日本男道記

ある日本男子の生き様

55:京師(三条大橋)

2010年11月07日 | 広重東海道五十三次
55:京師(三条大橋)
 大津から逢坂山を越え、山城の国へ入る。山科の盆地をすぎて12里。いよいよ京の都へ入る。鴨川にかかる三条大橋を渡って入洛。広重は五十五枚の最後を「三条大橋」と題して描いた。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

54:大津(走井茶屋)

2010年10月31日 | 広重東海道五十三次
 54:大津(走井茶屋)
 東海道最終の宿場は大津である。草津から14里。あと12里で、いよいよ京都である。大津は琵琶湖畔第一の町であり、天智天皇大津の宮のあとでもあり、附近には近江八景や、名所旧蹟に富み、大津絵、源五郎鮒などの名物も多い。しかし広重は画題を「走井(はしりい)茶屋」を描いている。ここの茶店では「走井餅」を売っていた。今もこれは大津の名物であり、茶店の前に描かれている、こんこんと清水が湧き出る走井の井戸も保存されている。
 茶店の前の街道を、米俵や炭俵を乗せた牛車が連なっていく。京都へ運ぶのであろうか、荷車の牛の歩みののろさが、いかにも京都の近さを思わせる。
 この絵で後ろに見える山(逢坂山)がなくて、空を藍ぼかしにした異版であるが、初版といわれるものは、山があり、空の部分が藍つぶしとなっている。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

53:草津(名物立場)

2010年10月24日 | 広重東海道五十三次
53:草津(名物立場)
 海道は右手に琵琶湖が近く、草津に着く。石部から10.7里に当たる。ここは中山道と東海道の分かれ道、つまり追分で、中山道は江戸から木曽路を通って、ここで合している。従って宿駅としては繁栄を見たところと思われる。
 広重は、ここの立場でもあった、名物姥ヶ餅屋を描いている。街道には慌ただしく早駕篭が飛び、上納荷が担がれていく。しかし姥ヶ餅屋では旅人も馬士も駕篭かきも、一椀の姥ヶ餅に旅の疲れを休め、名物に舌鼓をうっているのどかさである。追分の道標が見え、餅屋を右に入るのが中山道か、暗い木曽路を象徴するような、かげりを見せている。画題は「名物立場」。
 姥ヶ餅というのは、寛永のころ、江州の代官であった六角左京太い夫の子孫が亡ぼされた時、その幼児で三歳になる子を乳母が育てるために餅を売ったというのが由来だという。
 草津から、次の大津へは矢橋から琵琶湖を船で渡るのと、瀬田唐橋、膳所を過ぎて、大津に入る陸路と二つがあった。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

52:石部(目川の里)

2010年10月17日 | 広重東海道五十三次
52:石部(目川の里)
 街道は平坦な路が続く。水口から石部宿まで9.3里。この間に広重の描いた「目川里」がある。ここは菜飯と田楽が有名で、その店「伊勢屋」を描いたのが、この絵である。春の景色らしく、遠く見える山、三上山も春霞の彼方に薄鼠に眠っているように、おだやかである。海道には伊勢参りの連中のさんざめきが賑やかである。この一群の人物の描写が実に巧みで、名物店の前の旅情を表現して遺憾がない。旅人達には一切構わずに行く、二人の荷を背負った農夫の姿が、また得もいわれない村落の情趣となっている。
 石部の宿は、画題にも乏しかったので、広重は、この目川の里を描いたのであろうが、石部で思い出されるのは、浄瑠璃や歌舞伎でも知られた「お半長右衛門」の心中話である。二人の馴れ初めはこの石部の宿であったし、「伊勢まいり石部で堅い仲となり」の川柳もある。それを考えてか、広重は「隷書東海道」で旅篭屋の図を描いて、保永堂版の「赤坂」とはまら別な味わいを見せている。また石部には道中薬として和中散を売る是斎という店があった。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

51:水口(名物千瓢)

2010年10月10日 | 広重東海道五十三次
51:水口(名物干瓢)
 鈴鹿峠を境に東海道は近江路に入り、草津までは下り一方となる。水口は土山から12.2里。野洲川の支流、横田川沿いである。この宿では、一年中いつでも、どじょう汁を出すことで知られていたというのも平凡な村落であったらしく、広重もここを描いて明るい近江路の、静かな田園風景を描いている。題して「名物干瓢」とある。
 この地の名産の干瓢作りをする女たちの作業姿が面白く、残暑の乾いた街道を肌を脱いだ飛脚が行くのも、炎天下の暑さを示しているのが注目される。 

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

50:土山(春の雨)

2010年10月03日 | 広重東海道五十三次
50:土山(春の雨)
 阪之下から鈴鹿峠、そして峠を下ると土山宿である。阪之下から10里、土山宿の麿を祀った田村神社がある。杉木立の亭々と空にのびる境内の手前に田村川が流れている。
 土山といえば、「坂は照る照る鈴鹿は曇る、あいの土山雨がふる」の里謡で知られた土地である。広重は、この里謡を思い浮かべてか「春の雨」と題して田村川の流れ、田村神社の神域に材をとって雨の絵を描いている。
 この絵は、まさに春の雨、暖かい春雨の気分が描かれている佳作である。庄野・蒲原・亀山の三大役物の次ぐ作品と評価されている。この雨は夏の雨でも、秋の雨でもない。なにもかもしっとりと濡れに濡れる静かな春の細い雨で、雨足がよくそれを表している。その感じが、橋を渡る大名行列の先鋒の仲間達の俯いた姿勢でも示されている。左田村川の流れ、雨で水かさの増した流れの色が、春の水の暖かさを、さらに感じさせている。境内の暗さも、音もなく降りしきる春の雨に煙った情緒を持った薄暗さである。
 この絵の初摺りは、雨足を胡粉摺として、やわらかさを出しているのも、春雨を表現する版画的な技巧の一つである。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』19

49:阪之下(筆捨山頂)

2010年09月26日 | 広重東海道五十三次
49:阪之下(筆捨山頂)
 関から6里で阪之下。広重は「筆捨嶺」と題して、筆捨山を眺める街道の茶屋を描いている。この筆捨山は岩根山という山であるが、狩野元信が、あまりの風光の美しさに、力及ばず筆を投じたという話から筆捨山と呼ばれるようになったという。全山岩山で、岩間に古松が生えた美しい山で、これを広重は、かなり写生的に描いている。この美しい景色を眺める目が、右手の見晴らし茶屋の描写といえよう。この茶屋には休むさまざまな人物が牛を曳く農夫の姿の描写が実に巧みに描かれていて、この右隅だけで立派な絵といえる。それだけに、筆捨山との間に違和感があるような気もする。
 阪之下には、昔街道一といわれた本陣の大竹屋、松屋などがあったという。ここから鈴鹿峠へかかる。


絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

48:関(本陣早立)

2010年09月19日 | 広重東海道五十三次
48:関(本陣早立)
 亀山を出て街道は鈴鹿峠へ向かう。その麓にある宿場が関で、亀山から6里。ここで伊賀・大和へ向かう伊賀路と分かれ、また京都から伊勢参宮をする街道もここを通る。古くは、逢坂・関・不破の関とともに、ここは鈴鹿の関があって、これを三関といって有名であった。その関所の遺跡もあり、この地名となったのである。鈴鹿峠にかかる手前の宿場で、宿場女郎や飯盛女も多く、かなり繁栄を見せていたらしい。
広重の絵は「本陣早立」とあって、本陣から未明の早立をする大名の一行の慌ただしさを描いた図である。本陣は大名の泊まる旅館で、その宿場は最も格式の高い旅館であった。大名の泊まる日は、玄関に定紋の幕を張り、提灯をかかげ、本陣の主人は袴姿で宿外れまで出迎える。こうした本陣の有様、出立前のざわめきを、この絵はよく描いている。玄関にいる袴姿の男は本陣の主人であろう。すでに大名の乗る駕篭は玄関口に置かれている。供廻りの仲間や侍は早、旅装を整えて待っている。空はまだ暗い。

 この絵の幔幕の定紋は、広重の父の実家の姓、田中の二字を図案化して大名の紋として描いたという説がある。また玄関に下がっている木札に、当時坂本という店から巷間に売り出されていた化粧品「顔の薬仙女香」「しらが薬美女香」の名を記して、画中宣伝をしているのも、いかにも庶民の絵としての面白さである。


絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

47:亀山(雪晴)

2010年09月12日 | 広重東海道五十三次
47:亀山(雪晴)
 庄野から8里、亀山に着く。広重の絵は「雪晴」と題され、東海道五十五枚中の三代役物の一つとなっている傑作です。この絵は、なによりも雪のあしたの晴れた空の美しさが目をみはらす。左手の山の端の薄紅の色から沖天へ向かっての澄みきった藍の色の美しさ、清らかさ。この空が画面を対角線に区切った半分を占めている。そして、その明るさに映える亀山城から城下の町家を半分に描いているが、この静かさの中を大名行列が粛粛登っていくのが、また印象的である。雪の傑作としては蒲原の「夜の雪」もあるが、一方は陰に、一方は陽に、広重は見事に描き分けている。広重の東海道旅行は夏のことで、雪景などは見ていないのであるが、絵師として広重の芸術的想像力を賞讃すべき作品と言えよう。ここの描かれている亀山城は、天正十五年に岡本下野守の築城といわれる。
絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

46:庄野(白雨)

2010年09月05日 | 広重東海道五十三次
46:庄野(白雨)
石薬師から3里で庄野の宿であるが、ここを描いて、広重は一代の傑作を残している。保永堂版東海道全五十五枚中、蒲原の「夜の雪」、庄野の「白雨」、そして次の亀山の「雪晴」の三図は役物と称して傑作とされているが、その内でも、この庄野の図は最傑作で、独り保永堂のみでなく、広重全作品中で最高の作品となっている。
ひたひたと坂路を走り、上下する人々の足音と、藪をざわめかしてはサアッと降る夕立の音、しぶき、緊張した筆でよくこの調子と動きを描くつくして、見るものの、耳に眼に、充分感じさせている。ことに、風に向かっている二人の姿の力ある筆には驚嘆せずにはいられない。斜めに走る坂道の草色は、えもいわれない版画の味で、また鼠色を基調とする全幅を、きっかりと区切ってこの画面を引きしめている。絵はどこまでも情趣に生きていて、決して感傷に堕してはいない。しかも奔放で健全で粗野でなく厚みもある。まさに広重一代の傑作である。
この絵で傘に「竹のうち」「五十三次」の文字のないもの、雨脚、竹藪の摺や人物、地面の色彩などにいろいろ変わったものがあるが、それらはいずれも悪版である。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

45:石薬師(石薬師寺)

2010年08月29日 | 広重東海道五十三次
45:石薬師(石薬師寺)
四日市を出て日永の追分があり、ここで東海道は右へ、参宮道と分かれる。そして11里で石薬師に達する。この追分には伊勢神宮の一の鳥居がある。石薬師はもとは参宮道であったが、元和元年(1615)から東海道の宿駅となった。
広重の絵は画題を「石薬師寺」とあり、林の中の寺を正面に描いた写実性のある佳作である。この寺は西福寺というが、ここにある石薬師仏が有名なのでこの名がある。静かに林の中にある西福寺、それに連なる寒村が山懐に抱かれている全体の構図が実にいい。裏山が三段にぼかされているのも効果的で、寺の門前の馬上の旅人、小路を歩む二人の百姓、田を耕す百姓などの添景人物が、冬の村景として興趣つきないものとなっている。
この絵で、藍色の遠山を欠くものがあるが、これは後摺である。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

44:四日市(三重川)

2010年08月22日 | 広重東海道五十三次
44:四日市(三重川)
桑名から四日市まで12.8里。現在工業都市として発展しているが、その昔は参宮道の港町で三滝川の河口、四の日に六斎市がたったので、この名があった。広重の画題「三重川」は、この三滝川のことである。しかし広重の絵は、特に四日市にこだわらない純粋な風景画といってよく、しかも画集中でも準役物ともいうべき佳作である。
この絵は「風」の絵である。広重には風のある風景を描いた作は外にもあるが、これが最も優れている。伊勢湾への川口付近、一面の芦萩は風になびき、渡し場と思われる土手と板橋に二人の旅人がいるが、一人は風に笠を飛ばされ、一人は合羽にふくらむ風で歩きもならず、たたずんでいる。その風の強さを見せているのが、中央の柳の枝である。この情感を助けているのが、芦の彼方の漁家と帆檣、そして手前の捨小舟である。この絵の一文字の色が風の日を象徴している。
この絵の板橋の上の旅人の風に吹かれる合羽に裾に、ぼかしのあるのとないのがあるが、ぼかしのある方が本当である。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

43:桑名(七里渡口)

2010年08月15日 | 広重東海道五十三次
43:桑名(七里渡口)
宮から伊勢湾を「七里の渡」渡ったところ、揖斐川の川口の城下町が桑名である。ここまでの乗合船賃は、文化時代は60文で、20刻を要したという。また、この七里の渡を間遠渡ともいった。港の入口に桑名城があり、広重も背景にこの絵を描いている。築城は天正の初め、滝川一益の手によってなされた。
広重は画題を「七里渡口」としている。桑名城と伊勢の海を背景として、今二艘の船が港に入っていくところで、帆を下ろしつつある構図の動きに、この絵の魅力がある。また近景の海波がこの絵の重要な役目を勤めている。ということは動く波の描写の素晴らしさがこの絵を生かしているということである。船と波の動的なのに対し、海上遙かな帆船は悠々とした静かさで、これも近景を生かしている。
桑名は「しぐれ蛤」や白魚の名産がよく知られている。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

42:宮(熱田神事)

2010年08月08日 | 広重東海道五十三次
42:宮(熱田神事)
鳴海から6里で宮。宮は熱田神宮の門前町で現在は名古屋市に入っている。熱田神宮は三種の神器の一つ、草薙の剣が祀られている。江戸時代から信仰を集めた神社であるし、この地は、東海道は海上七里(28里)を越えて桑名へ渡る港であり、越前路。美濃路・佐尾路などの分岐点でもあり、伊勢三宮の人々や参勤交代の大名たちの出入りも多く、街道最大の宿駅であった。したがって本陣二つ、脇本陣を含めて旅宿は250軒に及んだという。
広重は画題を「熱田神事」として、熱田神宮の夜の馬追いの神事を描いている。右手に鳥居を見せ、二匹の馬を追う祭りの男たち二組のかけ声勇ましく駆けている姿は、鳥羽絵風の描写で躍動的である。その火と煙が夜空に立ちのぼっているさまが情感的で美しい。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

41:鳴海(名物有松絞)

2010年08月01日 | 広重東海道五十三次
41:鳴海(名物有松絞)
池鯉鮒から11.3里で鳴海につく。ここは鳴海絞の産地として知られているが、すぐ東北の有松から産する有松絞もまた有名であった。ともに同じ絞り染めであるが、鳴海絞より有松絞の方が知られ、鳴海絞は、有松絞の名称のもとに包含されたいたと考えられる。したがって、広重も鳴海宿の絞り染めを売る店先を描いているが、画題は「名物有松絞」となっている。今も昔の絞り屋の店構えを偲ばせる家並みが残っているが、江戸時代にはかなりの繁栄を見せた宿場であったことは、広重のこの絵の家並み構えでも見ることができる。
街道を徒歩で、駕篭で、馬でいく旅人はすべて女性ばかりである。絞り染めの産地というところから、わざと広重は女の旅人を描いたのであろう。鳴海絞の元祖という見せも残っている。また、織田信長と今川義元の決戦場、桶狭間の古戦場はここから近い。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』