日本男道記

ある日本男子の生き様

阿倍仲麻呂 2

2024年11月19日 | 土佐日記


【原文】 
かの国人、聞き知るまじく、思ほえたれども、言の心を、男文字にさまを書き出だして、ここの言葉伝へたる人にいひ知らせければ、心をや聞き得たりけむ、いと思ひのほかになむ賞でける。唐土とこの国とは、言異なるものなれど、月のかげは同じことなるべければ、人の心もおなじことにやあらむ。
さて、今、そのかみを思ひやりて、ある人のよめる歌、
みやこにて山の端に見し月なれど波より出でて波にこそ入れ

【現代語訳
あちらの国の人々は、これを聞いてもわかるまいと思われたが、この歌の内容を漢字でおおよその様子を書き表して、こちらの言葉を習得している人(通訳)に説明したら、歌の心を理解することができたのだろうか。大変意外なことにこの歌を称賛したそうだ。唐と日本とは言葉は違うが、月の光は同じはずだから、人の心も同じなのだろう。
さて、今その昔を思いやって、ある人の詠んだ歌は、
みやこにて…
(都で山の稜線に出たり入ったりしているのを見た月だけど、ここでは波から出て波に入っていくのだよ)


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

阿倍仲麻呂 1

2024年11月12日 | 土佐日記


【原文】 
二十日の夜の月出でにけり。
山の端もなくて、海の中よりぞ出で来る。
かうやうなるを見てや、昔、阿倍仲麻呂といひける人は、唐土にわたりて、帰り来ける時に、船に乗るべきところにて、かの国人、馬のはなむけし、別れ惜しみて、かしこの漢詩作りなどしける。飽かずやありけむ、二十日の夜の月の出づるまでぞありける。その月は、海よりぞ出でける。
これをみてぞ仲麻呂のぬし、「わが国に、かかる歌をなむ、神代より神もよん給び、今は上、中、下の人も、かうやうに、別れ惜しみ、喜びもあり、悲しびもある時にはよむ」とて、よめりける歌、
青海原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも
とぞよめりける。

【現代語訳
二十日の夜の月が出てきた。
山の端(稜線)も視界に入らず、その月は海の中から出てきた。
このような光景を見てでしょうか、昔、阿倍の仲麻呂という人は、唐に渡って、帰国する時に、乗船するはずの場所で、あの国の人々が餞別をし、別れを惜しんで、あちらのすばらしい漢詩を作ったりなどした。
それでも、名残も尽きなく思ったのであろう、二十日の夜の月がでるまで、そこにいたのだった。
その月は海の中から出た。
この月を見て仲麻呂は、「私の国では、このような歌を神代から神様もお詠みになり、今日では、上中下いずれの人でも、このように別れを惜しんだり、嬉しい時も、悲しいことがある時も詠むのです。」と言って、詠んだという歌は、
青海原
(青海原を遥か遠くに眺めますと、(月は今しも波間から昇っている。)まあ、あの月は、故国の春日にある三笠山に昇ったのと同じ月なのだなあ。)
とまあ詠んだのだった。


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

室津(ニ)3

2024年11月05日 | 土佐日記


【原文】 
この歌どもを、すこしよろし、と聞きて、船の長しける翁、月日ごろの苦しき心やりによめる、
立つ波を雪か花かと吹く風ぞ寄せつつ人をはかるべらなる
この歌どもを、人の何かといふを、ある人聞きふけりてよめり。その歌、よめる文字、三十文字あまり七文字。人みな、えあらで、笑ふやうなり。歌主、いと気色悪しくて、怨ず。
まねべどもえまねばず。書けりとも、え読み据ゑがたかるべし。今日だにいひがたし。まして後にはいかならむ。
十九日。日悪しければ、船出ださず。
二十日。昨日のやうなれば、船出ださず。
みな人々憂え嘆く。苦しく心もとなければ、ただ、日の経ぬる数を、今日幾日、二十日、三十日とかぞふれば、指もそこなはれぬべし。いとわびし。夜は寝も寝ず。

【現代語訳
これら二首の歌を、まあ、悪くもないと聞いて、船の長をしている老人が、先月来の心の憂さを晴らそうと詠んだ歌は、
立つ波を…
(立つ波を、あるいは雪か花かと見まがうが、それは風が吹きよせ吹き寄せして人をだましているらしい)
これらの歌を人々が何かと批評するのを、ある人がじっと聞いていて、歌を詠んだ。
ところが、その歌はなんと三十七文字で構成されていた。人々はみんなこらえきれず笑っているようだ。
歌を詠んだ人はとても機嫌をそこねて、人々を恨めしがる。
歌主の詠んだとおり詠んでみようと思ってもどうしてもできない、たとえ、書いたとしても、ちゃんと型どおりに詠めないだろう。
いま聞いた今日でさえ、言いにくい。まして後日というのはどうであろうか。
十九日。天候が悪いので、船を出さない。
二十日。昨日と同じような悪天候なので船を出さない。
人々はみんな心配し、嘆いている。苦しく、不安なので、経過した日を、今日は何日だろうか、二十日、三十日と数えると指が傷んでしまいそうだ。とてもわびしい。
夜は安眠できない。


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

室津(ニ)2

2024年10月29日 | 土佐日記


【原文】 
かくいふあいだに、夜やうやく明けゆくに、梶取ら、「黒き雲にはかに出で来ぬ。風吹きぬべし。御船返してむ」といひて船返る。このあひだに、雨降りぬ。いとわびし。
十八日。なほ、同じところにあり。海荒ければ、船出ださず。
この泊、遠く見れども、近く見れども、いとおもしろし。
かかれども、苦しければ、何事も思ほえず。男どちは、心やりにやあらむ。漢詩などいふべし。船も出ださで、いたづらなれば、ある人のよめる、
磯ふりの寄する磯には年月をいつともわかぬ雪のみぞ降る
この歌は、常にせぬ人の言なり。また、人のよめる、
風による波の磯には鶯も春もえ知らぬ花のみぞ咲く

【現代語訳
こう言っている間に、夜が次第に明けてきたのに、船頭たちが「黒い雲が急に出てきました。きっと風も出てくるでしょう。船を返しちゃおう」と言って船を戻した。この間、雨が降った。とてもわびしい。
十八日。さらに、同じところにいる。海が荒れているので、船を出さない。
この港は遠くから見ても、近くからみてもとても美しい。
ではあるけれど、やはり、こう旅がはかどらぬと嫌になって、何の感興もわかない。男の仲間たちは憂さ晴らしであろうか、漢詩など歌っている。
船も出さないで、することがないので、ある人が次のように詠んだ。
磯(いそ)ふりの…
(荒波の打ち寄せる磯には年月を分かたず四季の区別なく雪だけが降っている。)
この歌は日ごろ、歌を詠まない人が詠んだ歌だ。
また、別の人が次のように詠んだ。
風による波の…
(風が吹いて白波が打ち寄せる磯には鶯も春も知らない波の花だけが咲いている)


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

室津(ニ)1

2024年10月22日 | 土佐日記


【原文】 
十七日。
曇れる雲なくなりて、暁月夜、いとおもしろければ、船を出だして漕ぎ行く。
このあひだに、雲の上も、海の底も、同じごとくになむありける。むべも、昔の男は、「棹は穿つ波の上の月を、船は圧ふ海の中の空を」とはいひけむ。聞き戯れに聞けるなり。
また、ある人のよめる歌、
水底の月の上より漕ぐ船の棹にさはるは桂なるらし
これを聞きて、ある人のまたよめる、
かげ見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたるわれぞわびしき

【現代語訳
十七日。
曇っていた雲もなくなり、夜明け前の月夜がとても美しいので、船を出して漕いで行く。
このときは、雲の上にも、海の底にも月が輝いて同じようであった。
なるほど、昔の男は、「棹は穿つ波の上の月を、船は圧う海の中の空を(船の棹は雲の上の月を突き、船は海に映った空を圧えつけている。)」とはよく言ったものだ。
女である私は漢詩がよくわからぬままにいい加減に聞いたのである。(だから間違っているかもしれない)
また、ある人が詠んだ歌は、
水底の月の上より…
(水底に映っている月の上を漕いで行く船の棹に触るのは月に生えているという桂なのだろう)
この歌を聞いて、また、ある人が詠んだ歌は、
かげ見れば…
(月の影を見ると、波の底にも空が広がっているみたいだ。その上を船を漕いで渡っていく自分はちっぽけでわびしいものであった)


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

室津(一)4

2024年10月15日 | 土佐日記


【原文】 
十六日。風波やまねば、なほ同じところに泊まれり。
ただ、海に波なくして、いつしか御崎といふところわたらむ、とのみなむ思ふ。風波、とににやむべくもあらず。ある人の、この波立つを見てよめる歌、
霜だにも置かぬかたぞといふなれど波の中には雪ぞ降りける
さて、船に乗りし日より今日までに、二十日あまり五日になりにけり。

【現代語訳
十六日。風も波も止まないので、やはり、同じところに停泊している。
ただ、海に波がなくなって、いつになったら御崎という所を通り過ぎるのだろうかとばかり思う。だが風も波も急に止む気配が無い。ある人が、この波立つのを見て、歌を詠んだ。
霜だにも…
(霜さえ降りない暖かい地方だというけれど、なんと波の中には雪が降っていることよ)
さて、船に乗り込んだ日から今日まで二十五日が過ぎてしまった。







◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

室津(一)3

2024年10月08日 | 土佐日記


【原文】 
さて、十日あまりなれば、月おもしろし。船に乗り始めし日より、船には紅濃く、よく衣着ず。それは、海の神に怖ぢてといひて、何の葦蔭にことづけて、老海鼠のつまの貽鮨、鮨鮑をぞ、心にもあらぬ脛にあげて見せける。
十四日。暁より雨降れば、同じところに泊まれり。
船君、節忌す。精進物なければ、牛時より後に、梶取の昨日釣りたりし鯛)に、銭なければ、米をとりかけて、落ちられぬ。
かかること、なほありぬ。梶取、また鯛持て来たり。米、酒、しばしばくる。梶取、気色悪しからず。
十五日。今日、小豆粥煮ず。口惜しく、なお日の悪しければ、ゐざるほどにぞ、今日、二十日あまり経ぬる。いたづらに日を経れば、人々、海を眺めつつぞある。
女の童のいへる、
立てばたつゐればまたゐる吹く風と波とは思ふどちにやあるらむ
いふかひなき者のいへるには、いと似つかはし。

【現代語訳
さて今夜は十日過ぎのことですから月が美しい。
船に乗り始めた日から、船中では、女たちは紅の濃い、いい着物を着ていない。
それは、海の神に魅入られるのを恐れてというわけだが、今はなに、かまうものかと頼りない葦の陰にかこつけて、ほやに取り合わせる貽貝(いがい)の鮨(すし)(男性器の象徴)や、鮨鮑(女性器の象徴)を、思いもかけぬ脛まで高々とまくりあげて海神に見せつけたのであった。
十四日。明け方から雨が降ったので同じところに停泊している。
船主が節忌(精進潔斎)をする。(とはいえ船の中なので)精進物が無いので午前中で取りやめにし、十二時より後に船頭が昨日釣った鯛を、お金が無いので、手持ちの米を代金の代わりに船頭に与えて、精進落ちをなさった。
このようなことが、何度かあった。船頭がまた鯛を持ってきた。その都度米や酒を与えた。それで船頭は機嫌がいいのだ。
十五日。今日は小豆粥を煮る日だったが小豆がないので取りやめにした。口惜しいうえに、天気が悪く、船が進まないでいるうちに、今日で、二十日ほど経過してしまった。
無為に日を過ごしているので、人々は、ただ、海を眺めて、思いに耽るばかりであった。
幼い女の子が次のように歌を詠った。
立てばたつ…
(風が立てば波も立ち、風がおさまれば波もおさまる風と波とは仲良し友達なのかしら)
言うに足りない幼い者の言った歌としては、とても似つかわしい。






◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

室津(一)2

2024年10月01日 | 土佐日記


【原文】 
この羽根といふところ問ふ童のついでにぞ、また、昔へ人を思ひ出でて、いづれの時にか忘るる。今日はまして、母の悲しがらるることは。下りし時の人の数足らねば、古歌に「数は足らでぞ帰るべらなる」といふことを思ひ出でて、人のよめる、
世の中に思ひやれども子を恋ふる思ひにまさる思ひなきかな
といひつつなむ。
十二日。雨降らず。
ふむとき、これもちが船の遅れたりし、奈良志津より室津に来ぬ。
十三日の暁に、いささかに雨降る。しばしありてやみぬ。
女これかれ、沐浴などせむとて、あたりのよろしきところに下りて行く。海を見やれば、
雲もみな波とぞ見ゆる海女もがないづれか海と問ひて知るべく
となむ歌よめる。


【現代語訳
この羽根と言う所のことを問うた子のことから、(みんな)また、亡くなった子のことを思い出し、いつになったら忘れられよう。今日はまして、その子の母の悲しがられることといったらない。
京から下った人の数が足らないので、古歌に「数は足らでぞ帰るべらなる(人数は足りなくなって帰京するようだ)」というのを思い出して、ある人が(みんなに代わって詠んだ歌は、
世の中に…
(いろいろと考えてみても、この世の中で子を恋しく思う親の思い以上に痛切な思いはないことだなあ)
と言いながら嘆くのだった。
十二日。雨は降らない。
一行の中で、ふむとき、これもちの船が遅れていたのが、ようやく奈良志津(ならしづ)から室津に来た。
十三日の夜明け前に、すこしばかり雨が降ったがしばらくして止んだ。
女たちのだれかれが、水浴びでもしようということで、そのあたりの適当な場所に下りて行く。遠く海を眺めると、
雲もみな…
(空行く雲もみな波のように見える。近くに海女でもいればなあ。どれが海なのかと、たづね知りたいので)
こんな歌を詠んだことだ。





◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

室津(一)1

2024年09月24日 | 土佐日記


【原文】 
十一日。暁に船を出だして、室津を追ふ。人みなまだ寝たれば、海のありやうも見えず。ただ、月を見てぞ、西東をば知りける。かかるあひだに、みな夜あけて、手洗ひ、例のことどもして、昼になりぬ。
今し、羽根といふところに来ぬ。わかき童、このところの名を聞きて、「羽根といふところは、鳥の羽のやうにやある」といふ。まだ幼き童の言なれば、人々笑ふときに、ありける女童なむ、この歌をよめる。
まことにて名に聞くところ羽根ならば飛ぶがごとくにみやこへもがな
とぞいへる。
男も女も、いかでとく京へもがな、と思ふ心あれば、この歌よしとにはあらねど、げに、と思ひて、人々忘れず。

【現代語訳
十一日。夜明前に船を出して、室津を目指す。
人は皆寝ているので、海の状態もわからない。ただ、月を見て西東の方向を判断したのである。こうしているうちにすっかり夜が明けて、みんなが手を洗い、いつものきまりごとどもをして、昼になってしまった。
今、羽根という所に来た。幼い子がこの地名を聞いて、「羽根という所は鳥の羽のようなところかな」と言う。まだ幼い子の言うことだからと、人々が笑っているときに、例の女の子がこんな歌を詠んだ。
まことにて…
(本当にその名の通り、この「羽根」という土地が鳥の羽根ならば、その羽根で飛ぶように都にかえりたいものだ)
と詠んだのだ。
男も女もなんとかして京へかえりたいと心に思っているものだから、この歌を上手な歌だとは思わないが、なるほどねえと思って皆が覚えている。




◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

奈半の港 3

2024年09月17日 | 土佐日記


【原文】 
かくあるを見つつ漕ぎ行くまにまに、山も海もみな暮れ、夜更けて、西東も見えずして、天気のこと、梶取の心にまかせつ。男もならはぬは、いと心細し。まして女は、船底に頭をつきあてて、音をのみぞ泣く。かく思へば、船子、梶取は舟歌うたひて、何とも思へらず。そのうたふ歌は、
春の野にてぞ音をば泣く 若薄に 手切る切る摘んだる菜を 親やまぼるらむ 姑や食ふらむ かへらや
 
夜べのうなゐもがな 銭乞はむ そらごとをして おぎのりわざをして銭も持て来ず おのれだに来ず
これならず多かれども、書かず。これを人の笑ふを聞きて海は荒るれども、心はすこし凪ぎぬ。
かく行き暮らして、泊に到りて、翁人一人、専女一人、あるが中に心地悪しみして、ものものし給ばで、ひそまりぬ。十日。今日は、この奈半の泊に泊まりぬ。

【現代語訳
このような美しい景色を見ながら漕いで行くと、山も海もみな暮れ、夜が更けて、西も東も見えなくなってしまって天気のことは船頭の心に任せる。男も船旅に慣れていないものはとても心細い。まして私たち女は、船底に頭を押し当てて声をあげて泣くばかりである。このような切ない思いをしていたのに、船子や梶取は舟唄など歌って何とも思っておらず、そのうたう歌は
春の野にてぞ… 
(春の野原で声をあげて泣く。若薄で手を何度も切って摘んだ菜を、親が食うやら、姑が食うやら、帰ろうよ)
夜べの…
(ゆんべ出会うた娘っ子にあいたいものよ。銭を要求するぞ。嘘をついて、掛け買いをして、銭も持ってこないで顔さえ出さない)
この二つの歌以外の歌も多かったけどいちいち書かかない。これらの歌を人々が面白がって笑うのを聞いて、海は荒れているが心はすこし穏やかになった。
このように数日漕ぎつづけて、港についたとき、お爺さん一人、おばあさん一人が、とりわけ気分が悪くなって、ひっそり引き籠って寝てしまった。
十日。今日はこの奈半(なは)の港に停泊した。



◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

奈半の港 2

2024年09月10日 | 土佐日記


【原文】 
かくて、宇多の松原を行き過ぐ。その松の数いくそばく、幾千歳経たりと知らず。もとごとに波打ち寄せ、枝ごとに鶴ぞ飛びかよふ。おもしろしと見るに堪へずして、船人のよめる歌、

見渡せば松のうれごとにすむ鶴は千代のどちとぞ思ふべらなるとや。

この歌は、ところを見るにえまさらず。

【現代語訳
このようにして、宇多の松原を通り過ぎて行く。その松の数がどれほどのものか、幾千年を経たものかはかりしれない。松の根元ごとに波がうちよせ、枝ごとに鶴が飛び通う。なんてすばらしい景色だろうと見ているだけでは耐えきれず船人が歌をよみました。
見渡せば…
(見渡せば、松の梢ごとに住んでいる鶴は、その松を千年も変わらぬ友達と思っているようだ。)
とか。
でも、この歌は実際の景色のすばらしさを見ると、とても及ばない。



◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

奈半の港 1

2024年09月03日 | 土佐日記


【原文】 
九日のつとめて、大湊より、奈半の泊を追はむとて、漕ぎ出でたり。
これかれ互ひに、国の境のうちはとて、見送りに来る人あまたが中に、藤原のときざね、橘のすゑひら、長谷部のゆきまさ等なむ、御館より出で給びし日より、ここかしこに追ひくる。この人々ぞ、志ある人なりける。この人々の深き志はこの海にもおとらざるべし。
これより、今は漕ぎ離れて行く。これを見送らむとてぞ、この人どもは追ひ来ける。かくて漕ぎ行くまにまに、海のほとりにとまれる人も遠くなりぬ。船の人も見みえずなりぬ。岸にもいふことあるべし。船にも思ふことあれど、かひなし。かかれど、この歌をひとりごとにして、やみぬ。

思ひやる心は海をわたれどもふみしなければ知らずやあるらむ。

【現代語訳
九日の朝早く、大湊から、「奈半へ向かおう」と、いって、漕ぎ出した。
この人もあの人も、かわるがわる国(=郡)の境まではと見送りに来る数多くの人の中に、藤原のときざね、橘のすゑひら、長谷部のゆきまさたちは前国司が館をご出立なさった日から、ここかしこの港に追ってくる。この人々こそ、本当に情の厚い人なのだ。この人々の深い志は、この海の深さにもおとらないだろう。
この大湊から今度こそ漕いで離れていく。これを見送ろうとしてこの人々が、追いかけてくる。このように船の漕ぎ進むにつれて、海辺にとどまっている人々も遠くなってしまった。船に乗って行く人も海辺からは見えなくなってしまった。岸にいる人々もまだ言いたいことがあり、船に乗っている人々もまだ思うことがあるのだが、今はもうどうしようもない。
こんなふうに思いは尽きませんが、この歌を独り言につぶやいてあきらめた。
思ひやる…
(海辺の人々をはるかに思いやる心は海を渡っていくが、心の中で思っているだけで、海を越えることも文をやることもできないので、先方は私たちの気持ちを知らずにいるのだろうか。「文」と海を「踏み」わたるの「踏み」を掛ける)


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

大湊2

2024年08月20日 | 土佐日記


【原文】 
二日。なほ大湊に泊まれり。
講師、物、酒おこせたり。
三日。同じところなり。
もし、風波の、しばしと惜しむ心やあらむ。心もとなし。
四日。風吹けば、え出で立たず。
まさつら、酒、よき物奉れり。この、かうやうに物持て来る人に、なほしもえあらで、いささけわざせさす。物もなし。にぎははしきやうなれど、負くる心地す。
五日。風波やまねば、なほ同じところにあり。
人々、絶えず訪)ひに来。
六日。昨日のごとし。

【現代語訳
二日。やはり大湊に泊まっている。
国分寺の住職が食べ物や酒を贈ってよこした。
三日。同じところにいる。
風波にしばらくおとどまりくださいという出発を惜しむ心があるのだろうか。気がかりなことだ。
四日。風が吹いたので出航できず。
まさつらが(一行の長に)酒や結構な物をさしあげる。このように物を持ってくる人に、何もしないわけにはいかないので、わずかばかりの返礼をさせる。とはいってもろくなものはないが・・・。
(入れ替わり立ち替わり贈り物をもらうので)裕福なように見えるが、気の引ける思いがする。
五日。風も波も止まないので、やはり、同じところにいる。
人々がひっきりなしに訪ねて来る。
六日。昨日と同じである。

◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

大湊 1

2024年08月13日 | 土佐日記


【原文】 
二十九日。大湊に泊まれり。
医師ふりはへて、屠蘇、白散、酒加へて持て来たり。志あるに似たり。
元日。なほ同じ泊なり。
白散を、ある者、夜の間とて、船屋形にさしはさめりければ、風に吹きならさせて、海に入れて、え飲まずなりぬ。芋茎、荒布も歯固めもなし。かうやうの物なき国なり。求めしもおかず。ただ、押鮎の口をのみぞ吸う。この吸う人々の口を、押鮎、もし思ふようあらむや。「今日はみやこのみぞ思ひやらるる」「小家の門のしりくべ縄の鯔の頭、柊ら、いかにぞ」とぞいひあへなる。

【現代語訳
二十九日。大湊に停泊。
土佐の国の医師がわざわざ、屠蘇、白散(漢方薬の一種)に加えて酒をもってやってきた。好意があるようだ。
元日。依然として大港に停泊している。
白散を、ある人が夜の間だけだということで、船屋形にはさんでおいたのだが、風にふかれつづけて、だんだんずれて海に落ちてしまい飲めなくなってしまった。
正月というのに、芋茎、荒布も歯固めもない。このように物が無いところなのだ。あらかじめ求めてもおかなかった。ただ、押し鮎の口ばかりをしゃぶっている。この吸う人々の口を押鮎はもしかして何とか思うことがあるだろうか。
今日は都のことばかり思いやられる。庶民の家の門に飾ってある注連縄の鯔のお頭や柊はどんな具合だろうかと皆で言い合っているようだ。

◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

大津~浦戸2

2024年08月06日 | 土佐日記


【原文】 
かく別れがたくいひて、かの人々の、くち網も諸持(もろも)ちにて、この海辺にてになひ出だせる歌、
惜しと思ふ人やとまると葦鴨(あしがも)のうち群れてこそわれは来にけれ
といひてありければ、いといたくめでて、行く人のよめりける、
棹させど底ひも知らぬわたつみの深きこころを君に見るかな
といふあひだに、楫取もののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば、早く往なむとて、「潮満ちぬ。風も吹きぬべし」とさわげば、船に乗りなむとす。
この折に、ある人々、折節につけて、漢詩(からうた)ども、時に似つかはしきいふ。また、ある人、西国(にしぐに)なれど甲斐歌などいふ。「かくうたふに、船屋形の塵も散り、空行く雲も漂ひぬ。」とぞいふなる。
今宵、浦戸に泊まる。藤原のときざね、橘のすゑひら、こと人々、追ひ来たり。
二十八日。浦戸より漕ぎ出でて、大湊を追ふ。
このあひだに、はやくの守の子、山口のちみね、酒、よき物ども持て来て、船に入れたり。ゆくゆく飲み食ふ。

【現代語訳
このように別れを惜しんで、その人々が、まるで漁師が網もみんなで心を合わせて担ぎ出すようにして、この海辺で合作した歌は、
惜(を)しと思ふ…
(お立ちになるのが惜しいと思っている人たちが、もしかしてとどまってくださるかと、葦鴨が群れるように大勢して私たちは来たのです)
とよめば、その歌を大変褒めて行く人がよんだ。
棹させど…
(棹をさしてもわからない海のような深い心をあなたはお持ちなのですね)
と言っているうちに、「もののあわれ」も解らない船頭が、自分ばかり酒を飲み終わったものだから、早く出発しようとして「潮が満ちたぞ、風も吹いてくるぞ」と大声を出すので、一行は船に乗り込もうとする。
その時、その場にいる人々が時節に合わせて、漢詩をいくつかその場にふさわしいのを朗詠する。また、ある人がここは西国だけど甲斐の民謡を詠いましょうと民謡を歌う。
「このようにすてきに詠うと船屋形の塵も感動して飛び散り、空行く雲も動きを止めて漂うだろう」と男たちは言っているようである。
今夜は浦戸に泊まる。藤原のときざね、橘(たちばな)のすえひら、そのほかの人々が追いかけてきた。
二十八日。浦戸から漕ぎ出し大湊を目指す。
この折に以前この国の国司であった人の子息、山口のちみねが酒やおいしい食べ物を持って来て船に差し入れた。船旅の途中で飲んだり食べたりする。

◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。