日本男道記

ある日本男子の生き様

奈半の港 2

2024年09月10日 | 土佐日記


【原文】 
かくて、宇多の松原を行き過ぐ。その松の数いくそばく、幾千歳経たりと知らず。もとごとに波打ち寄せ、枝ごとに鶴ぞ飛びかよふ。おもしろしと見るに堪へずして、船人のよめる歌、

見渡せば松のうれごとにすむ鶴は千代のどちとぞ思ふべらなるとや。

この歌は、ところを見るにえまさらず。

【現代語訳
このようにして、宇多の松原を通り過ぎて行く。その松の数がどれほどのものか、幾千年を経たものかはかりしれない。松の根元ごとに波がうちよせ、枝ごとに鶴が飛び通う。なんてすばらしい景色だろうと見ているだけでは耐えきれず船人が歌をよみました。
見渡せば…
(見渡せば、松の梢ごとに住んでいる鶴は、その松を千年も変わらぬ友達と思っているようだ。)
とか。
でも、この歌は実際の景色のすばらしさを見ると、とても及ばない。



◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

奈半の港 1

2024年09月03日 | 土佐日記


【原文】 
九日のつとめて、大湊より、奈半の泊を追はむとて、漕ぎ出でたり。
これかれ互ひに、国の境のうちはとて、見送りに来る人あまたが中に、藤原のときざね、橘のすゑひら、長谷部のゆきまさ等なむ、御館より出で給びし日より、ここかしこに追ひくる。この人々ぞ、志ある人なりける。この人々の深き志はこの海にもおとらざるべし。
これより、今は漕ぎ離れて行く。これを見送らむとてぞ、この人どもは追ひ来ける。かくて漕ぎ行くまにまに、海のほとりにとまれる人も遠くなりぬ。船の人も見みえずなりぬ。岸にもいふことあるべし。船にも思ふことあれど、かひなし。かかれど、この歌をひとりごとにして、やみぬ。

思ひやる心は海をわたれどもふみしなければ知らずやあるらむ。

【現代語訳
九日の朝早く、大湊から、「奈半へ向かおう」と、いって、漕ぎ出した。
この人もあの人も、かわるがわる国(=郡)の境まではと見送りに来る数多くの人の中に、藤原のときざね、橘のすゑひら、長谷部のゆきまさたちは前国司が館をご出立なさった日から、ここかしこの港に追ってくる。この人々こそ、本当に情の厚い人なのだ。この人々の深い志は、この海の深さにもおとらないだろう。
この大湊から今度こそ漕いで離れていく。これを見送ろうとしてこの人々が、追いかけてくる。このように船の漕ぎ進むにつれて、海辺にとどまっている人々も遠くなってしまった。船に乗って行く人も海辺からは見えなくなってしまった。岸にいる人々もまだ言いたいことがあり、船に乗っている人々もまだ思うことがあるのだが、今はもうどうしようもない。
こんなふうに思いは尽きませんが、この歌を独り言につぶやいてあきらめた。
思ひやる…
(海辺の人々をはるかに思いやる心は海を渡っていくが、心の中で思っているだけで、海を越えることも文をやることもできないので、先方は私たちの気持ちを知らずにいるのだろうか。「文」と海を「踏み」わたるの「踏み」を掛ける)


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

大湊2

2024年08月20日 | 土佐日記


【原文】 
二日。なほ大湊に泊まれり。
講師、物、酒おこせたり。
三日。同じところなり。
もし、風波の、しばしと惜しむ心やあらむ。心もとなし。
四日。風吹けば、え出で立たず。
まさつら、酒、よき物奉れり。この、かうやうに物持て来る人に、なほしもえあらで、いささけわざせさす。物もなし。にぎははしきやうなれど、負くる心地す。
五日。風波やまねば、なほ同じところにあり。
人々、絶えず訪)ひに来。
六日。昨日のごとし。

【現代語訳
二日。やはり大湊に泊まっている。
国分寺の住職が食べ物や酒を贈ってよこした。
三日。同じところにいる。
風波にしばらくおとどまりくださいという出発を惜しむ心があるのだろうか。気がかりなことだ。
四日。風が吹いたので出航できず。
まさつらが(一行の長に)酒や結構な物をさしあげる。このように物を持ってくる人に、何もしないわけにはいかないので、わずかばかりの返礼をさせる。とはいってもろくなものはないが・・・。
(入れ替わり立ち替わり贈り物をもらうので)裕福なように見えるが、気の引ける思いがする。
五日。風も波も止まないので、やはり、同じところにいる。
人々がひっきりなしに訪ねて来る。
六日。昨日と同じである。

◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

大湊 1

2024年08月13日 | 土佐日記


【原文】 
二十九日。大湊に泊まれり。
医師ふりはへて、屠蘇、白散、酒加へて持て来たり。志あるに似たり。
元日。なほ同じ泊なり。
白散を、ある者、夜の間とて、船屋形にさしはさめりければ、風に吹きならさせて、海に入れて、え飲まずなりぬ。芋茎、荒布も歯固めもなし。かうやうの物なき国なり。求めしもおかず。ただ、押鮎の口をのみぞ吸う。この吸う人々の口を、押鮎、もし思ふようあらむや。「今日はみやこのみぞ思ひやらるる」「小家の門のしりくべ縄の鯔の頭、柊ら、いかにぞ」とぞいひあへなる。

【現代語訳
二十九日。大湊に停泊。
土佐の国の医師がわざわざ、屠蘇、白散(漢方薬の一種)に加えて酒をもってやってきた。好意があるようだ。
元日。依然として大港に停泊している。
白散を、ある人が夜の間だけだということで、船屋形にはさんでおいたのだが、風にふかれつづけて、だんだんずれて海に落ちてしまい飲めなくなってしまった。
正月というのに、芋茎、荒布も歯固めもない。このように物が無いところなのだ。あらかじめ求めてもおかなかった。ただ、押し鮎の口ばかりをしゃぶっている。この吸う人々の口を押鮎はもしかして何とか思うことがあるだろうか。
今日は都のことばかり思いやられる。庶民の家の門に飾ってある注連縄の鯔のお頭や柊はどんな具合だろうかと皆で言い合っているようだ。

◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

大津~浦戸2

2024年08月06日 | 土佐日記


【原文】 
かく別れがたくいひて、かの人々の、くち網も諸持(もろも)ちにて、この海辺にてになひ出だせる歌、
惜しと思ふ人やとまると葦鴨(あしがも)のうち群れてこそわれは来にけれ
といひてありければ、いといたくめでて、行く人のよめりける、
棹させど底ひも知らぬわたつみの深きこころを君に見るかな
といふあひだに、楫取もののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば、早く往なむとて、「潮満ちぬ。風も吹きぬべし」とさわげば、船に乗りなむとす。
この折に、ある人々、折節につけて、漢詩(からうた)ども、時に似つかはしきいふ。また、ある人、西国(にしぐに)なれど甲斐歌などいふ。「かくうたふに、船屋形の塵も散り、空行く雲も漂ひぬ。」とぞいふなる。
今宵、浦戸に泊まる。藤原のときざね、橘のすゑひら、こと人々、追ひ来たり。
二十八日。浦戸より漕ぎ出でて、大湊を追ふ。
このあひだに、はやくの守の子、山口のちみね、酒、よき物ども持て来て、船に入れたり。ゆくゆく飲み食ふ。

【現代語訳
このように別れを惜しんで、その人々が、まるで漁師が網もみんなで心を合わせて担ぎ出すようにして、この海辺で合作した歌は、
惜(を)しと思ふ…
(お立ちになるのが惜しいと思っている人たちが、もしかしてとどまってくださるかと、葦鴨が群れるように大勢して私たちは来たのです)
とよめば、その歌を大変褒めて行く人がよんだ。
棹させど…
(棹をさしてもわからない海のような深い心をあなたはお持ちなのですね)
と言っているうちに、「もののあわれ」も解らない船頭が、自分ばかり酒を飲み終わったものだから、早く出発しようとして「潮が満ちたぞ、風も吹いてくるぞ」と大声を出すので、一行は船に乗り込もうとする。
その時、その場にいる人々が時節に合わせて、漢詩をいくつかその場にふさわしいのを朗詠する。また、ある人がここは西国だけど甲斐の民謡を詠いましょうと民謡を歌う。
「このようにすてきに詠うと船屋形の塵も感動して飛び散り、空行く雲も動きを止めて漂うだろう」と男たちは言っているようである。
今夜は浦戸に泊まる。藤原のときざね、橘(たちばな)のすえひら、そのほかの人々が追いかけてきた。
二十八日。浦戸から漕ぎ出し大湊を目指す。
この折に以前この国の国司であった人の子息、山口のちみねが酒やおいしい食べ物を持って来て船に差し入れた。船旅の途中で飲んだり食べたりする。

◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

大津~浦戸 1

2024年07月30日 | 土佐日記


【原文】 
二十七日。大津より浦戸を指して漕ぎ出づ。かくあるうちに、京にて生まれたりし、女子、国にてにはかに亡せにしかば、このごろの、出で立ちいそぎを見れど、何ごともいはず。
京へ帰るに、女子のなきのみぞ悲しび恋ふる。ある人々もえ堪えず、このあひだに、ある人の書きて出だせる歌。
みやこへと思ふをもののかなしきはかへらぬ人の あればなりけり
また、ある時には、
あるものと忘れつつなほなき人をいづらととふぞかなしかりける
といひけるあひだに、鹿児の崎といふところに、守の兄弟、またこと人これかれ、酒なにと持て追ひ来て、磯に下りゐて別れがたきことをいふ。
守の館の人々の中に、この来たる人々ぞ、心あるやうには、いはれほのめく。

【現代語訳
二十七日大津から浦戸を目指して船を漕ぎ出す。このようなことをしている一行の中に京で生まれた女子を任国ではかなく死なせてしまった人がいて、この頃の出発準備を見ても何も言わなかった。
京へ帰るにつけて亡くした女子のことだけを思って悲しみ恋しがる。居合わせた人々も悲しくて堪らない。そこで、ある人が書いて差し出した歌は、
みやこへと…
(都へ帰れると思うのは嬉しいけれど、悲しいのは死んでしまって帰れぬ人がいることであった。) 
また、ある時には、
あるものと…
(今もいるものと、いなくなったことをついつい忘れて、死んだあの子をどこにいるのかと尋ねてしまうのは、悲しいことだ)
と言っているうちに、鹿児の崎という所に、国司の兄弟や、また別の人だれかれが、酒などを持って追って来て磯辺に下りてきて座り、別れがたいことをいう。新国司の館の人々の中で、ここにやって来た人々こそ、真の心の篤い人々であるように、言われもし、そうも思えもする。


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

(3)忘れがたく、……

2024年07月23日 | 土佐日記


【原文】 
①忘れがたく、くちをしきこと多かれど、え尽くさず。
②とまれかうまれ、とく破りてむ。

【現代語訳
①忘れられず、残念なことが多いけれど、全部を書きつくすことはできない。②とにもかくにも、〔これを〕早く破いてしまおう。
 


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

(2)さて、池めいてくぼまり、……

2024年07月16日 | 土佐日記


【原文】 
①さて、池めいてくぼまり、水つけるところあり。
②ほとりに松もありき。
③五年六年のうちに、千年や過ぎにけむ、かたへはなくなりにけり。
④今生ひたるぞ混じれる。
⑤おほかたの、みな荒れにたれば、「あはれ。」とぞ人々言ふ。
⑥思ひ出でぬことなく、思ひ恋しきがうちに、この家にて生まれし女子の、もろともに帰らねば、いかがは悲しき。
⑦船人もみな、子たかりてののしる。
⑧かかるうちに、なほ悲しきに堪へずして、ひそかに心知れる人と言へりける歌、
⑨生まれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ
⑩とぞ言へる。なほ飽かずやあらむ、またかくなむ、
⑪見し人の松の千年に見ましかば遠く悲しき別れせましや

【現代語訳
①さて、池のようにくぼんで、水に浸かっているところがある。
②〔池の〕そばには松もあった。
③五、六年のうちに、千年が過ぎてしまったのだろうか、半分はなくなっていた。
④新しく生えたのがまじっている。
⑤〔松だけでなく〕大体のものが、すべて荒れてしまっているので、「なんてひどい。」と人々は言う。
⑥思い出さないことはなく、恋しい思いのなかでも、この家で生まれた女の子が、一緒に帰らないので、どんなに悲しいことか。
⑦船の人(=同じ船で一緒に帰京した人)もみな、子どもがよってたかって大騒ぎをしている。
⑧こうしているなかで、やはり悲しさにたえられずに、ひっそりと気心のしれている人と言いあった歌、
⑨〔ここで〕生まれた子も帰ってこないのに、我が家〔の庭〕に小松があるのを見るのは〔子どもが思い出されて〕悲しいことだ
⑩と言った。やはり満足しないのであろうか、またこのように〔詠んだ〕、
⑪亡くなった子が、千年の齢を保つ松のように〔いつまでも生きながらえて〕見ることができたならば、〔土佐での〕遠く悲しい別れをしただろうか、いや、しなかっただろうに。



◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

帰京 (1)京に入り立ちてうれし。

2024年07月09日 | 土佐日記


【原文】 
①京に入り立ちてうれし。②家に至りて、門に入るに、月明ければ、いとよくありさま見ゆ。③聞きしよりもまして、いふかひなくぞこぼれ破れたる。④家に預けたりつる人の心も、荒れたるなりけり。⑤「中垣こそあれ、一つ家のやうなれば、望みて預かれるなり。」⑥「さるは、たよりごとに、ものも絶えず得させたり。」⑦「今宵、かかること。」と、声高にものも言はせず。⑧いとはつらく見ゆれど、こころざしはせむとす。
【現代語訳
①都に入って嬉しい。
②家に着いて、門に入ると、月が明るいので、たいそうよく〔家の〕様子が見える。
③聞いていた以上に、言いようもないほど壊れ、傷んでいる。
④〔留守の間に〕家を預けておいた人の心も、すさんでいるのだったよ。
⑤「中垣はあるけれども、一つの家のようなので、〔先方から〕希望して預かったのである。」
⑥「そうはいうものの、機会があることに、〔お礼の〕品物も欠かさず与えていた。」
⑦「今夜、こんな〔ひどいありさまだ〕こと。」と、〔みなに〕大声で言わせるようなことしない。
⑧たいそうひどいと思われるが、お礼はしようと思う。


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

土佐日記(3)二十三日。八木のやすのりといふ人あり。

2024年07月02日 | 土佐日記


【原文】 
①二十三日。八木のやすのりといふ人あり。
②この人、国に必ずしも言ひ使ふ者にもあらざなり。
③これぞ、たたはしきやうにて、馬のはなむけしたる。
④守柄にやあらむ、国人の心の常として、「今は。」とて見えざなるを、
⑤心ある者は、恥ぢずになむ来ける。
⑥これは、ものによりてほむるにしもあらず。
⑦二十四日。講師、馬のはなむけしに出でませり。
⑧ありとある上・下、童まで酔ひしれて、
⑨一文字をだに知らぬ者、しが足は十文字に踏みてぞ遊ぶ。
 
【現代語訳
①二十三日。八木のやすのりという人がいる。
②この人は、国司の役所で必ずしも召し使っている者でもないようである。③〔それなのに〕この人は、いかめしく厳かな様子で、送別の宴をした。
④〔それも〕国司の人柄であろうか、任国の人の心の常としては、「今は〔もう用はない〕。」といって顔を見せないようだが、
⑤道理をわきまえている者は、〔ひと目を〕遠慮せずに来た。
⑥これは、餞別の品をもらったからほめるというわけでもない。
⑦二十四日。国分寺の僧侶が、送別の宴をしにおいでになった。
⑧人はみな〔身分の〕上下を問わず、子どもまで酔っぱらって、
⑨一という文字さえも知らない者が、その足を十という文字に踏んで遊ぶ。



◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

土佐日記(2)ある人、県の四年五年果てて、……

2024年06月25日 | 土佐日記


【原文】 
①ある人、県の四年五年果てて、例のことどもみなし終へて、解由など取りて、
②住む館より出でて、船に乗るべき所へわたる。
③かれこれ、知る知らぬ、送りす。
④年ごろよくくらべつる人々なむ、別れがたく思ひて、
⑤日しきりに、とかくしつつ、ののしるうちに、夜更けぬ。
⑥二十二日に、和泉の国までと、平らかに願立つ。
⑦藤原のときざね、船路なれど、馬のはなむけす。
⑧上・中・下、酔ひ飽きて、いとあやしく、潮海のほとりにて、あざれあへり。

【現代語訳
①ある人が、国守の任期の四、五年が終わって、所定の事務引き継ぎもすっかり終わらせて、解由状などを受け取って、
②住んでいる官舎から出て、船に乗ることになっているところへ移る。
③あの人やこの人、知っている人も知らない人も、見送りをする。
④長年たいそう親しく付き合った人々は、別れづらく思って、
⑤一日中、あれこれ世話をしながら、大騒ぎをするうちに、夜が更けてしまった。
⑥二十二日に、和泉の国まではと、無事であるように神仏に祈願する。
⑦藤原のときざねが、船旅であるけれど、馬のはなむけ(=送別の宴)をする。
⑧〔身分の〕高い人も、中流の人も、低い人も、みなすっかり酔っぱらって、たいそう不思議なことに、〔塩のきいている〕海のそばでふざけあっている。


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

土佐日記 1)男もすなる日記といふものを、……

2024年06月18日 | 土佐日記


【原文】 
①男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。
②それの年の十二月の二十日余り一日の日の戌の時に、門出す。
③そのよし、いささかにものに書きつく。

【現代語訳
①男も書くという日記というものを、女〔の私〕も書いてみようと思って、書くのである。
②ある年の十二月二十一日の午後八時ごろに、出発する。
③そのときのことを、少しばかりものに書きしるす。


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。