46:東海道金谷の不二(View from Kanaya on Tokaido Highway)
金谷は東海道の大井川の島田宿と称した宿であるが、この間の大井川を江戸時代は橋がなく、旅人は輦台や肩車で、川人足の力をかりて渡渉した。
その風景がこれである。雨上りか水かさも多い。
大名の行列の駕籠や荷物が輦台で渡り、旅人は人足の肩である。
この風景は他の 絵師も描いているが、この絵が最も描写が切実である。
対岸の島田宿が見え、その左右に蛇籠がつまれている。
ここまでくると富士の姿も小さく遠くたっている。
※富岳三十六景
「冨嶽」は富士山を指し、各地から望む富士山の景観を描いている。
初版は1823年(文政6年)頃より作成が始まり、1831年(天保2年)頃から1835年(同4年)頃にかけて刊行されたと考えられている。[1]版元は永寿堂西村屋与八。
発表当時の北斎は72歳と、晩年期に入ったときの作品である。また西洋画法を取りいれ、遠近法が活用されている事、当時流行していた“ベロ藍”ことプルシャンブルーを用いて摺ったことも特色である。
浮世絵の風景画は当時「名所絵」と呼ばれており、このシリーズの商業的成功により、名所絵が役者絵や美人画と並ぶジャンルとして確立したと言える。
「凱風快晴」や「山下白雨」のように、富士山を画面いっぱいに描いた作品から、「神奈川沖浪裏」や「甲州伊沢暁」のように遠景に配したものまであり、四季や地域ごとに多彩な富士山のみならず、各地での人々の営みも生き生きと描写している。
日本のみならず、ゴッホやドビュッシーなど、世界の芸術家にも大きな影響を与えた。
当初は名前の通り、主版の36枚で終結する予定であったが、作品が人気を集めたため追加で10枚が発表され、計46枚になった。追加の10枚の作品を「裏富士」と呼ぶ。
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