40:池鯉鮒(首夏馬市)
岡崎から15.3里で池鯉鮒宿である。いまは知立町という。この地の知立明神の池に多くの鯉や鮒が飼ってあったので地名になったという。毎年4月25日から十日間行われた馬市は有名であったが、その馬市のさまを描いたのがこの広重の絵であるが、広重は「首夏馬市」と題して初夏にしているし、7月にここを通った広重は馬市を見てはいない。
この図は画面一杯に夏の緑の色が溢れている絵である。また、見渡す限りの炎天の広野の感じも強く感じさせている。野中の一本松がこの絵の中心である。その下に馬市に集った群衆のかたまりが見え、ざわめきも遠く耳に達する思いがする。市で売られる馬の群が、馬主と博労とともに描かれている。市へ食べ物を売りに行く行商人が市の方へ歩く姿も一つの情景である。あまり顧みれらない図であるが、決して凡作ではなく、夏の風景画としてその暑さの感じられる点であまり類がない。
この池鯉鮒に近く、「伊勢物語」で知られた菖蒲の名所、三河の八ッ橋があるが、これは広重の時代にも旧蹟だけが残っていた。
この図には異版がある。それは右手に鯨のような人形をした遠山がある図とない図がある。この遠山の山容から、これを俗にクジラといって、これが初版であるというひともいるが、何れが初版かは判断はできない。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岡崎から15.3里で池鯉鮒宿である。いまは知立町という。この地の知立明神の池に多くの鯉や鮒が飼ってあったので地名になったという。毎年4月25日から十日間行われた馬市は有名であったが、その馬市のさまを描いたのがこの広重の絵であるが、広重は「首夏馬市」と題して初夏にしているし、7月にここを通った広重は馬市を見てはいない。
この図は画面一杯に夏の緑の色が溢れている絵である。また、見渡す限りの炎天の広野の感じも強く感じさせている。野中の一本松がこの絵の中心である。その下に馬市に集った群衆のかたまりが見え、ざわめきも遠く耳に達する思いがする。市で売られる馬の群が、馬主と博労とともに描かれている。市へ食べ物を売りに行く行商人が市の方へ歩く姿も一つの情景である。あまり顧みれらない図であるが、決して凡作ではなく、夏の風景画としてその暑さの感じられる点であまり類がない。
この池鯉鮒に近く、「伊勢物語」で知られた菖蒲の名所、三河の八ッ橋があるが、これは広重の時代にも旧蹟だけが残っていた。
この図には異版がある。それは右手に鯨のような人形をした遠山がある図とない図がある。この遠山の山容から、これを俗にクジラといって、これが初版であるというひともいるが、何れが初版かは判断はできない。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』