着をする。これもシュラフと同様に建築の断熱性能を補うという行為とみなすことができる。 先の定義に拠れば衣服も建築なのだ!?。
だが衣服を建築と捉えることには違和感がある。ということは先の定義は建築の概念を広げすぎているということなのだろう。
建築は「空間」を秩序づける装置とでも定義すべきであろう。この場合には人体の「近傍の環境」を秩序づける衣服は建築からは除外されることになる。ではパラソルは? これは建築とみなして差し支えないだろう。パラソルは名前の通り直射日光を遮り、空間を秩序づけるという建築の定義に合致しているのだから・・・。最もプリミティブな建築といえるだろう。
この稿つづく・・・。
■ 久しぶりに出かけた書店で手にした『「縮み」志向の日本人』李 御寧/講談社学術文庫、明日読もう。
**小さいものに美を認め、あらゆるものを「縮める」ところに日本文化の特徴がある。世界中に送り出された扇子、エレクトロニクスの先駆けとなったトランジスタなどはそうした「和魂」が創り出したオリジナル商品であった。他に入れ子型・折り詰め弁当型・能面型など「縮み」の類型に拠って日本文化の特質を分析、〝日本人論中の最高傑作〟と言われる名著。** だそうだ。
彼岸過ぎから読み始めた『彼岸過迄』新潮文庫だが、この小説は漱石が修善寺での大患(このとき漱石は臨死体験をしていると何かで読んだ記憶がある)後に初めて書いたそうで、**久し振りだから成るべく面白いものを書かなければ済まないという気がいくらかある。**と連載を始めるに際して書いている。
100頁過ぎまで読み進んだところで、ようやく小説が動き出した。これから面白くなるのかもしれない。途中で投げ出すことなく最後まで読もう。文豪の作品だもの・・・。
♪「いいじゃないの幸せならば」と佐良直美さんは歌った。丹下健三さんなら「いいじゃないの美しければ」と建築を語っただろう。
丹下さんの作品は遠景が美しい。建築を都市との関係で捉えてデザインしているから上空から俯瞰するとその意図がよく分かる。代々木体育館然り、広島平和記念資料館然り。
では丹下さんに師事した黒川さんはどうだろう。「いいじゃないのマスコミ受けすれば」 否! 「いいじゃないの思想が表現できれば」といったところだろう。
このところ黒川さんの建築について考えている。代表作は何だろう・・・。「中銀カプセルタワービル」あたりに落ち着くような気がする。
「メタボリズム」、都市や建築を生物のアナロジーとして捉えて新陳代謝すべきものという考え方。この思想を具現化した建築の代表作品が「中銀」だ。
黒川さんが30代半ばで設計したこの作品、カプセルは交換されることもなく、設備配管は新陳代謝できず、メタボリック症候群で取り壊しが決まったと聞く。
残念な結論だ。せめてカプセルひとつだけでも保存できないものだろうか。
尤も黒川さんは**建築を含め目に見える物質の寿命は短いのに対して思想は永く残っていく。私が本当に作りたいのは誰にでも伝わっていく思想である。**と語っている(『建築家のメモ メモが語る100人の建築術』丸善)。
「共生の思想」は黒川さんの願い通り後世に残るだろう、と僕は思う。
■ 国立新美術館については既に書きました。先日亡くなった黒川紀章さんにこの作品以降、竣工した作品があるのかどうか分かりませんが、たぶんこの美術館が最後の作品でしょう(日本設計との共同設計)。
相反するが共に不可欠な要素の「共生」。当初は対象が建築と自然だったと私は理解しているのですが、機械の時代と生命の時代、過去と現代、グローバリズムとローカリズムという相反する思想、というようにこの「共生」という概念は次第にその対象が広がっていったのでしょう。
この美術館ではいくつかの共生が具現化されていると黒川さんは説明しています(「新建築」07/1月号)。
歴史的建造物(旧陸軍歩兵第三連隊兵舎:写真の左側の建物)と新しい現代建築との共生、規則と不規則(円錐と曲面のガラスの壁、両者は機械の時代と生命の時代の象徴と捉えることも可能)の共生、そして本来の建築と自然の共生・・・。
「共生(きょうせい)」は仏教用語の共生(ともいき)に由来するそうですが、50年も前から黒川さんが提唱してきたこの言葉は、いまや政治の世界でも使われるほど馴染みになりました。
建築は思想、哲学の表現手段ともなり得る奥の深い存在、ということを私は黒川さんの著書や雑誌に掲載される論文によって理解しました。因みに丹下さんの作品によって建築は美しいものということを知りました。
黒川さんの追悼記事が週刊誌などに掲載されていますが、建築家としての評価よりも先の選挙でのパフォーマンスによって奇人・変人として取り上げられていること、関心の対象が専らそこにあるということが残念でなりません。
■ **氷点下20度を下回る日が珍しくない旭川市では、2003年に20人を越える野宿者が確認された。その中には雪が膝上まで積る河川敷の橋の下をテント地で覆って通年を過ごす54歳の女性もいたという。**
日本の野宿者の過酷な生活のルポルタージュ。「野宿から脱出したくても脱出できない」実態が次から次へと紹介される。
多くの人は、野宿に至ったことを「社会の問題」ではなく「本人の問題」だと捉えがちである。しかし著者はそうは捉えない。椅子とりゲームに喩えて社会の構造的な問題なのだ、と指摘する。
著者は20年以上も野宿者の支援活動に携わってきたという。その活動を通じて見てきた社会の「最底辺」に生きる人たちの極貧の日常生活。
もうらしい(気の毒な、かわいそうなという意味の信州の方言)生活ぶりに思わず涙ぐんでしまった。
帯に「若者に告ぐ!」とあるのは現在400万人ともいわれるフリーターから野宿者になっていくパターンが仮に1パーセントだとしても4万人、5パーセントなら20万人!にもなるからだ。
『ルポ最底辺 ----不安定就労と野宿』生田武志/ちくま新書
■ 建築家の黒川紀章さんが亡くなった。
建築家の書いた本で最初に読んだのが黒川さんの『情報列島日本の将来』第三文明社だった。これは黒川さんが30代のときに書いた本だが、既にこの本の「二元論からの脱出」という章で「共生」という概念について触れている。
日本の伝統的な住宅にみられる縁側、内でも外でもない空間。建築と自然とを繋ぐ役割を果たす「縁」。建築と自然、あるいは都市との共生はこの「縁」空間、「中間領域」を設けることで可能となる。要するにこういう考え方だと私は理解している。
この考え方を最も明快に具体化したのが福岡銀行本店だと、私は思う。アーバンルーフという屋根のついた屋外空間を都市に開放している。学生時代に見学に出かけてこの空間に設えてある黒御影石のベンチに座ったことを今でも憶えている。
黒川さんは建築のみならず中国やロシアの地方都市の計画なども手掛けて、国際的に活躍した建築家だがその実績に相応しい評価を必ずしも得ていないように思う。何故だろう。
この本に黒川さんが自身の人生を総括する文章を載せている。
**黒川紀章は自ら、建築家であるまえに、思想家であると語っていた。一九六〇年から彼が語り、書いた言葉=コンセプトは、新陳代謝、循環(リサイクル)、共生、突然変異、情報、生態系(エコロジー)、中間領域、曖昧性、遺伝子、アブストラクト・シンボリズム等、実に目まぐるしい。しかし、四十年の創作活動の末に、それらがすべて生命の原理の基本コンセプトであるという種明しをされると、その思想の一貫性に驚かざるを得ない。(中略)アブストラクト・シンボリズムは、彼の創作活動の作法(手法)とでもいうもので、近代建築の遺産としての抽象化を継承しながら、それぞれの異なる土地や文化のアイデンティティをシンボリズムとしてとり入れようとするものであった。(後略)**
黒川さん、長い間お疲れ様でした。
■『深層社会の点描』筑摩書房 この本の発行は1973年、もう30年以上も前のこと、随分昔の本だ。この本には松本清張の作品の評論が収録されている。
二つの要素(具体的には人)の対照を強調しながら、両要素の遭遇ないし符合を描くこと、つまり異次元の遭遇、これが松本清張の小説の特徴だと著者の作田啓一氏(社会学者)は指摘している。
昨年も書いたと思うが、清張の代表作の「砂の器」や「ゼロの焦点」、「球形の荒野」などは将にこの異次元の遭遇をモチーフにしている。異次元の遭遇によって生ずる悲劇、ドラマ。例えば「砂の器」は主人公の作曲家(TVドラマでは中居君が演じた)と彼の遠い過去を知る現役を引退した警察官との遭遇が生んだ悲劇(殺人)を描いている。
ところで異次元の遭遇は小説や映画(例えば「ET」)の世界だけに限られているわけではない。
以下本題。
建築の世界。例えば老人デイサービスセンターと保育園や小学校との一体的整備、従来全く異なる施設として個別に計画されていた異次元の両者が遭遇することによって新しい価値というか意義が生まれる。ショッピングセンターと映画館との複合施設についても同様の捉え方ができそうだ。あるいは建築とは無縁なところで使用されている材料の建築への応用なども同様。
他の世界にも同様の事例をみることができるだろう。全く無関係な産業どうしの遭遇、例えば医学と農業技術の遭遇。全く無関係な世界に身を置く人どうしのコラボ。
「異次元の遭遇」という視点からの発想、それは新しい産業開発や商品開発など様々な分野で有効のように思われる。
■ 『マンボウ雑学記』 この新書を手にしたときは岩波新書も変ったものだ、と思った。1981年、26年前のことだ(この年に読んだ本が時々出てくるが偶然)。
「はしがき」に著者の北杜夫が書いている。**これは伝統ある「岩波新書」にはふさわしくない本である。むしろ、中学生や高校生むきのエッセイといってよい。**
著者の謙遜もあるだろう、内容は総じて難しくて対象が中高生かどうか。 だが確かにこれはエッセイ、だから読了後に先のような感想を持ったのだった。
今は新書ブーム。新書の創刊が続いた。そして新書のイメージも変わった。エッセイが新書に収録されることも別にめずらしいことではなくなった。
今日『池辺の棲家』を読み終えた後、この長いタイトルの本を手にした。新書だがこれもエッセイ。著者は映画の字幕翻訳者の太田直子さん。海外の映画作品翻訳の舞台裏、それに気になる日本語について綴っている。
男「どうしたんだ」
女「あなたが私を落ち込ませているのよ」
男「僕がなにかしたか」
吹き替えならこれで問題はないが、字幕は一秒四文字が原則だそうで、
男「不機嫌だな」
女「おかげでね」
男「僕のせい?」
と、こんな字幕ができあがるのだそうだ。流石、という他ない。でも著者はこれを苦肉の策だと書いている。女の台詞で皮肉がすんなり伝わるかどうか気になるとのこと。きちんと伝わると僕は思うけれど。
長いタイトルは日頃のうっぷん(?)晴らしか?
日本語の誤用などについての厳しい指摘はきちんとした文章を書こうと思っているブロガー必読かも知れない。
著者はこんな指摘もしている。**時間とカネの節約。このふたつを最優先にする効率主義がちまたにあふれている。質を保つために必要な時間(労力)とカネを惜しめば、世界は低劣で薄っぺらなものになってゆくだろう。けれどもヒトは順応性が高いので、いつの間にかそれに慣れてしまう。怖いのはそこだ。**
どこかの業界にも当て嵌まるこの鋭い指摘、「正鵠を得ている」って言うんだっけ。
『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』太田直子/光文社新書