日本男道記

ある日本男子の生き様

40:池鯉鮒(首夏馬市)

2010年07月25日 | 広重東海道五十三次
40:池鯉鮒(首夏馬市)
岡崎から15.3里で池鯉鮒宿である。いまは知立町という。この地の知立明神の池に多くの鯉や鮒が飼ってあったので地名になったという。毎年4月25日から十日間行われた馬市は有名であったが、その馬市のさまを描いたのがこの広重の絵であるが、広重は「首夏馬市」と題して初夏にしているし、7月にここを通った広重は馬市を見てはいない。
この図は画面一杯に夏の緑の色が溢れている絵である。また、見渡す限りの炎天の広野の感じも強く感じさせている。野中の一本松がこの絵の中心である。その下に馬市に集った群衆のかたまりが見え、ざわめきも遠く耳に達する思いがする。市で売られる馬の群が、馬主と博労とともに描かれている。市へ食べ物を売りに行く行商人が市の方へ歩く姿も一つの情景である。あまり顧みれらない図であるが、決して凡作ではなく、夏の風景画としてその暑さの感じられる点であまり類がない。
この池鯉鮒に近く、「伊勢物語」で知られた菖蒲の名所、三河の八ッ橋があるが、これは広重の時代にも旧蹟だけが残っていた。
この図には異版がある。それは右手に鯨のような人形をした遠山がある図とない図がある。この遠山の山容から、これを俗にクジラといって、これが初版であるというひともいるが、何れが初版かは判断はできない。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

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39:岡崎(矢矧橋)

2010年07月18日 | 広重東海道五十三次
39:岡崎(矢矧橋)
藤川から6里で、城下町岡崎へ入る。この地は東海道中でも知られた繁華な町であった。若い徳川家康の居城でもあり、「五万石でも岡崎さまは、お城下まで船がつく」の里謡もあるように、本多氏五万石の城を、広重も遠く描いている。画題となっている「矢矧橋」を画面の中央に描き、しかもかなり精写している。この橋は街道一の長橋で、370mあり、有名であった。橋上を大名行列が行く。遠く見えるのは本宮山、城の下に町の屋根が重なっているが、川の岸は芦萩が繁り、水は静かに流れている。
この矢矧橋の上で、豊臣秀吉は日吉丸時代、蜂須賀小六に拾われた話があり、矢矧の里には、牛若丸と浄瑠璃姫との一夜の悲恋を描いた浄瑠璃物語も残っている。また江戸から離れて、320余里、およそ十日の旅路である。この花街の女が岡崎女郎衆と謳われて有名であったのも、さこそと偲ばれる。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

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38:藤川(棒鼻図)

2010年07月11日 | 広重東海道五十三次
38:藤川(棒鼻図)
藤川は赤坂から9里である。広重は天保三年に八朔の御馬献上の行列に加わって東海道を下り、東海道五十三次の画ざいはこの時に、彼の画嚢に納まったのである。しすて江戸に帰った後、この続絵を描き、翌四年から出版、五年に五十五枚を完成したのである。御馬献上というのは、毎年八月一日を期して幕府から朝廷へ馬匹を献上する慣例であって、その行列が、いま藤川宿の入口にさしかかったところが、この絵である。町役人や旅人は土下座してこの行列を迎えている。献上の馬には御幣をつけ、多くの侍がつき従っている。極めて厳粛な雰囲気の絵であり、霞の描き方も様式的である。こうした情景は、広重がこの一行に加わっていたから描けたものと思われるし、この東海道上りによって広重の東海道絵が生まれたことを思えば、絵の出来栄えよりも一つの記念すべき作品とも見られる。画題の「棒鼻の図」は、藤川宿の入口を意味する。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

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37;赤坂(旅宿招待)

2010年07月04日 | 広重東海道五十三次
37:赤坂(旅宿招待)
御油から赤坂の間は1.7里で、五十三次中では最も感覚が短い。しかも、この間の街道の松並木はよく残っている。そして御油から赤坂へかけての街道筋、宿駅ともに、国鉄が街道沿いを走るようになったため、置き去られて、かえって昔の面影を最も残しているといわれ、吉田・御油・赤坂は旅の憂いさをはらす女の町としても知られ、「御油や赤坂、吉田なくば、何のよしみで江戸通い」の里謡もあるくらいで、そうした繁華を物語る家並みも今にそのまま見ることも出来る。
広重は画題を「旅宿招婦の図」として、全くの風俗がを描いている。庭のそてつの大樹を中央に、旅篭屋の情景が写実的に描かれている。前の御油は旅篭屋の前、中に入って、この赤坂の図といった感じである。旅宿の部屋の左手は旅人の部屋で、女中が二人前の膳を運んでいる。部屋の中には横になった客が一人見え、縁側に風呂上がりのもう一人の客がいる。呼ばれた按摩も来た。梯子段を下る客の足音など、慌ただしい夕飯時分の旅宿風景を見せている。また右の部屋は飯盛女の部屋で、いま身仕舞いの最中である。宿場女郎の雰囲気は、その白塗りの顔にも知られ、気分満点で、旅情のつきないものがある。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

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36:御油(旅人留女)

2010年06月27日 | 広重東海道五十三次
36:御油(旅人留女)
吉田から10.4里で御油の宿に入る。広重は、この宿場の夕暮時を描いている。画題は「旅人留女」で、そこか旅篭屋をと、さしかかった旅人を宿の女が強引に自分のところに引きとめ、引きずり込もうとしているユーモラスな一情景である。一九の「膝栗毛」にも、「はや夜に入りて両側より出くる留め女、いづれも面をかぶりたる如くぬり立てるが袖をひいてうるさければ・・・」とある。絵も旅人が二人、弥次郎平喜多八を想定した絵かもしれない。広重は、「膝栗毛」からヒントを得ている図をかなり描いている。このタックルのさまは写実で人物の表情もよく出ている。旅篭屋の中では、すでに泊まりをきめた旅の侍が、媼のすすめるタライで足をすすいでいる。この侍を引き入れた女であろう、頬杖をついてタックル中の留女の次の成果を見守っているのも面白い。飯盛女が一人、これもタックルを見守っている。宿場の夕暮時の風趣満点で留女の喧しい声が聞こえているようである。
この絵で注目されることは、絵の中に、版元・彫師・摺師・絵師の名を書き入れてあることである。旅篭屋の店先に掛けられている定連の講中札に右から「東海道続画」「彫工治郎平?」「摺師平兵衛」「一立斎図」と記され、円形の中に「竹之内板」とある。画中に絵師・版元などの名を趣向して入れることは浮世絵版画には度々見受けるが、摺師・彫師の名まで入れることはあまりない。この大シリーズのスタッフをここで公表することは、絵師・版元ともにこの作品に力を入れていることを示していたいと見ていい。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

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35:吉田(豊川の橋)

2010年06月20日 | 広重東海道五十三次
35:吉田(豊川の橋)
二川宿から6里で吉田の七万石の城下町へ入る。吉田は、今の豊橋である。右手前に吉田城を描き、いま修繕中である。「吉田通れば二階から招く」の俚謡は今に伝わっていて、この町の繁栄していたことが偲ばれる。左手に豊川にかかる画題となっている「豊橋橋」が見える。城の足場から職人が小手をかざして、その橋の方を眺めている姿が面白い。この天守閣を見ると、大阪落城の時、逃れた家康の孫娘千姫の昔話が思われる。城と橋梁の機構美を悠々と流れる豊川の藍がつないで、その美しさを増している。
遠く見える山は、鳳来寺山であろうか。今も信仰の絶えない豊川稲荷は、この川の上にある。この絵は北斎を思わせるような構図であるが、北斎の厳しさとは、また違った軟らかさと静かさを見せて、広重の画質を、よく出している。遠くの空の茜色など広重でないと出せない色である。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

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34・二川(猿が馬場)

2010年06月13日 | 広重東海道五十三次
34・二川(猿が馬場)
白須賀から4里で二川宿。このあたりは、赤松林はあるが平坦で画ざいにも乏しいことろである。街道の右手には巌殿観音があり、去来の句、「岩鼻やここにもひとり月の客」がある。広重は、風景がでなく、情景画としてここを描いている。小松原の猿が馬場(画題)の夕暮で、なにもかも薄暗い夕闇の中を、旅する三人の瞽女の寂しい姿がいく。その足もとも重く。たどたどしく、今宵の宿へと辿っている。肩にした三味線も重たげである。名物かしは餅の看板の茶見世で一休みしようか、今日の稼ぎ高を三人で相談しているのであろうか。小松原をひろくとった構図も、旅の悲しい風情を見る人に感じさせるのに役立っている。
二川のあたり、境川が遠江と三河の二国を分けている。名物かしは餅の店は、今はない。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

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33・白須賀(汐見阪)

2010年06月06日 | 広重東海道五十三次
33・白須賀(汐見阪)
荒井宿から6.8里。ひろびろとした遠州灘の大景観が見られる汐見阪を越して、白須賀の宿に入る。画題も「汐見阪ノ図」とある。いま、坂を下って大名の行列がいく。この絵は左右をシンメトリカルに構図した作として面白い。手前の丘陵の線が左右に高く、中央がへこんでいる孤線であるが、この湾曲した線を用いることは、広重独特の構図法といってよく、他の図でも度々これを用いている。左右の松の木も、ほぼ相対的であり、遠く水平線の白帆も相対的で装飾的である。「東海道名所図絵」に「汐見阪白菅の東の阪路をいう。眼下に滄海をみれば汐見阪の名あり。所謂、遠州七十五里の大灘眸を遮り弱水三万里の俤あり。渚の松緑濃く沖にこぎつける漁舟は雲の浪にみえかくれ、浪間の艪、浦浜の千鳥みるは汐見阪の眺望なるべし」とある。そのままの姿である。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

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32・荒井(渡舟図)

2010年05月30日 | 広重東海道五十三次
32・荒井(渡舟図)
荒井(新居)は、舞阪から海上4・の渡しを渡った浜名湖の西岸の宿場である。ここに関所があり、箱根とともに海道の重要な関所であった。
絵は海上幔幕を張って渡る参勤交代の大名の渡し舟を中央に、手前の渡し船には中間どもが乗っているが、一里の、のどかな海上に、すっかりあきて大あくびである。他のものも背中をまるめて居眠っている。のどかな春の海は、その色にも、空の色にも感じられる。対岸に荒井の関所が見える。この関所は、慶長五年(1600)に徳川家康が建てたという。以後管理は譜代の大名、吉田城主が当たり、かなりやかましかったという。
画題は「渡舟ノ図」とあるが、のちに「荒井関」となっているものがある。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

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31・舞阪(今切真景)

2010年05月23日 | 広重東海道五十三次
31・舞阪(今切真景)
浜松から11.3里で舞阪に達する。ここは浜名湖の東岸の宿場である。ここから海上4里で対岸の荒井に達する。広重のこの絵は一つの風景画としては構図的にも成功している作である。この五十三次は風俗的風景がであるところが一つの特徴であるが、広重は例えば、由井。江尻のような完全ともいうべき風景画を処処にはさんで変化を与えているが、これもその内の一つをいえる。ただ、この絵で、中央に突き出ている岩山が舞阪では実際には見られない。そこで舞阪の風景としては写実的でなく、一種の想像図という外はない。深い藍の海の色が、この絵の大部分を占めているが広重の藍は、外人がヒロシゲ・ブルーと呼ぶほどに、どの絵にも印象的な美しさを与えている。右手に遠く、小さく白雪の富士が描かれているが、富士の姿も、この辺を最後に遠く視野から消えてゆく。
舞阪から対岸の荒井までを、「今切」というが、ここは古は陸地であって、浜名湖は遠州灘とは続いていなかった。明応八年(1499)の大地震と津波で、この間が切れて浜名湖と海はつながってしまった。それ故に今切の名が出来たが、切れるという名を嫌がって縁談のきまった女性はここを渡ることなく、湖辺を迂回して、本坂峠を越したという。画題は「今切真景」となっている。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

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30・浜松(冬枯図)

2010年05月16日 | 広重東海道五十三次
30・浜松(冬枯図)
見附を出て、16.8里。街道は再び海へ近づいて浜松へ達する。しかし、広重の絵は、その宿から外れた街道筋の一本松を描いている。画題は「冬枯ノ図」。
まことに寒々とした冬の枯野の眺めである。杉の根方に雲助どもが焚火をして暖をとっている。旅人が廻し合羽も寒そうに、焚火の火をかりて一服している。里の子守が熊手で枯草を集めている。手前の土手の草も枯れた色である。風はなく焚火の煙は真っ直ぐに杉の梢へのぼっているが、いかにも冷たい野面の色である。遠く見える浜松の町の上に浜松城がそびえている。袋井の絵とよく似た気分の絵であるが、これは静かに、つめたい大気の絵といえよう。
浜松へ入る途中に古歌にもある引馬の原があるが、この絵は、このあたりの風景であろう

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

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29・見附(天竜川図)

2010年05月09日 | 広重東海道五十三次
29・見附(天竜川図)
袋井から六粁で見附宿(現在磐田市)につくが、この宿を出ると、天竜川で行く手を拒まれる。しかし、天竜川は急流なので舟で渡った。この舟渡しの情景を描いたのが、この絵である。東海道には川の絵が多いが、この絵は川の絵の中でも傑作といわれている。それは、霧に煙る遠景の色彩処理と近景の描写にすぐれた広重の手腕が示されているからである。この絵では近景の二艘の渡し舟と、二人の船頭が焦点となっている。しかも一人の船頭のもつ棹が、画面唯一つの縦の線となってこの絵に活を与えている。この構図法は実にすばらしい。この一本のカッキリした直線によって、中景の河原の旅人の群の遠さも生き、さらに川霧に模糊とした対岸の樹木の二段描写が遙かに、遙かに、その遠さを見せている。全体の色彩も実に簡略で、しかも情景美が浮き上がっている。また二人の船頭の描写も巧みである。画題は「天竜川図」であるが、この絵は天竜川にこだわらず、風景画として秀逸である。この図には、遠景の二段のぼかしの下に二本の実線が霞のように入っている図がある。これは校合摺の時に残されたぼかしの当たりであったが、そのまま削り残ってしまったものらしく、後には削られている。

なお、見附と次の浜松の間で、江戸、京都間百二十里の丁度半ばに達する。ちまり江戸へも、京へも六十里のところに中の町がある。
絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

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28・袋井(出茶屋)

2010年05月02日 | 広重東海道五十三次
28・袋井(出茶屋)
袋井宿は掛川から九.七粁で、この絵は宿外れの一風景である。画題は「出茶屋ノ図」であり、出茶屋とは街道の、ところどころに葭簀張りの簡単な休み所のことで、旅人はこうした茶屋で足を休め渇きをいやしたものだ。欝蒼と茂る大樹の下の出茶屋で、飛脚は腰をおろして一服し、駕篭かきの一人は駕篭に休み他の一人は煙草の火をつけている。枝から大薬罐をつるしている茶見世の媼、立ちのぼる薪の煙、まことに野趣横溢の風景である。右手はひらけてとり入れの済んだ野面と村落。左手に絵をよせて、右手の草むらに立てた立札で画面の均衡をはかっている。その立札の上にとまっている燕の姿が印象的で、しかも、この小鳥が、やがてここから去っていくであろう燕であるところに旅情を深く感じさせている。
版元保永堂は、この東海道を出版するに当たって、仙鶴堂の助力を得、合版で十一図(他に岡部の図は仙鶴堂版)出版したが、この袋井の図を最後として合版の印は終わって、以後京都まで、保永堂の単印。つまり保永堂の独力で出版されている。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

27・掛川(秋葉山遠望)

2010年04月25日 | 広重東海道五十三次
27・掛川(秋葉山遠)
掛川宿は日坂から七.二粁。この掛川の宿外れにある塩井川の土橋を中心に描いたのがこの絵である。向こうから供をつれた僧侶がくる。往きちがう老夫婦の旅人が、腰を曲げて慇懃に挨拶しているもの、僧侶を敬い、後生を願う昔の老人の気配もしのばれる一情景である。掛川、つぎの袋井から浜松あたりの平野では凧あげが盛んである。沖天にあがっている凧や、糸が切れて飛んでいく凧が画面に動きを与えている。遠くに見える峻厳な山は。画題「秋葉山遠望」の秋葉山である。掛川から秋葉山へは三十二粁。東海道で庶民の信仰をあつめていた三尺棒権現によって知られている。右手の田圃で田の草をとる農夫の姿、橋の上の里の子に夏の暑さを見せている。僧侶の胸もとに汗がにじんでいるようにさえ見える。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

26・日坂(佐夜の中山)

2010年04月18日 | 広重東海道五十三次
26・日坂(佐夜の中山)
金谷から七.二粁で次の宿、遠州日坂に達するが、その途中に、佐夜(小夜)の中山がある。ここに夜泣石の伝説がある。日坂の妊娠した女が金谷の夫を訪ねる途中、この佐夜の中山にかかった時に山賊のために斬り殺された。しかし、腹の子は助けられ、附近の女がこれを飴によって育てた。母親が殺された時の血が傍らの石にかかり、その石が夜な夜な泣いたというので、この石を夜泣石といった。この夜泣石は現在もあり、子供を飴で養育したというので、子育飴として名物になっている。
広重は画題に「佐夜ノ中山」とある通り、街道にある、この夜泣石を描き、このあたりの坂道を面白く見せている。坂道の高低を幾分の誇張もあるが、実に巧みに描写している。夜泣石の周囲に集まっている旅人の伝説を偲ぶ府有情が修逸である。右手の山が左へ明るく開けた構図もいい。また、街道の左右に、まばらに立つ松の木がこの絵を生かしている。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』