![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/e7/e1ca4f7b84caba8f63a9f4e4e60d915c.jpg)
【原文】
妻といふものこそ、男の持つまじきものなれ。「いつも独り住みにて」など聞くこそ、心にくけれ、「誰がしが婿に成りぬ」とも、また、「如何なる女を取り据ゑて、相ひ住む」など聞きつれば、無下に心劣せらるゝわざなり。殊なる事なき女をよしと思ひ定めてこそ添ひゐたらめと、苟も推し測られ、よき女ならば、らうたくしてぞ、あが仏と守りゐたらむ。たとへば、さばかりにこそと覚えぬべし。まして、家の内を行ひ治めたる女、いと口惜をし。子など出で来て、かしづき愛したる、心憂し。男なくなりて後、尼になりて年寄よりたるありさま、亡き跡まであさまし。
いかなる女なりとも、明暮け添ひ見んには、いと心づきなく、憎かりなん。女のためも、半空にこそならめ。よそながら時々通ひ住まんこそ、年月経へても絶えぬ仲らひともならめ。あからさまに来て、泊まり居などせんは、珍らしかりぬべし。
【現代語訳】
男は妻を持ってはいけない。「いつでも一人住まいです」と聞けば清々しい。「誰々の婿になった」とか「何とかという女を連れ込んで同棲している」という話を聞けば、ひどく軽蔑の対象になる。「恋の病気を患って、たいしたことの無い女に夢中になっているのだろう」と思えば、男の品格も下がる。万が一、いい女だったとすれば、「猫可愛がりをして、神棚にでも祀っているのだろう」と思ってしまうものだ。ましてや家事を切り盛りする女は情けなく見えて仕方がない。子供ができてしまって可愛がる姿を想像すれば、うんざりする。男の死後、女が尼になって老け込むと、男の亡き後までも恥を晒す羽目になる。
どんな女でも、朝から晩まで一緒にいれば、気に入らなくなり、嫌になるだろう。女にしても、どっちつかずの状態で可哀想だ。だから、男女は別居して、時々通うのが良いのである。いつまでも心のときめきが持続するだろう。不意に男がやって来て泊まったりしたら、不思議な感じがするはずだ。
どんな女でも、朝から晩まで一緒にいれば、気に入らなくなり、嫌になるだろう。女にしても、どっちつかずの状態で可哀想だ。だから、男女は別居して、時々通うのが良いのである。いつまでも心のときめきが持続するだろう。不意に男がやって来て泊まったりしたら、不思議な感じがするはずだ。
◆鎌倉末期の随筆。吉田兼好著。上下2巻,244段からなる。1317年(文保1)から1331年(元弘1)の間に成立したか。その間,幾つかのまとまった段が少しずつ執筆され,それが編集されて現在見るような形態になったと考えられる。それらを通じて一貫した筋はなく,連歌的ともいうべき配列方法がとられている。形式は《枕草子》を模倣しているが,内容は,作者の見聞談,感想,実用知識,有職の心得など多彩であり,仏教の厭世思想を根底にもち,人生論的色彩を濃くしている。