道標は古くより旅人の道しるべとして、石等に里程や方向を示し、三叉路の路傍に立てられたものです。
現在は全国画一化され道路標識にとって代わられ、道端に忘れられた様な存在になっています。
散歩・ドライブの途中気をつけてみると、今なお大切に残されている道標を見かけます。
私はなぜか風雪にたえ人々の往来を見守り続ける道しるべにひかれます。
道標シリーズ第六十七段。
・所在地 岡山県都窪郡早島町 位置図
・建立年 文政4年(1821年)
・導(しるべ) 従是東南備前国
・設立者 江戸御普請役元締・河島序七郎他
・撮影日 2007/01/08
・メモ
道標ではなく備前・備中国境石。
以下は岡山県の史料より。(抜粋)
「元禄頃、池田光政家臣津田永忠が計画した興除新田の開発は、福田新田とならぶ大規模なものであった。備前と備中の国境近くに位置したため、新田の開発は常に国境争論に結びついた。享保六年(1721年)に着工されたが、児島湾沿岸漁民の抵抗や倉敷村の反対でいったん中止され、その後も幕府、岡山藩、児島湾沿岸漁民、妹尾村漁民の間で干潟の領有帰属と漁業権補償問題をめぐって対立が繰り返された。文化11年(1814年)幕府より最後の裁許が申し渡され、文政2年(1819年)にようやく新田の開発が始まった。宝暦8年(1758年)の裁許の時に設置した105本の分間杭が木製で消滅のおそれがあるため、文政4年(1821年)に江戸御普請役元締・河島序七郎、高梨官平等の一行がそこに10基の標石を設置した。これにより海から生まれた地域に初めて備前・備中の新国境が画定した。
これら10基の標石のうち、残存するのは7基で、当時の人々の干拓への熱い思いを今日に伝えている。」
移設され墓地の真ん中に
現在は全国画一化され道路標識にとって代わられ、道端に忘れられた様な存在になっています。
散歩・ドライブの途中気をつけてみると、今なお大切に残されている道標を見かけます。
私はなぜか風雪にたえ人々の往来を見守り続ける道しるべにひかれます。
道標シリーズ第六十七段。
・所在地 岡山県都窪郡早島町 位置図
・建立年 文政4年(1821年)
・導(しるべ) 従是東南備前国
・設立者 江戸御普請役元締・河島序七郎他
・撮影日 2007/01/08
・メモ
道標ではなく備前・備中国境石。
以下は岡山県の史料より。(抜粋)
「元禄頃、池田光政家臣津田永忠が計画した興除新田の開発は、福田新田とならぶ大規模なものであった。備前と備中の国境近くに位置したため、新田の開発は常に国境争論に結びついた。享保六年(1721年)に着工されたが、児島湾沿岸漁民の抵抗や倉敷村の反対でいったん中止され、その後も幕府、岡山藩、児島湾沿岸漁民、妹尾村漁民の間で干潟の領有帰属と漁業権補償問題をめぐって対立が繰り返された。文化11年(1814年)幕府より最後の裁許が申し渡され、文政2年(1819年)にようやく新田の開発が始まった。宝暦8年(1758年)の裁許の時に設置した105本の分間杭が木製で消滅のおそれがあるため、文政4年(1821年)に江戸御普請役元締・河島序七郎、高梨官平等の一行がそこに10基の標石を設置した。これにより海から生まれた地域に初めて備前・備中の新国境が画定した。
これら10基の標石のうち、残存するのは7基で、当時の人々の干拓への熱い思いを今日に伝えている。」
移設され墓地の真ん中に