19・江尻(三保遠望)
江尻は今の清水市である。興津から四.三粁。画題に「三保遠望」とあるように、江尻の港は有名な三保松原で扼された良港で、しかもこの風景絶佳の展望は、久能山・日本平あたりからのものであろう。この絵は完全な風景画である。ただ広重は、彼独特の色彩と構図の処理によってこの風景画を自分のものとしている。画面はほとんどが海である。その海を、近景では港の風情で、中景は入江に突き出ている三保の松原で変化をもたせて湾内の帆船で風情を持たせ、遠景は愛鷹山らしい山なみの遠望から霞を隔てた海上とし、数多くの帆影で静かな海上の賑やかさを見せている。
三保の松原には、この辺の漁夫が天人の羽衣を拾ったという、「羽衣」の伝説があり、この地は三保が崎ともいわれ、海中につき出た岬で、ここの松原が美しく、駿河湾・富士山・伊豆の山々の遠望は大景観として有名である。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
江尻は今の清水市である。興津から四.三粁。画題に「三保遠望」とあるように、江尻の港は有名な三保松原で扼された良港で、しかもこの風景絶佳の展望は、久能山・日本平あたりからのものであろう。この絵は完全な風景画である。ただ広重は、彼独特の色彩と構図の処理によってこの風景画を自分のものとしている。画面はほとんどが海である。その海を、近景では港の風情で、中景は入江に突き出ている三保の松原で変化をもたせて湾内の帆船で風情を持たせ、遠景は愛鷹山らしい山なみの遠望から霞を隔てた海上とし、数多くの帆影で静かな海上の賑やかさを見せている。
三保の松原には、この辺の漁夫が天人の羽衣を拾ったという、「羽衣」の伝説があり、この地は三保が崎ともいわれ、海中につき出た岬で、ここの松原が美しく、駿河湾・富士山・伊豆の山々の遠望は大景観として有名である。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』