日本男道記

ある日本男子の生き様

道標(岡山県都窪郡早島町)

2007年01月24日 | 道標
道標は古くより旅人の道しるべとして、石等に里程や方向を示し、三叉路の路傍に立てられたものです。
現在は全国画一化され道路標識にとって代わられ、道端に忘れられた様な存在になっています。
散歩・ドライブの途中気をつけてみると、今なお大切に残されている道標を見かけます。
私はなぜか風雪にたえ人々の往来を見守り続ける道しるべにひかれます。
道標シリーズ第六十七段。
所在地   岡山県都窪郡早島町 位置図
建立年   文政4年(1821年)
導(しるべ) 従是東南備前国
設立者   江戸御普請役元締・河島序七郎他 
撮影日   2007/01/08
メモ    
道標ではなく備前・備中国境石。
以下は岡山県の史料より。(抜粋)
「元禄頃、池田光政家臣津田永忠が計画した興除新田の開発は、福田新田とならぶ大規模なものであった。備前と備中の国境近くに位置したため、新田の開発は常に国境争論に結びついた。享保六年(1721年)に着工されたが、児島湾沿岸漁民の抵抗や倉敷村の反対でいったん中止され、その後も幕府、岡山藩、児島湾沿岸漁民、妹尾村漁民の間で干潟の領有帰属と漁業権補償問題をめぐって対立が繰り返された。文化11年(1814年)幕府より最後の裁許が申し渡され、文政2年(1819年)にようやく新田の開発が始まった。宝暦8年(1758年)の裁許の時に設置した105本の分間杭が木製で消滅のおそれがあるため、文政4年(1821年)に江戸御普請役元締・河島序七郎、高梨官平等の一行がそこに10基の標石を設置した。これにより海から生まれた地域に初めて備前・備中の新国境が画定した。
これら10基の標石のうち、残存するのは7基で、当時の人々の干拓への熱い思いを今日に伝えている。」
移設され墓地の真ん中に



道標(岡山県倉敷市田の口六丁目)

2007年01月19日 | 道標
道標は古くより旅人の道しるべとして、石等に里程や方向を示し、三叉路の路傍に立てられたものです。
現在は全国画一化され道路標識にとって代わられ、道端に忘れられた様な存在になっています。
散歩・ドライブの途中気をつけてみると、今なお大切に残されている道標を見かけます。
私はなぜか風雪にたえ人々の往来を見守り続ける道しるべにひかれます。
道標シリーズ第六十六段。
所在地   岡山県倉敷市田の口六丁目 位置図
建立年   明治七甲戊年(1874年)九月吉日
導(しるべ) (北面)右 由うが山(由加山)                 
        (東面) 左ふ奈八(船場?)
寄付者   不明 
撮影日   2007/01/08
メモ    
海からの由加山往来の最も近道の田の口港にある常夜灯台の台石に道標が刻まれている。
寄付者の名前なども多数刻まれているが解読できなかった。
向こうは瀬戸内海と堅場島 





道標(岡山県倉敷市田の口六丁目)

2007年01月13日 | 道標
道標は古くより旅人の道しるべとして、石等に里程や方向を示し、三叉路の路傍に立てられたものです。
現在は全国画一化され道路標識にとって代わられ、道端に忘れられた様な存在になっています。
散歩・ドライブの途中気をつけてみると、今なお大切に残されている道標を見かけます。
私はなぜか風雪にたえ人々の往来を見守り続ける道しるべにひかれます。
道標シリーズ第六十五段。
所在地   岡山県倉敷市田の口六丁目 位置図
建立年   1848年
導(しるべ) (東面)右 ゆがさん(由加山)         
        (南面)弘化三丙午年九月 世話人 当所 吉浜屋庄右衛門 浜田屋九右衛門 
        (西面)左 ゆが(由加) 
        (北面) 施主 阿州小松島 生島馬之助 同伊之助
寄付者   生島馬之助 同伊之助 
撮影日   2007/01/08
メモ    
高さ172cm、正・側面とも幅44.5cm、上端を山形に造った方柱、規格の大きさ、文字の美しさ、彫りの洗練さなど、県下に残る道標中、群を抜く大物。
この道標はもと十字路の中央にあり、東から来た者にも西から来た者にも、由加山への道を大文字で示している。
施主は現在の徳島県小松島市に住む兄弟らしい。
由加山への参詣する主な道として、林からの北往来、田の口港からの南往来、小川からの西往来、日比からの東往来の四つのルートがある。
そのひとつである田の口港から参詣する南往来は金毘羅信仰がさかんになった江戸中期、金刀比羅宮との両参りのため、多くの人々が訪れたという。
「ゆ」の右上にある損傷が痛々しいがよく保存されている。
鳥居の向こうは道を隔てて瀬戸内海 





道標(岡山県倉敷市藤戸町天城)

2006年12月16日 | 道標
道標は古くより旅人の道しるべとして、石等に里程や方向を示し、三叉路の路傍に立てられたものです。
現在は全国画一化され道路標識にとって代わられ、道端に忘れられた様な存在になっています。
散歩・ドライブの途中気をつけてみると、今なお大切に残されている道標を見かけます。
私はなぜか風雪にたえ人々の往来を見守り続ける道しるべにひかれます。
道標シリーズ第六十四段。
所在地   岡山県倉敷市藤戸町天城 位置図
建立年   不明
導(しるべ) (左)倉敷酒津 川辺 高梁 道
          すぐ 下津井 田の口 道
         (右)由加神社 金刀比羅 道
        (右)不洗観音 惣社(総社) 足守 道
寄付者   不明 
撮影日   2006/12/02
メモ    
笹無山の入口にある。年代や施主は刻まれていない。
高梁と刻まれていることから明治維新後の作と想定される。
 





道標(岡山県倉敷市藤戸町)

2006年12月12日 | 道標
道標は古くより旅人の道しるべとして、石等に里程や方向を示し、三叉路の路傍に立てられたものです。
現在は全国画一化され道路標識にとって代わられ、道端に忘れられた様な存在になっています。
散歩・ドライブの途中気をつけてみると、今なお大切に残されている道標を見かけます。
私はなぜか風雪にたえ人々の往来を見守り続ける道しるべにひかれます。
道標シリーズ第六十三段。
所在地   岡山県倉敷市藤戸町 位置図
建立年   不明
導(しるべ) (左)ゆ可山(由加山) 金飛羅(金毘羅)
         (右) 於可山(岡山) 吉備津
寄付者   不明 
撮影日   2006/12/02
メモ    
由加往来改修工事の際に現地(藤戸寺厨入口)へ保管されたもの。
以前は盛綱橋を南に渡った突き当たりに立っていた。年代・施主は刻されていない。
流暢な筆跡が印象的。
 




道標(岡山県倉敷市藤戸町)

2006年12月07日 | 道標
道標は古くより旅人の道しるべとして、石等に里程や方向を示し、三叉路の路傍に立てられたものです。
現在は全国画一化され道路標識にとって代わられ、道端に忘れられた様な存在になっています。
散歩・ドライブの途中気をつけてみると、今なお大切に残されている道標を見かけます。
私はなぜか風雪にたえ人々の往来を見守り続ける道しるべにひかれます。
道標シリーズ第六十二段。
所在地   岡山県倉敷市藤戸町 位置図
建立年   慶応四年(1868年)
導(しるべ) (西)當嶋霊場第四十六番
      正面(北) 藤戸寺
        (東) 慶応四戊辰年初夏再建之畢
        (南) 此方西方寺十五丁半
寄付者   不明 
撮影日   2006/12/02
メモ    
藤戸寺は行基を開基とする真言宗の名刹で児島八十八カ所巡礼第四十六番の札所、参道入口の右側に、寺号と札所番号を刻んだ大きな石標が立っている。正面の寺号は品格のある楷書の薬研彫り、右側面の霊場番号は雄渾な行書の平底彫り、左側面の年紀は楷書、裏面の道標は優しい草書と変化に富んでおり石工のノミの巧みさに目を惹かれる。
慶応四年といえば、明治元年慌しい世相の時代にこの寺号標石が再建されたのである。

 




道標(岡山県倉敷市藤戸町天城)

2006年12月03日 | 道標
道標は古くより旅人の道しるべとして、石等に里程や方向を示し、三叉路の路傍に立てられたものです。
現在は全国画一化され道路標識にとって代わられ、道端に忘れられた様な存在になっています。
散歩・ドライブの途中気をつけてみると、今なお大切に残されている道標を見かけます。
私はなぜか風雪にたえ人々の往来を見守り続ける道しるべにひかれます。
道標シリーズ第六十一段。
所在地   岡山県倉敷市藤戸町 位置図
建立年   不明
導(しるべ) (左)吉飛徒(吉備津) 於可山(岡山)道
         (右) ゆ可(由加) 金ぴら(金毘羅)道
寄付者   不明 
撮影日   2006/12/02
メモ    
天城本町の曲がり角に立っている。
二面だけに案内が記されているが、年代や施主は刻まれていない。
達筆で彫刻も立派。嬉しいことに、再建されたとのこと。
 




道標(岡山県倉敷市鶴形1丁目)

2006年03月21日 | 道標
道標は古くより旅人の道しるべとして、石等に里程や方向を示し、三叉路の路傍に立てられたものです。
現在は全国画一化され道路標識にとって代わられ、道端に忘れられた様な存在になっています。
散歩・ドライブの途中気をつけてみると、今なお大切に残されている道標を見かけます。
私はなぜか風雪にたえ人々の往来を見守り続ける道しるべにひかれます。
道標シリーズ第六十段。
所在地   岡山県倉敷市鶴形1丁目 位置図
建立年   不明
導(しるべ) (正面)右 あらわず観音道
        (左) 馬頭観音
寄付者   不明 
撮影日   2006/2/12
メモ    
散歩中偶然に発見。以前から探して見つけることができなかったもの。
近くの「不洗観音」のみを案内したシンプルな道標。






道標(岡山県総社市井尻野)

2006年02月06日 | 道標
道標は古くより旅人の道しるべとして、石等に里程や方向を示し、三叉路の路傍に立てられたものです。
現在は全国画一化され道路標識にとって代わられ、道端に忘れられた様な存在になっています。
散歩・ドライブの途中気をつけてみると、今なお大切に残されている道標を見かけます。
私はなぜか風雪にたえ人々の往来を見守り続ける道しるべにひかれます。
道標シリーズ第五十九段。
所在地   岡山県総社市井尻野 位置図
建立年   明治32年(1899年)
導(しるべ) (正面)井山寶福寺 八丁
         (右) 明治三十二年吉祥
         (左) 施主 井尻野神野儀平・周旋 同所中嶋信正
寄付者   神野儀平 
撮影日   2006/2/5
メモ    
画聖・雪舟が修行してねずみの絵を描いたエピソードで有名な「宝福寺」を案内している品格のある道標。
輪禍に遭って根元を折損し立て直したものと思われる。
傍らに井山宝福寺を案内したモダンなポールも立てられている。





道標(岡山県久米郡久米南町下弓削)

2006年01月22日 | 道標
道標は古くより旅人の道しるべとして、石等に里程や方向を示し、三叉路の路傍に立てられたものです。
現在は全国画一化され道路標識にとって代わられ、道端に忘れられた様な存在になっています。
散歩・ドライブの途中気をつけてみると、今なお大切に残されている道標を見かけます。
私はなぜか風雪にたえ人々の往来を見守り続ける道しるべにひかれます。
道標シリーズ第五十八段。
所在地   岡山県久米郡久米南町下弓削 位置図
建立年   不明
導(しるべ) (正面)おたき道
寄付者   多数 
撮影日   2006/1/9
メモ    
「おたき道」のみを案内した道標。
これより二kmほど山道を登る七面山にかかる滝が「七面滝」、傍らに日蓮上人をまつるお堂、七面堂がある。
滝の水は「洗顔清水」とよばれ、庶民の信仰を集めた。
この道標は往時の七面堂の繁盛を偲ばせる。
側面には多数の寄進者の方が連名が刻まれている。





道標(岡山県津山市川崎)

2006年01月18日 | 道標
道標は古くより旅人の道しるべとして、石等に里程や方向を示し、三叉路の路傍に立てられたものです。
現在は全国画一化され道路標識にとって代わられ、道端に忘れられた様な存在になっています。
散歩・ドライブの途中気をつけてみると、今なお大切に残されている道標を見かけます。
私はなぜか風雪にたえ人々の往来を見守り続ける道しるべにひかれます。
道標シリーズ第五十七段。
所在地   岡山県津山市川崎 位置図
建立年   不明
導(しるべ) (南面)右 播州ひめぢ(姫路)へ二十一里 信州善光寺へ百五十五里 道 左 津山大はし 三十丁
        (西面)左 いなば(因幡)鳥取へ十八里半 高円ぼだいじ(菩提寺)へ 六里 道
        (北面)もろ人に此よの道はをしふれど さきの世まではわからざりけり 城戸口重吉 建立        
寄付者   城戸口重吉 
撮影日   2006/1/9
メモ    
旧出雲街道と因幡街道の分岐点の兼田橋西詰めに立っている、高さ二メートル弱の大きな道標。
旧道で道は狭いが交通量も多く、あちこちに傷を負っている。
建立年は記されていないが明治初年に津山の篤志家城戸口重吉氏が独力で建てたとのこと。
「高円ぼだいじ」は現在の勝田郡奈義町高円にある「菩提寺」を指している。
道標には珍しく北面に「歌」が一首添えられている。






道標(岡山県倉敷市茶屋町)

2006年01月15日 | 道標
道標は古くより旅人の道しるべとして、石等に里程や方向を示し、三叉路の路傍に立てられたものです。
現在は全国画一化され道路標識にとって代わられ、道端に忘れられた様な存在になっています。
散歩・ドライブの途中気をつけてみると、今なお大切に残されている道標を見かけます。
私はなぜか風雪にたえ人々の往来を見守り続ける道しるべにひかれます。道標シリーズ第五十六段。
所在地   岡山県倉敷市茶屋町 位置図
建立年   不明
導(しるべ) (北面)すぐ こんぴら道
        (東面)右 いなり 左 下津井 道
        (南面)すぐ 吉備津 お可山(岡山)道
        (西面)若社中
寄付者   若社中 
撮影日   2005/12/24
メモ    
満身傷だらけ、折れた腰をつないでもらって、昔ながらの道案内を努めている、悲壮感が漂う。思わず頭をなでてしまった。周辺には「新田」「開」のどの地名があり、干拓地の名残をとどめている。
また「茶屋町」という町名は、干拓以来海陸交通の要地となり、下津井港に至る四国街道も通過するようになり、自然茶店が立ち並ぶようになったことに由来。






道標(岡山県倉敷市丸池)

2006年01月11日 | 道標
道標は古くより旅人の道しるべとして、石等に里程や方向を示し、三叉路の路傍に立てられたものです。
現在は全国画一化され道路標識にとって代わられ、道端に忘れられた様な存在になっています。
散歩・ドライブの途中気をつけてみると、今なお大切に残されている道標を見かけます。
私はなぜか風雪にたえ人々の往来を見守り続ける道しるべにひかれます。
道標シリーズ第五十五段。
所在地   岡山県倉敷市丸池 位置図
建立年   不明
導(しるべ) 左 つらじま(連島)たましま(玉島)五けんや
         右 きびつ(吉備津)く者んおん(観音)をかやま(岡山)
寄付者   不明 
撮影日   2005/12/24
メモ    
高さ60センチ、愛らしい感じを与える。
彫られた文字もかなり読み取りにくく、かなり古いもの。
また氏神さまの近くにあり、四囲の状況からして近くの何処からか移転されたものらしい。
<
中央右下が道標




道標(岡山県倉敷市丸池)

2006年01月05日 | 道標
道標は古くより旅人の道しるべとして、石等に里程や方向を示し、三叉路の路傍に立てられたものです。
現在は全国画一化され道路標識にとって代わられ、道端に忘れられた様な存在になっています。
散歩・ドライブの途中気をつけてみると、今なお大切に残されている道標を見かけます。
私はなぜか風雪にたえ人々の往来を見守り続ける道しるべにひかれます。
道標シリーズ第五十四段。
所在地   岡山県倉敷市丸池 位置図
建立年   不明
導(しるべ) 正面 つらしま(連島)五けんや 玉しま(玉島)  ゆが(由加) 下村 田の口
         左 きびつ(吉備津)く者んおん(観音)をかやま(岡山)
         右 あしもり(足守)すぐ まつしま(松島)大せん(大山)
寄付者   不明 
撮影日   2005/12/24
メモ    
高さ60センチ、どっしとした感じを与える。
彫られた文字もかなり見えにくくなっており、かなり古いものでは。





道標(岡山県倉敷市亀山)

2006年01月02日 | 道標
道標は古くより旅人の道しるべとして、石等に里程や方向を示し、三叉路の路傍に立てられたものです。
現在は全国画一化され道路標識にとって代わられ、道端に忘れられた様な存在になっています。
散歩・ドライブの途中気をつけてみると、今なお大切に残されている道標を見かけます。
私はなぜか風雪にたえ人々の往来を見守り続ける道しるべにひかれます。
道標シリーズ第五十三段。
所在地   岡山県倉敷市亀山三ノ割 位置図
建立年   文政五年(1822)
導(しるべ) 左 いずも(出雲)大せん(大山)みち ま川山(松山)阿しもり(足守)みち くらしき(倉敷)みち
         右 四国こんぴら(金刀比羅)みち ゆ可(由加)志もむら(下村)みち あまき(天城)みち
寄付者   窪田吉平 
撮影日   2005/12/24
メモ    
高さ139センチ、正面の上部に弘法大師坐像を浮き彫りにしている。
約180年前のもの、よく保存されている。何故か嬉しくなる。
遠く山陰の出雲、大山、四国の金毘羅をも案内している。
今は細い道であるが四国往来への主要道であったのだろう。
なお導(しるべ)にある「ま川山(松山)」は四国の松山でなく、現在の岡山県高梁市を指している。