日本男道記

ある日本男子の生き様

方丈記(十六):一期の月かげ傾きて

2024年06月11日 | 方丈記を読む


【原文】 
抑一期の月かげ傾きて、餘算の山の端に近し。たちまちに三途のやみに向はんとす。何の業をかかこたむとする。佛の教へ給ふ趣は、事にふれて執心なかれとなり。今草庵を愛するも、閑寂に着するも、障りなるべし。いかゞ要なき楽しみを述べて、あたら時を過さむ。
しづかなる曉、このことわりを思ひ続けて、みづから心に問ひていはく、世をのがれて山林にまじはるは、心ををさめて道を行はむとなり。しかるを、汝姿は聖人にて、心は濁りに染めり。棲はすなはち、淨名居士の跡をけがせりといへども、たもつところは、わづかに周梨槃特が行ひにだも及ばず。若しこれ貧賤の報のみづから悩ますか、はた又妄心のいたりて狂せるか、その時、心更に答ふる事なし。只かたはらに舌根をやとひて、不請阿弥陀仏、兩三遍申してやみぬ。
時に建暦の二年、彌生の晦日ごろ、桑門の蓮胤、外山の庵にして、これをしるす。

【現代語訳
抑一期の月かげ傾きて、餘算の山の端に近し。たちまちに三途のやみに向はんとす。何の業をかかこたむとする。佛の教へ給ふ趣は、事にふれて執心なかれとなり。今草庵を愛するも、閑寂に着するも、障りなるべし。いかゞ要なき楽しみを述べて、あたら時を過さむ。

しづかなる曉、このことわりを思ひ続けて、みづから心に問ひていはく、世をのがれて山林にまじはるは、心ををさめて道を行はむとなり。しかるを、汝姿は聖人にて、心は濁りに染めり。棲はすなはち、淨名居士の跡をけがせりといへども、たもつところは、わづかに周梨槃特が行ひにだも及ばず。若しこれ貧賤の報のみづから悩ますか、はた又妄心のいたりて狂せるか、その時、心更に答ふる事なし。只かたはらに舌根をやとひて、不請阿弥陀仏、兩三遍申してやみぬ。

時に建暦の二年、彌生の晦日ごろ、桑門の蓮胤、外山の庵にして、これをしるす。

(文の現代語訳)
さて、わが生涯も、月が山の端に傾くように、余命も終わりに近くなった。たちまちのうち三途の闇に向かおうとしている。いまさら何事にこだわろうか。仏の教えでは、物事について執着するなとある。今、草庵を愛するのも、閑寂に執着するのも、障りというべきである。どうして、不要の楽しみを述べて、無駄に時を過ごそうぞ。

静かな暁に、このことわりを思い続けながら、自分の心に問うてみた。世を逃れて山林にまじわるのは、心を治めて仏道を行うためであった。しかるに、姿かたちは聖人でも、心は煩悩の濁りに染まっている。住まいはまさに淨名居士に倣っているとはいえ、やっていることは、とても周梨槃特の行いにも及ばない。もしかして前世の報いで貧賤に悩んでいるのだろうか。あるいはみだらな心のために狂ってしまったか。そう問うた時、心は一向答える様子がない。そこで心のかわりに舌の力を借りて、不請ながら阿弥陀仏と、両三遍唱えて終わりにした。

時に建暦二年、三月の末ごろ、桑門の蓮胤、外山の庵において、この文章を記す。

◆(現代語表記:ほうじょうき、歴史的仮名遣:はうぢやうき)は、賀茂県主氏出身の鴨長明による鎌倉時代の随筆[1]。日本中世文学の代表的な随筆とされ、『徒然草』兼好法師、『枕草子』清少納言とならぶ「古典日本三大随筆」に数えられる。

方丈記(十五):三界は只心一つなり

2024年06月04日 | 方丈記を読む


【原文】 
夫、三界は只心一つなり。心若しやすからずば、牛馬、七珍もよしなく、宮殿、樓閣も望みなし。今さびしきすまひ、一間の庵、みづからこれを愛す。おのづから都に出でゝ、身の乞食となれる事を恥ずといへども、帰りてこゝに居る時は、他の俗塵に馳することをあはれむ。若し人このいへる事を疑はゞ、魚と鳥とのありさまを見よ。魚は水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林を願ふ。鳥にあらざれば其の心をしらず。閑居の氣味もまた同じ。住まずして誰かさとらむ。

【現代語訳
そもそも、三界のことは心一つ次第である。心がもしも安らかでないならば、牛馬や七珍も役に立たず、宮殿、樓閣に住んでも希望が持てない。今のこのさびしい住まいである一間の庵は、自らこれを愛している。何かのついでに都に出て、身が乞食となることを恥じることがあっても、帰って来てここにいる時には、他人が俗塵にまみれて走り回っているのが気の毒に見える。もし、自分の言っていることを疑う人がいれば、その人は魚と鳥の有様を見るがよい。魚は水にいることに飽きない。魚でなければ其の心はわかるまい。鳥は林にいることを願う。鳥でなければその心はわかるまい。閑居の気味もまた同じことである。閑居してみないで、誰がその趣をわかろうか。

◆(現代語表記:ほうじょうき、歴史的仮名遣:はうぢやうき)は、賀茂県主氏出身の鴨長明による鎌倉時代の随筆[1]。日本中世文学の代表的な随筆とされ、『徒然草』兼好法師、『枕草子』清少納言とならぶ「古典日本三大随筆」に数えられる。

方丈記(十四):たゞわが身一つにとりて

2024年05月28日 | 方丈記を読む


【原文】 
夫、人の友とあるものは、富めるをたふとみ、懇ろなるを先とす。必ずしも情あるとすなほなるとをば不愛。只絲竹、花月を友とせむにはしかじ。人の奴たるものは、賞罰のはなはだしく、恩顧厚きを先とす。更にはぐくみあはれむと、やすくしずかなるをば願はず、只わが身を奴婢とするにはしかず。いかが奴婢とするならば、若しなすべきことあれば、すなはちおのづから身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人を従へ、人をかへりみるよりはやすし。若し歩くべき事あれば、みづから歩む。苦しといへども、馬鞍、牛車と心を悩ますにはしかず。
今一身をわかちて。二つの用をなす。手の奴、足の乗物、よくわが心にかなへり。心身のくるしみを知れゝば、苦しむ時は休めつ、まめなれば使ふ。使ふとてもたびたび過ぐさず。物うしとても、心を動かす事なし。いかにいはむや、常に歩き、常に働くは、養生なるべし。なんぞいたづらに休み居らむ。人を惱ます、罪業なり。いかゞ他の力をかるべき。
衣食のたぐひ、又同じ。藤の衣、麻の衾、得るに隨ひて肌を隠し、野邊のおはぎ、嶺の木の實、わづかに命をつぐばかりなり。人にまじらはざれば、姿を耻づる悔もなし。糧乏しければ、おろそかなる報をあまくす。総てかやうの樂しみ、富める人に對していふにはあらず、たゞわが身一つにとりて、昔今とをなぞらふるばかりなり。

【現代語訳
それ、人が友人を選ぶときは、富者を尊重し、身近に行き来している者を大事にする。かならずしも情ある人や率直な人を愛するわけではない。だがそれなら、絲竹や花月を友としたほうがましである。人に召し使われている者は、賞与が多く、物をくれる人を大事にする。可愛がってくれるとか、平穏無事であることを願ったりはしないものだ。だがそれなら、自分自身を自分の召使にしたほうがましである。どのように自分を召し使うかというと、もしなすべきことがあれば自分で自分の身を使う。面倒でないこともないが、人を従え、人を指示するよりは簡単だ。もし歩くべきことがあれば、自分自身で歩く。苦しいといっても、馬鞍や牛車に心を悩ますよりましである。
それ故自分は、一身を分かって、(主人と召使の)二つの用をしている。手を召使とし、足を乗り物とすれば、自分の思いどおりになる。心が身の苦しみを知っていれば、身が苦しむときは休ませ、元気なときには使う。使うといっても、そうたびたびは度を過ごさない。仕事が大儀であっても気にしない。ましてや、常に歩き、常に動くのは、体にとって養生になる。どうしていたずらに怠けようか。人を悩ますのは罪業である。どうして他人の力を借りるべきだろうか。
衣食のたぐいもまた同じである。藤の衣、麻の布団を手に入るにしたがって身にまとい、野辺の嫁菜、峰の木の実をとってわずかに命をつなぐ。人と交わらないので、姿を恥じることもない。食料が乏しいので、粗末なさずかりものもおいしく感じる。そうじてこのような楽しみは、富者に向かって言うのではない、ただ自分自身に関して、昔と今とを比較して言うだけのことである。

◆(現代語表記:ほうじょうき、歴史的仮名遣:はうぢやうき)は、賀茂県主氏出身の鴨長明による鎌倉時代の随筆[1]。日本中世文学の代表的な随筆とされ、『徒然草』兼好法師、『枕草子』清少納言とならぶ「古典日本三大随筆」に数えられる。

方丈記(十三):假の庵もやゝふるさととなりて

2024年05月14日 | 方丈記を読む


【原文】 
おほかた、この所に住みはじめし時は、あからさまと思ひしかど、いますでに五年を經たり。假の庵もやゝふるさととなりて、軒に朽葉深く、土居に苔むせり。おのづからことの便りに都を聞けば、この山にこもり居て後、やむごとなき人のかくれ給へるもあまた聞ゆ。ましてその數ならぬたぐひ、尽くしてこれを知るべからず。たびたび炎上にほろびたる家、またいくそばくぞ。たゞ仮の庵のみ、のどけくして恐れなし。程狭しといへども、夜臥す床あり、昼居る座あり。一身を宿すに不足なし。かむなはちひさき貝を好む、これ事知れるによりてなり。みさごは荒磯に居る、則ち人を恐るゝが故なり。われまたかくのごとし。事を知り世を知れれば、願はず、わしらず、たゞしづかなるを望みとし、うれへ無きを楽しみとす。
すべて世の人のすみかを作るならひ、必ずしも身の為にせず。或は妻子、眷屬の為に作り、或は親昵、朋友の為に作る。或は主君、師匠および財寳、馬牛の為にさへこれを作る。われ今、身の為にむすべり、人の為に作らず。故いかんとなれば、今の世のならひ、此の身のありさま、伴ふべき人もなく、たのむべき奴もなし。たとひ広く作れりとも、誰を宿し、誰をか据ゑん。

【現代語訳
そもそも、ここに住み始めた時は、ほんのちょっとの間と思っていたが、もはや五年を経た。仮の庵も次第に住み慣れたふるさととなって、屋根には朽ち葉が積り、土間には苔が蒸した。何とはなしにことの頼りに都の様子を聞くと、この山にこもって以来、高貴な身分の人が死んだという話を多く聴いた。まして低い身分の者は、どれほどの数か知るべくもない。度重なる火災で滅びた家はいかほどあっただろうか。ただ自分の仮の庵だけは、のんびりとして無事であった。狭いといっても、夜寝るための床があり、昼居るための座もある。一身を宿すに不足はない。ヤドカリは小さな貝を好むという。自分の分限を知っているからである。ミサゴは荒磯にいる、それは人を恐れるがためである。自分もまた同じである。自分の分限を知り世の中のことをわきまえていれば、多くを願わず、あせらず、ただ静かであることを望みとし、憂えのないことを楽しみとするのだ。
総じて世の人の住処を作る習慣は、かならずしも自分自身のためばかりではない。或は妻子、眷属のために作ったり、親戚、朋友のために作ったりもする。或は主君、師匠、及び財宝、牛馬の為にさえこれを作る。ところが自分は、自分自身のために住処を作った。人の為ではない。どうしてかといえば、世の中の習いやこの身のありさまにつけて、伴侶もなく、頼りにする下僕もいない。たとえ広く作ったところで、誰を宿し、誰を据えようというのか。

◆(現代語表記:ほうじょうき、歴史的仮名遣:はうぢやうき)は、賀茂県主氏出身の鴨長明による鎌倉時代の随筆[1]。日本中世文学の代表的な随筆とされ、『徒然草』兼好法師、『枕草子』清少納言とならぶ「古典日本三大随筆」に数えられる。

方丈記(十二)ふもとに一つの柴の庵あり

2024年05月07日 | 方丈記を読む


【原文】 
又、ふもとに一つの柴の庵あり。すなはちこの山守が居る所なり。かしこに小童あり、時々來りてあひとぶらふ。若しつれづれなる時は、これを友として遊行す。かれは十歳、われは六十、その齡ことの外なれど、心を慰むること、これ同じ。或は芽花をぬき、岩梨をとり、ぬかごをもり、芹をつむ。或はすそわの田居にいたりて、落穂を拾ひて穂組を作る。若しうらゝかなれば、嶺によぢのぼりて、はるかにふるさとの空を望み、木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見る。勝地は主なければ、心を慰むるにさはりなし。歩み煩らひなく、心遠くいたる時は、これより峯つゞき、炭山を越え、笠取を過ぎて、或は岩間にまうで、或は石山を拝む。若しは粟津の原を分けつつ、蝉丸翁が迹をとぶらひ、田上川を渡りて、猿丸大夫が墓をたづぬ。歸るさには、折につけつゝ櫻を刈り、紅葉を求め、蕨を折り、木の實を拾ひて、かつは佛に奉り、かつは家づととす。
もし夜しづかなれば、窓の月に故人を忍び、猿の聲に袖をうるほす。くさむらの螢は、遠く槙の篝火にまがひ、曉の雨は、おのづから木の葉吹く嵐に似たり。山鳥のほろと鳴くを聞きても、父か母かと疑ひ、峰のかせきの近くなれたるにつけても、世に遠ざかるほどを知る。或は又、埋み火をかきおこして、老の寐覺の友とす。恐ろしき山ならねば、ふくろふの聲をあはれむにつけても、山中の景氣、折につけて尽くる事なし。いはむや、深く思ひ、深く知れらむ人のためには、これにしも限るべからず。

【現代語訳
また、麓に一つの柴の庵がある。これは、この山守の住処である。そこに小童がいて、時々やって来ては顔を合わせる。もし手持ち無沙汰なときは、この小童を友として遊ぶ。彼は十歳、我は六十、年の差は大きいけれど、心が慰まることでは同じである。あるときは茅花を抜いたり、こけももをとったり、ぬかごをもいだり、芹を摘む。あるときは麓の田んぼに行って、落穂を拾いそれで穂組みを作る。もし天気がうららかなら、峰によじ登って、はるかに故郷の空を望み、木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を眺めやる。景勝の地には所有主がいないので、心を慰めるのに気兼ねはない。歩くのに不安がなく、心が遠くまで行きたいと願うときは、ここから峰続きに、炭山を越え、笠取山を過ぎて、或は岩間山に詣でたり、或は石山寺を拝んだりする。もしくは粟津の原を分けながら、蝉丸翁の跡を弔い、田上川を渡って、猿丸太夫の墓を訪ねる。帰り際には、季節の折につけて桜狩をしたり、モミジを求めたり、蕨を折ったり、木の実を拾っては、仏に奉ったり、家の土産としたりする。
もし、夜が静かならば、窓越しの月を見ては故人を思い、猿の声に袖をうるおす。草むらの蛍は、遠く宇治川の槙の島の篝火かと見間違え、暁の雨の音は、自ずから木の葉を吹く風の音に似通う。山鳥がほろほろと鳴くのを聴くにつけても、父か母が生まれ変わったかと疑い、峰の鹿が近づいてきて人間に馴れるにつけても、自分が世の中から遠ざかっていることを知る。或はまた、埋み火をかきおこして、老いの寝覚めの友とする。恐ろしい山ではないので、梟の声も哀れに聞こえる、それにつけても山中の趣は、折りにつけ尽きることがない。まして、自分などより深く思い、深く物事を知っている人にとっては、これにとどまらぬ趣があるといえよう。

◆(現代語表記:ほうじょうき、歴史的仮名遣:はうぢやうき)は、賀茂県主氏出身の鴨長明による鎌倉時代の随筆[1]。日本中世文学の代表的な随筆とされ、『徒然草』兼好法師、『枕草子』清少納言とならぶ「古典日本三大随筆」に数えられる。

方丈記(十一):その所のさまをいはゞ

2024年04月30日 | 方丈記を読む


【原文】 
その所のさまをいはゞ、南にかけひあり、岩を立てて水をためたり。林の木近ければ、爪木を拾ふに乏しからず。名を音羽山といふ。まさきの蔓跡うづめり。谷しげゝれど、西はれたり。觀念のたよりなきにしもあらず。春は藤波を見る。紫雲のごとくして、西方ににほふ。夏は郭公をきく。語らふごとに、死出の山路を契る。秋は日ぐらしの聲耳に満てり。うつせみの世を悲しむかと聞ゆ。冬は雪をあはれぶ。積り消ゆるさま、罪障にたとへつべし。
若し念仏物うく、読経まめならぬ時は、みづから休み、みづからおこたる。さまたぐる人もなく、また恥づべき人もなし。ことさらに無言をせざれども、独り居れば、口業ををさめつべし。必ず禁戒を守るとしもなけくとも、境界なければ、何につけてかやぶらん。若し跡の白波に身をよする朝には、岡の屋に行きかふ船をながめて、滿沙彌が風情をぬすみ、もし桂の風、葉をならす夕には、潯陽の江を思ひやりて、源都督の行ひをならふ。若し余興あれば、しばしば松の響き秋風樂をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる。藝はこれつたなけれども、人の耳をよろこばしめむとにはあらず。ひとり調べ、ひとり詠じて、みづから心をやしなふばかりなり。

【現代語訳
その場所の様子を言うと、南には懸樋があり、岩を組み立てて水をためている。林の木が近くにあるので、薪を拾うには便利だ。山の名を音羽山と言う。まさきの蔓が道を覆っている。谷は木々が繁っているが、西側は開けている。観念には都合がよいと言える。春は藤波を見る。紫雲がたなびくように、西の方向に咲き匂う。夏は杜鵑の声を聞く。それが鳴くごとに死出の山路を案内してくれるように願った。秋はヒグラシの声が耳に満ちる。その声はこの世を悲しんでいるように聞こえる。冬は雪を哀れむ。その積っては消え行くさまは、罪障の移り変わりにたとえるべきであろう。
もし念仏が面倒で、読経もままならぬ時は、自ら休み、自ら怠る。それを妨げる人もなく、また恥じるべき人もいない。ことさら口をきかないわけではないが、一人でいると、口の災いも逃れられるだろう。かならず戒律を守ろうとしないでも、破るべき境界がなければ、何につけて破ることがあろうか。もし、跡の白波に身を寄せる朝には、岡の屋に行き交う船を眺めては滿沙彌の風情を盗んで歌を読み、もし、桂の風が葉をならす夕には、潯陽の江を思い出しては、源都督の振舞を真似て琵琶を弾く。もし余興があれば、何度でも松の響きを秋風樂にたとえ、水の音にあわせて流泉の曲を弾く。一人調べ、一人詠じて、自ら心を養うばかりである

◆(現代語表記:ほうじょうき、歴史的仮名遣:はうぢやうき)は、賀茂県主氏出身の鴨長明による鎌倉時代の随筆[1]。日本中世文学の代表的な随筆とされ、『徒然草』兼好法師、『枕草子』清少納言とならぶ「古典日本三大随筆」に数えられる。

方丈記(十):六十の露消えがたに及びて

2024年04月23日 | 方丈記を読む


【原文】 
こゝに六十の露消えがたに及びて、更に末葉のやどりを結べる事あり。いはゞ狩人の一夜の宿をつくり、老いたる蚕の繭を営むがごとし。是を中ごろのすみかにならぶれば、また百分が一に及ばず。とかくいふほどに、齢は歳々に高く、すみかはをりをりに狭し。その家のありさま、世の常にも似ず、廣さはわづかに方丈、高さは七尺がうちなり。所を思ひ定めざるがゆゑに、地を占めて作らず。土居を組み、うちおほひを葺きて、継ぎごとにかけがねをかけたり。若し心にかなはぬ事あらば、やすく外へ移さむがためなり。その改め作る事、いくばくの煩ひかある。積むところわづかに二輌、車の力を報ふほかは、さらに他の用途いらず。
今、日野山の奧に跡を隠して後、東に三尺余りの庇をさして、柴折りくぶるよすがとす。南、竹のすのこを敷き、その西に閼伽棚を作り、北によせて、障子をへだてて阿彌陀の畫像を安置し、そばに、普賢をかき、前に法華経を置けり。東の際に蕨のほとろを敷きて、夜の床とす。西南に竹のつり棚を構へて、黒き皮籠三四合を置けり。すなはち、和歌、管絃、往生要集ごときの抄物を入れたり。傍に琴、琵琶、おのおの一張を立つ。いはゆる折琴、継琵琶これなり。仮の庵のありやう、かくのごとし。

【現代語訳
ここに六十の露命が尽きようとするに及び、更に臨終の庵を結んだことがあった。いわば、狩人が一夜の宿を作り、老いた蚕が繭を作るようなものである。これを二番目の家と比べると、また百分の一にも及ばない。とかく言ううちに、齢は年々高くなり、住処は転居するごとに狭くなったわけである。その庵の有様は、世の常に似ず、広さはわずかに一丈四方、高さは七尺に達しない。場所をここと決めて作ったわけではないから、土地を買って建てたわけではない。土台を組み、粗末な屋根を葺いて、継ぎ目ごとにかけがねをかけた。もしも心にかなわないことがあれば、簡単に外の土地に移すためである。作り直すにも、どれほどの面倒があろうか。積荷にしてわずかに車二両分、車代を支払うほかは、さらに別の費用がかからない。
いま、日野山の奥に隠居して後、方丈の庵の東に三尺余りの庇を出し、柴を折りくべる便宜とした。南にはすのこを敷き、その西に閼伽棚を作り、北側には、障子を隔てて阿弥陀の画像を安置し、そのそばに普賢菩薩を描き、その前に法華経を置いた。東の際には蕨の穂を敷いて、夜の寝床とした。西南には竹の吊り棚を構えて、黒い皮籠を三つ四つ置いた。そしてそれに、和歌、管弦、往生要集などのような抄物を入れた。傍らには、琴、琵琶、おのおの一張を立てた。いわゆる折琴、継琵琶のことである。仮の庵のありさまは、このようなものであった。

◆(現代語表記:ほうじょうき、歴史的仮名遣:はうぢやうき)は、賀茂県主氏出身の鴨長明による鎌倉時代の随筆[1]。日本中世文学の代表的な随筆とされ、『徒然草』兼好法師、『枕草子』清少納言とならぶ「古典日本三大随筆」に数えられる。

方丈記(九):すべてあられぬ世を念じ過ぐしつゝ

2024年04月16日 | 方丈記を読む


【原文】 
我が身、父方の祖母の家を伝へて、久しく彼の所に住む。其後縁欠け、身おとろへ、しのぶかたがたしげかりしかど、つひにあととむる事を得ず。三十餘りにして、更にわが心と一の庵をむすぶ。是をありしすまひにならぶるに、十分が一なり。居屋ばかりをかまへて、はかばかしくは屋を作るに及ばず。わづかに築地を築けりといへども、門を建つるたづきなし。竹を柱として、車を宿せり。雪降り風吹くごとに、あやふからずしもあらず。所、河原近ければ、水難も深く、白波のおそれも騒がし。
すべてあられぬ世を念じ過ぐしつゝ、心を悩ませることは、三十餘年なり。その間折々のたがひめ、おのづから短き運をさとりぬ。すなはち、五十の春をむかへて、家をいで世をそむけり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官祿あらず、何につけてか執をとゞめむ。むなしく大原山の雲にふして、又五かへりの春秋をなん経にける。


【現代語訳
我が身は、父方の祖母の家を受け継いで、久しくその家に住んでいた。その後、親類の縁が切れてしまい、身も衰えたので、忘れえぬ思い出は多かったのだが、ついにその家にとどまることができなくなった。三十歳余りにして、自分の意のままにと、一つの庵を結んだ。これを前の家と比べると、十分の一の大きさである。住居だけを構えて、きちんとした屋敷を作るには至らなかった。わずかに築地を設けたといっても、門を建てる資力がない。竹を柱にして、車寄せとした。雪降り風が吹くたびに、壊れそうになる。場所は河原に近いので、水難も多く、盗賊の恐れもあった。
そうじて生きにくい世を耐え忍びつつ、心を悩ませること三十年あまり。その間、折りにつけて不如意に会い、自づから我が身の不運を悟った。そこで、五十の春を迎えたときに、出家して遁世した。もとより妻子がないので、捨てがたいよすがもない。官祿のない身にとって、この世に何の未練があろうか。むなしく大原山の雲に臥して、さらに五たびの春秋を経たのであった。 


◆(現代語表記:ほうじょうき、歴史的仮名遣:はうぢやうき)は、賀茂県主氏出身の鴨長明による鎌倉時代の随筆[1]。日本中世文学の代表的な随筆とされ、『徒然草』兼好法師、『枕草子』清少納言とならぶ「古典日本三大随筆」に数えられる。

方丈記(八):すべて世中のありにくゝ

2024年04月09日 | 方丈記を読む


【原文】 
すべて世中のありにくゝ、わが身とすみかとのはかなくあだなるさま、又かくのごとし。いはむや、所により、身のほどにしたがひて、心を悩ますことは、不可計。
若しおのれが身数ならずして、權門のかたはらにをるものは、深くよろこぶ事あれども、大きに楽しむあたはず。嘆き切なる時も、聲をあげて泣くことなし。進退やすからず、立居につけて恐れをのゝくさま、たとへば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。若し貧しくして富める家の隣にをるものは、朝夕すぼき姿を耻ぢて、へつらひつゝ出で入る。妻子僮僕のうらやめるさまを見るにも、福家の人のないがしろなるけしきを聞くにも、心念々に動きて、時としてやすからず。
若しせばき地にをれば、近く炎上ある時、その災をのがるゝ事なし。もし邊地にあれば、往反わづらひ多く、盜賊の難はなはだし。又勢あるものは貪欲ふかく、独身なるものは人に軽めらる。財あれば恐れ多く、貧しければ、うらみ切なり。人を頼めば、身他の有なり。人をはぐくめば、心恩愛につかはる。世にしたがへば、身くるし。したがはねば、狂へるに似たり。いづれの所をしめて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心をなぐさむべき。

【現代語訳
総じて世の中が生きにくく、わが身と住処のはかなくもろいことは、上に述べた通りである。まして、場所柄や身の程に応じて心を悩ますことは、枚挙にいとまがない。
もしも、自分の身分が低くて、権門の傍らに住んでいる者は、深く喜ぶことがあっても、大いに楽しむことが出来ない。嘆きが切なる時にも、声を上げて泣くことが出来ぬ。一挙一動が不安定なままで、立ち居振る舞いについて恐れるさまは、たとえば、雀が鷹の巣に近づいたときのようである。もしも貧しくして富んだ家の隣りに住んでいる者は、朝夕自分のみすぼらしいさまを恥じ、相手に気兼ねしながら出入りすることとなる。自分の妻子や僮僕が富める人をうらやましがるのを見るにつけても、富んだ家の人がこちらを相手にしないでいるのを聞くにつけても、心が瞬時に動揺して、ひと時も安らかになれない。
もし狭い土地に住んでいれば、近くで火事があったとき、その災いを逃れるすべがない。もし辺地に住んでいれば、都との往復にわずらいが多く、盗賊の難も甚だしい。また、勢いあるものは欲が深く、独身の者は人に軽んぜられる。財産があれば失う恐れが多く、貧しければ恨み切なるものがある。人を頼れば、他人の奴隷となる。人の世話をすれば、心が恩愛の虜となる。世に従えば、身が束縛されて苦しい。従わねば、狂人同様に思われる。どんな場所に住み、どんな生業をしておれば、しばしの間でもこの身を世の中におき、すこしの間でも心を慰めることができようか。



◆(現代語表記:ほうじょうき、歴史的仮名遣:はうぢやうき)は、賀茂県主氏出身の鴨長明による鎌倉時代の随筆[1]。日本中世文学の代表的な随筆とされ、『徒然草』兼好法師、『枕草子』清少納言とならぶ「古典日本三大随筆」に数えられる。

方丈記(七):大地震振ること侍りき

2024年04月02日 | 方丈記を読む


【原文】 
又同じころかとよ、大地震振ること侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は浪にたゞよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどはす。都のほとりには、在々所々、堂舍廟塔、ひとつとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。塵灰立ち上りて、盛りなる煙の如し。地の動き、家の破るゝ音、雷にことならず。家の中に居れば、忽にひしげなんとす。走り出づれば、地われさく。羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、たゞ地震なりけるとこそ覺え侍りしか。
かくおびたゞしく振る事は、しばしにてやみにしかども、そのなごりしばしば絶えず。世の常驚くほどの地震、二三十度振らぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、大かたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。
四大種の中に、水火風はつねに害をなせど、大地に至りては殊なる變をなさず。むかし齊衡のころとか、大地震振りて、東大寺の佛の御頭落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、なほこの度にはしかずとぞ。すなはちは、みなあぢきなき事を述べて、いさゝか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし

【現代語
又、同じ頃のこととか、大地震が起きたことがあった。そのさまは、尋常ではなかった。山は崩れて河を埋め、海は傾いて陸地を浸した。地面が裂けて水が沸き出で、岩が割れて谷にころげ込んだ。渚を漕ぐ船は波に漂い、道行く馬は脚で立っていられない。都のあたりでは、あちらこちらで、堂舍廟塔ひとつとして完全なものはなかった。或は崩れ、或は倒れた。そこから塵灰が立ち上って、勢いの盛んな煙のようであった。地が動き、家が壊れる音は、雷鳴のようであった。家の中にいれば、たちまち押しつぶされそうになる。走り出れば、地面が割れて裂ける。羽のない身には空を飛ぶこともならぬ。龍であれば、雲に乗ることもあろうに。恐ろしいなかでも恐ろしいのは、ただ地震だと思われた次第だった。
このように烈しく揺れることは、しばらくしてやんだけれども、その余震は当分やまなかった。いつもならびっくりするような揺れが二三十回起こらぬ日はなかった。十日二十日過ぎてから、次第に間隔があき、或は一日に四五度、二三度、もしくは一日おき、二三日に一度などと、おおかたその余震は、三ヶ月ばかりも続いただろうか。
仏教で説く四大種の中でも、水火風は常に害をなすが、大地については特に異変をなすことがない。昔、齊衡の頃とか、大地震があって東大寺の大仏の頭が落ちたなどという、大変なこともあったが、それでも今回の地震には及ばないという。その折には、みなこの世は無常だなどと言って、多少は心の煩悩が薄らぐとも見えたが、月日が重なり、年を経るにしたがって、言葉に出して地震の恐ろしさを語る者さえいなくなった。




◆(現代語表記:ほうじょうき、歴史的仮名遣:はうぢやうき)は、賀茂県主氏出身の鴨長明による鎌倉時代の随筆[1]。日本中世文学の代表的な随筆とされ、『徒然草』兼好法師、『枕草子』清少納言とならぶ「古典日本三大随筆」に数えられる。

方丈記(六):いとあはれなる事も侍りき

2024年03月26日 | 方丈記を読む


【原文】 
いとあはれなる事も侍りき。さりがたき妻、をとこ持ちたるものは、その思ひまさりて、かならずさきだちて死ぬ。その故は、我が身をば次にして、人をいたはしく思ふあひだに、まれまれ得たる食物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。又母の命つきたるを知らずして、いとけなき子の、その乳を吸ひつゝ臥せるなどもありけり。
仁和寺に隆曉法印といふ人、かくしつゝ数も知らず死ぬる事を悲しみて、その首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。人數を知らむとて、四五兩月がほど数へたりければ、京の中、一條より南、九條より北、京極よりは西、朱雀よりは東、路のほとりなる頭、すべて四萬二千三百余りなんありける。いはむや、その前後に死ぬるもの多く、又河原、白河、西の京、もろもろの邊地などを加へていはゞ、際限もあるべからず。いかにいはむや、諸國七道をや。
近くは崇徳院の御位の時、長承のころとか、かゝるためしありけりと聞けど、その世のありさまは知らず。まのあたり珍らかなしかりし事也。 

【現代語訳
たいそう憐れなこともあった。離れがたい妻、夫を持ったものは、その愛する気持ちがまさるあまりに、必ず先に死んだ。その故は、自分の身を次にして、相手を大事に思うばかりに、まれに得た食べ物も、相手に譲るからである。したがって、親子の間では、決まって、親が先立って死んだのである。また、母親の命の尽きたのも知らずに、稚い子が、その乳に吸い付いたまま伏せるなどのこともあった。
仁和寺の隆曉法印という人は、このようにして人が数知らず死ぬ様子を悲しんで、死人の首が見えるごとに、その額に阿の字を書いて、成仏の縁結びをされたのであった。死人の人数を調べるため、四月五月にわたって数えたところ、京のうち、一条より南、九條より北、京極よりは西、朱雀よりは東の範囲に、路のほとりにあった頭の数は、合計四万二千三百あまりもあった。まして、その前後に死んだものも多く、また、河原、白河、西の京、もろもろの邊地などを加えれば、際限もない。いわんや、諸國七道を加えればなおさらである。
 近年、崇徳院の御位の時、長承のころだったかに、このようなことがあったと聞くが、その時のことはわからぬ。このたびのことは、自分がまのあたりに見たことであって、希代の出来事であった。

◆(現代語表記:ほうじょうき、歴史的仮名遣:はうぢやうき)は、賀茂県主氏出身の鴨長明による鎌倉時代の随筆[1]。日本中世文学の代表的な随筆とされ、『徒然草』兼好法師、『枕草子』清少納言とならぶ「古典日本三大随筆」に数えられる。

方丈記(五):二年が間、世中飢渇して

2024年03月19日 | 方丈記を読む


【原文】 
又養和のころとか、久しくなりておぼえず、二年が間、世中飢渇して、浅ましき事侍りき。或は春夏ひでり、或は秋、大風、洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀ことごとくならず。むなしく春かへし、夏植うるいとなみありて、秋刈り冬收むるそめきはなし。
是によりて國々の民、或は地を捨てゝ堺をいで、或は家を忘れて山にすむ。さまざまの御祈はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれども、更にそのしるしなし。京のならひ、なにわざにつけても、みな、もとは田舍をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやはみさをも作りあへん。念じわびつゝ、さまざまの財物かたはしより捨つるがごとくすれども、更に目見たつる人なし。たまたまかふるものは、金を軽くし、粟を重くす。乞食路のほとりに多く、憂へ悲しむ聲、耳に満てり。
前の年、かくの如く、からくして暮れぬ。あくる年は立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘うちそひて、まさざまに跡形なし。世人みなけいしぬれば、日を經つゝきはまり行くさま、少水の魚のたとへにかなへり。果てには、笠うち着、足ひきつゝみ、よろしき姿したるもの、ひたすら家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、則ち斃れ伏しぬ。築地のつら、路のほとり飢ゑ死ぬるもののたぐひ、數も不知。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変り行くかたち、ありさま、目もあてられぬこと多かり。いはむや、河原などには馬車の行きちがふ道だになし
あやしき賤、山がつも力尽きて、薪さへ乏しくなりゆけば、頼むかたなき人は、みづから家をこぼちて、市に出でゝ賣る。一人がもち出でたる価、一日が命にだに及ばずとぞ。あやしき事は、薪の中に、赤きにつき、薄など所々に見ゆる木、あひまじはりけるを尋ぬれば、すべき方なきもの、古寺にいたりて佛をぬすみ、堂の物の具を破りとりて、割り砕けるなりけり。濁惡の世にしも生れあひて、かゝる心うきわざをなむ見侍りし。

【現代語訳
また、養和のことだったか、ひさしい昔のことで覚えていないが、二年の間、世の中が飢饉になって、ひどいことが起こった。或は春夏に旱魃、或は秋に大風、洪水など、よからぬことが続いて、五穀がことごとく実らなかった。無駄なことに、春には耕作し夏には苗を植えたが、秋に刈り入れて冬に収納する賑わいは見られなかった。
このため国々の民は、或は土地を捨てて国を飛び出し、或は家を擲って山に住んだ。さまざまなお祈りが始まり、入念な加持祈祷が行われたが、一向そのしるしがない。京の町の習いとして、何事につけても、みな田舎便りだったのだが、その田舎から上ってくるものが絶えてしまったので、そうは平静を装ってなどいられようか。我慢が出来なくなって、様々な財物を片っ端から二束三文で手放すのだが、一向高く評価してくれる人がいない。たまたま交換ができても、財宝は安く見積もられ、粟には高い値段がつけられる。
 一年目は、このようにして、やっと暮れた。二年目は立ち直るかと思っていたところ、さらに疫病まで付け加わり、ますますひどくなって回復の兆しがない。人々はみな困窮しきっているので、それが日ごとに極まっていくさまは、「少水の魚」の喩えのとおりであった。挙句には、笠をかぶり、脚絆を巻き、見苦しくない服装をしたものが、ひたすら家ごとに食を乞うて歩く。このように困りきって呆然としているものどもが、歩いているかと見れば、そのまま倒れて死んでしまう。築地のつらや、路のほとりで、飢え死んだものの数は知れない。死体を始末する方法もないので、異臭が世界に満ち満ちて、腐乱していく形やありさまは、目も当てられないことが多かった。まして、河原などは馬車が行きちがえないほど死体が積み重なった。
卑しい身分の樵たちも力尽き、そのため薪が不足してきたので、生活に困った人は、自分の家を壊して薪にし、それを市に出て売った。一人が持って出た薪の価は、一日の命をつなぐに及ばないという。不審なことに、薪の中に、赤い塗料や薄く延ばした金箔が所々に見える木が混じっている。そのわけを聞くと、ほかに生きるすべのないものが、古寺に入って仏像を盗み、お堂の什器を破りとって、それを割りくだいているのだった。濁悪の世に生まれ合わせて、こんなにもなさけない仕業を見る羽目になったわけであった。

◆(現代語表記:ほうじょうき、歴史的仮名遣:はうぢやうき)は、賀茂県主氏出身の鴨長明による鎌倉時代の随筆[1]。日本中世文学の代表的な随筆とされ、『徒然草』兼好法師、『枕草子』清少納言とならぶ「古典日本三大随筆」に数えられる。


方丈記(四):治承四年水無月の頃、にはかに都遷り侍りき

2024年03月12日 | 方丈記を読む


【原文】 
又治承四年水無月の頃、にはかに都遷り侍りき。いと思ひの外なりし事なり。おほかた此の京のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるよりのち、すでに四百歳を經たり。ことなるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人やすからず憂へあへる、実にことわりにも過ぎたり。
されどとかくいふかひなくて、帝よりはじめたてまつりて、大臣公卿みな悉くうつろひ給ひぬ。世に仕ふるほどの人、誰か一人ふるさとに殘り居らむ。官位に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりともとくうつらむと励み、時を失ひ世にあまされて、期する所亡き者は、愁へながらとまりをり。軒を爭ひし人のすまひ、日を經つゝ荒れゆく。家はこぼたれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。人の心みな改まりて、たゞ馬鞍をのみ重くす。牛車を用する人なし。西南海の所領を願ひて、東北國の庄園を好まず。
その時、おのづから事のたよりありて、摂津國今の京にいたれり。所のありさまを見るに、その地ほど狭くて、條里をわるにたらず。北は山にそひて高く、南は海に近くて下れり。波の音つねにかまびすしく、潮風殊にはげし。内裏は山の中なれば、彼の木の丸殿もかくやと、なかなかやうかはりて、優なるかたも侍り。日々にこぼち、川もせに運び下す家、いづくに作れるにかあらむ。なほむなしき地は多く、作れる屋は少なし。古京はすでに荒れて、新都はいまだならず。ありとしある人は、皆浮雲の思ひをなせり。もとより此の處にをるものは、地を失ひて憂ふ。今移れる人は、土木のわづらひある事を嘆く。道のほとりを見れば、車に乘るべきは馬に乘り、衣冠、布衣なるべきは多く直垂を着たり。都の手振りたちまちに改まりて、ただひなびたる武士にことならず。
世の亂るゝ瑞相とか聞きおけるもしるく、日を經つゝ、世中うき立ちて、人の心も治らず、民の憂へつひにむなしからざりければ、おなじ年の冬、猶この京に歸り給ひにき。されどこぼちわたせりし家どもは、いかになりにけるにか。悉くもとの様にも作らず。
傳へ聞く、古の賢き御代には、あはれみを以て國を治め給ふ。すなはち殿に茅ふきても、軒をだにとゝのへず、煙の乏しきを見給ふ時は、かぎりあるみつぎ物をさへゆるされき。是民をめぐみ、世をたすけ給ふによりてなり。今の世の中のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。

【現代語訳
また、治承四年(1180)六月の頃、突然遷都の儀があった。思いがけないことであった。だいたい、この京の始まりについて私が聞いている範囲では、嵯峨天皇の御世に都と定められて以来、すでに四百年も経っている。特別の事情もなくたやすく改められるべくもないので、このことを世の中の人々は心安からず憂えあったのだった。まことにもっともなことである。
だが、とやかく言うかいもなく、天皇をはじめ奉り、大臣公卿みなことごとく引越された。朝廷にお仕えする身分の人は、誰一人として古い都に残ろうとはしない。官位に望みをかけ、主君のかげを頼りにするような者は、一日も早く引越そうと励み、時を失い世の中からはじき出され何も期待するところのない者は、憂えながら古い京にとどまった。軒を争っていた人の住処は、日を経るにつれ荒れていった。家は解体されて(その材木が筏となって)淀川に浮かび、地面はあっと言う間に畑と化した。人々の考え方は変わって、馬や鞍ばかりを重宝するようになった。牛車を使う人はいなくなった。西南海の所領を希望し、東北の国々の荘園を好まなくなった。
その時分、たまたま用事のついでがあって、摂津の国の新しい都に行った。その様子を見るに、土地が狭くて、條里を割るには足りない。北は山に沿って高く、南は海に近く下っている。波の音がつねにかまびすしく、潮風がことのほか烈しい。内裏は山の中なので、あの木の丸殿もかくやと思われ、かえって風変わりで、優美とも言える。日々に解体して、川いっぱいに筏で運び下した家は、どこに再建されたのだろう。まだ空地は多く、出来上がった家は少ない。古い京はすでに荒れて、新しい京はいまだならず。ありとあらゆる人が、みな浮雲のような心細い思いをしている。前からここに住んでいる人は、土地を取り上げられて悲しんでいる。あらたに移ってきた人は、土木工事をせねばならぬことを嘆いている。道のほとりを見ると、車に乗るべき人が馬に乗り、衣冠、布衣を着るべき人の多くが直垂を着ている。都の風俗はたちまち変わってしまい、田舎者の武士のそれに異ならなくなった。
これは世が乱れる徴だと聞いていたとおり、日が経つにしたがって、世の中が浮き立ってきて、人心も不穏になり、民の憂えていたとおりになってしまったので、同じ年の冬に、また古い京に遷都された。しかし、解体されてしまった家々は、どうなったことか。すべて元通りになったわけではなかった。
伝え聞くところによれば、古の賢き御世には、憐れみを以て国を治められた。すなわち宮殿を茅で葺いても先端を切り揃えることなく、煙の乏しい様子をご覧になれば、一定限度の公租をも免除された。これは民をめぐみ、世を救う為になされたことである。今の世の中のありさまを、昔とよく比較するがよい。

◆(現代語表記:ほうじょうき、歴史的仮名遣:はうぢやうき)は、賀茂県主氏出身の鴨長明による鎌倉時代の随筆[1]。日本中世文学の代表的な随筆とされ、『徒然草』兼好法師、『枕草子』清少納言とならぶ「古典日本三大随筆」に数えられる。

方丈記(三):又治承四年卯月の頃

2024年03月05日 | 方丈記を読む


【原文】 
又治承四年卯月の頃、中御門京極のほどより、大きなる辻風おこりて、六條わたりまで吹けること侍りき。
三四町を吹きまくる間に、こもれる家ども、大なるも小さきも、一つとして破れざるはなし。さながら平に倒れたるもあり。桁、柱ばかり殘れるもあり。門を吹き放ちて四五町が外におき、又垣を吹きはらひて隣と一つになせり。いはむや家の内の資材、數を尽くして空にあり。桧皮、葺板のたぐひ、冬の木の葉の風に亂るゝが如し。塵を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず。おびたゞしく鳴りどよむほどに、もの言ふ聲も聞えず。かの地獄の業の風なりとも、かばかりにとぞおぼゆる。家の損亡せるのみならず、是をとり繕ふ間に、身をそこなひ、片輪づける人、數も知らず。この風未の方に移りゆきて、多くの人の嘆きをなせり。
辻風はつねに吹く物なれど、かゝる事やある。たゞ事にあらず。さるべきもののさとしかなとぞうたがひ侍りし。

【現代語訳
また、治承四年卯月(四月)の頃、中御門京極のあたりから、大規模なつむじ風が巻き起こって、六条界隈まで吹いたことがあった。
三四町を吹きまくる間に、風に巻き込まれた家は、大きいのも小さいのも、悉く破損した。そのままぺしゃんこになって倒れたものもあり、桁や柱だけが残ったものもあった。門を吹き飛ばして四五町も離れたところに移し、また、垣を吹き払って隣との境をなくし地続きにしてしまった。まして、家中の資財は無数に空に舞い上がった。桧皮や葺板の類は、冬の木の葉が風に乱れるような有様だった。塵を煙のように吹きたてたので、目をあけて見ることができない。風がすさまじく鳴り響くので、人の話す声も聞こえない。かの地獄の業火の風でも、これほどひどいとは思われない。家が存亡しただけではない、壊れたところを取り繕っている間に、身を損なったり、体が不自由になったりした人は、数も知れない。このつむじ風は南南西の方向へ移っていって、多くの人を嘆かせたのであった。

◆(現代語表記:ほうじょうき、歴史的仮名遣:はうぢやうき)は、賀茂県主氏出身の鴨長明による鎌倉時代の随筆[1]。日本中世文学の代表的な随筆とされ、『徒然草』兼好法師、『枕草子』清少納言とならぶ「古典日本三大随筆」に数えられる。

方丈記(二):去安元三年四月廿八日かとよ

2024年02月27日 | 方丈記を読む


【原文】 
予ものの心を知れりしより、四十あまりの春秋をおくれる間に、世の不思議を見る事やゝ度々になりぬ。
去安元三年四月廿八日かとよ。風烈しく吹きて静かならざりし夜、戌の時許、都の東南より火いできて西北に至る。果てには朱雀門、大極殿、大學寮、民部省まで移りて、一夜のうちに塵灰となりにき。
火元は樋口富ノ小路とかや。舞人を宿せる仮屋よりいできたりけるとなん。吹き迷ふ風に、とかく移りゆくほどに、扇を広げたるが如く末広になりぬ。遠き家は煙にむせび、近き辺はひたすら焔を地に吹きつけたり。空には灰を吹きたてたれば、火の光に映じてあまねく紅なる中に、風に堪へず吹き切られたる焔、飛ぶが如くにして一二町を越えつゝ移り行く。其中の人うつし心あらむや。或は煙にむせびて倒れ伏し、或は炎にまぐれてたちまちに死ぬ。或は身一つからうしてのがるゝも、資財を取り出づるに及ばず。七珍萬寳さながら灰燼となりにき。その費えいくそばくぞ。其のたび、公卿の家十六燒けたり。ましてその外數へ知るに及ばず。すべて都のうち三分が一に及べりとぞ。男女死ぬるもの數十人、馬牛のたぐひ邊際を知らず。
人のいとなみ皆おろかなるなかに、さしもあやふき京中の家を作るとて、寶を費やし心を悩ます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍る。 

【現代語訳
私が、道理を知るようになって以来、四十年ばかり生きてきた間に、世の中の不思議を見ることが次第に増えてくるようになった。
去る安元三年四月廿八日のことだったか。風が激しく吹いて騒がしかった夜、戌の時(午後八時)ころに、京の東南から火が出て西北に燃え広がった。その結果、朱雀門、大極殿、大學寮、民部省まで火が移り、一夜のうちに灰燼となってしまった。 
火元は樋口富ノ小路とか。舞人を泊めた仮小屋から出火したということだ。炎は吹き迷う風に乗って、あちこち燃え移っていくうちに、扇を広げたように末広がりになった。遠方の家は煙に包まれ、近いところではひたすら炎を地面に吹き付けていた。空には灰を吹き上げたので、それが火の光を反映して一面赤くなった中に、風に絶えず吹き切られた炎が、飛ぶようにして一二町を越えて移っていく。その中にいた人は生きた心地がしただろうか。或は煙にむせんで倒れ伏し、或は炎に包まれてたちまち死ぬ。身一つで命からがら逃れても、資財を取り出すには及ばない。七珍萬寳がそっくり灰となってしまった。その損失は計り知れない。この火事の際に、公家の家が十六焼けた。ましてそのほかの家は数え知れない。焼けた範囲は京全体の三分の一に及んだそうだ。男女死んだ者の数は数十人、馬牛の類は数えきれない。

◆(現代語表記:ほうじょうき、歴史的仮名遣:はうぢやうき)は、賀茂県主氏出身の鴨長明による鎌倉時代の随筆[1]。日本中世文学の代表的な随筆とされ、『徒然草』兼好法師、『枕草子』清少納言とならぶ「古典日本三大随筆」に数えられる。