54:大津(走井茶屋)
東海道最終の宿場は大津である。草津から14里。あと12里で、いよいよ京都である。大津は琵琶湖畔第一の町であり、天智天皇大津の宮のあとでもあり、附近には近江八景や、名所旧蹟に富み、大津絵、源五郎鮒などの名物も多い。しかし広重は画題を「走井(はしりい)茶屋」を描いている。ここの茶店では「走井餅」を売っていた。今もこれは大津の名物であり、茶店の前に描かれている、こんこんと清水が湧き出る走井の井戸も保存されている。
茶店の前の街道を、米俵や炭俵を乗せた牛車が連なっていく。京都へ運ぶのであろうか、荷車の牛の歩みののろさが、いかにも京都の近さを思わせる。
この絵で後ろに見える山(逢坂山)がなくて、空を藍ぼかしにした異版であるが、初版といわれるものは、山があり、空の部分が藍つぶしとなっている。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東海道最終の宿場は大津である。草津から14里。あと12里で、いよいよ京都である。大津は琵琶湖畔第一の町であり、天智天皇大津の宮のあとでもあり、附近には近江八景や、名所旧蹟に富み、大津絵、源五郎鮒などの名物も多い。しかし広重は画題を「走井(はしりい)茶屋」を描いている。ここの茶店では「走井餅」を売っていた。今もこれは大津の名物であり、茶店の前に描かれている、こんこんと清水が湧き出る走井の井戸も保存されている。
茶店の前の街道を、米俵や炭俵を乗せた牛車が連なっていく。京都へ運ぶのであろうか、荷車の牛の歩みののろさが、いかにも京都の近さを思わせる。
この絵で後ろに見える山(逢坂山)がなくて、空を藍ぼかしにした異版であるが、初版といわれるものは、山があり、空の部分が藍つぶしとなっている。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』