1976年12月、インドネシアのジャカルタへ出張しました。
1)香港空港のトランジットルームで (日本語ってこんなにきれいな・・)
昭和50年代のある年、香港空港で乗り継ぎのため待合室にいました。
その時、70歳少し前くらいに見える女性から「日本の方ですか?」と日本語で声をかけられました。
「そうです」と答えると、懐かしそうに、
「東京もすっかり変わったのでしょうね。 わたくしは戦争前に東京の女学校に行っておりました。
現在は台湾の南部の町で暮らしていますが、久しぶりに日本の方とお話をいたしました。
今回の旅行は、シンガポールの親戚を訪ねました。今はその帰りです。」と言われました。
時間が来て長くお話できませんでしたが、節度のある 美しく格調の高い話し方でした。
小津監督の「東京物語」などで原節子が喋る日本語の世界以上にも思えました。
わずかな時間の出会いでしたが、この台湾の一女性の生きてこられた道筋や現在の生活までおもわず想像し、いまだに忘れられない一人です。
2)グラスゴーのステーションホテルで。
昭和50年代のある年、出張でスコットランドのグラスゴーへ行きました。夕方、仕事がすんで部屋に戻るとメイドさんが魔法瓶の水の補給に来てくれました。
ほっぺたの赤いまだ少女のような人でした。
用事が終わったあと、何か話しかけたいそぶりでドアのそばにたたずんでいるので、「なにか?」と声をかけると、
はにかんだ笑顔で「どこから来たのですか」と言いました。東洋人は珍しいのでしょう。
日本からと答えると、
「遠い遠いところから来たのですね、私は田舎から出てきて家族と離れて、スコットランドで一番大きな都会に勤めることが出来たけど、
きっと一生ロンドンまでも旅行することはないと思います。このようにあちこち旅行するのですか?」と言いました。
仕事で時々外国へ行っていると話すと、
「私には想像も出来ません、もしそんな事がいつか出来たらどんなにいいでしょう」と窓の外の夕暮れの空にふっと視線を向けました。
この僅かな何分かの彼女との会話のおかげで、通り過ぎの身にグラスゴーにも日本と変わらぬ人達が暮らしているんだなあと、
今でも地名を見たり聞いたりすると、街並みとあの少女のことを思い出します。
* 画像はインターネットから借用。阿智胡地亭が現地に行った当時に撮影したものではありません。
1)大連駅を降りると駅前は大きな放射線状のロータリーになっていました。
他の中国の都市の道路は碁盤の目の設計ですが、この都会は1899年にロシア人によって完成したため、ヨーロッパ式の町作りになっているそうです。
ロシアの後は日本が戦前まで統治していましたから沢山の日本人が住んでいました。
現在市内人口177万人という大都会です。出張で行った20年前はまだ町全体が暖房用の石炭の煤のせいか、くすんで見えました。
大連港には旧式の港湾クレーンが林立していましたが、大型外航船の数は少なく神戸港やシンガポール港を見た目で見ると寂しい限りです。
旅客船埠頭に立ち、ここと日本の間をどれだけ多くの人達が船で往来したのかと思いながらしばらく立ち尽くしました。
入札に備えての事前調査で大連機械公司を訪問した訳ですが、沢山の製缶工場や機械工場がある大きな会社でした。
2)余談ながら、大連に滞在している時は頭に浮かびませんでしたが、満州からソ連の参戦で脱出した家族の中に新田次郎の家族がいます。
藤原てい作『流れる星は生きている』という本があります。戦後すぐのベストセラー小説です。
夫がソ連の収容所に連行され、27歳の作者は子供三人を連れて満州から脱出せねばならない。
正広六歳、正彦三歳、咲子は生後まだ一ヶ月である――昭和20年8月9日のソ連参戦の夜から昭和21年9月に日本にたどり着くまでの一年におよぶ記録です。
作者の夫は「強力伝」「八甲田山死の彷徨」「アラスカ物語」などを書いた新田次郎ですが、この本が出た当時は彼は気象庁勤務の一介の技官でした。
たまたま藤原ていさんが諏訪二葉女学校で母の数年後輩であり、母はていさんの姉と同級で寄宿舎も一緒だったというご縁で、この本が家にあり阿智胡地亭は小学生時代に読みました。
昼間は隠れ、夜間だけ歩きに歩いてプサンを目指して移動。毎晩泣く子をしかりつけ、子供の足裏に食い込んだ小石や砂を指でほじくり出すのが日課だった。
沢山の引き上げ日本人が経験した極限状態の逃避行の記録です。
新田次郎は同じく諏訪の角間新田地区の出身で、角間新田は僕の父の実家から上の方にあり、角間新田の新田をペンネームにしたと聞きました。
新田次郎は気象庁ではノンキャリアであったことと、奥さんが先に世に出たこともバネにして、官舎で夜こつこつと小説家を目指して習作に励んだと知り合いから聞きました。
「若き数学者のアメリカ」を書き、 『心は孤独な数学者』などの作者で、最近はエッセイも多い藤原正彦は引き上げ当時3才だった2人の次男です。
また、乳飲み子で背負われて日本に辿り着いた藤原咲子さんが最近「父への恋文」という本を上梓したようです。
中国、台湾、韓国など乗りこまれた方と乗り込んだ方、いい目にあった方とエライ目にあった方、
一瞬にして攻守ところを変えられて翻弄された一軒一軒のそれぞれの国のそれぞれの家族の歴史。町の歴史。
いつもそんなことを思って出張するわけでは毛頭ありませんが、アジアの国の町で出張の中の休日に町を一人で歩くと、
パリやロンドン、ソルトレイクシテイなどを歩くのとは違う思いが時にはします。
特に大連には旧大和ホテル、満鉄大連本社、その社員の宿舎群、アカシア並木等が残っており、
おいしい肉饅頭をほおばりつつ、当地にご縁のある自分の何人かの知り合いの方のことを思い出しながら歩きました。
(2003年ごろ記憶をもとに記す。)
トップの画像はこのサイトから引用。他の画像はネットから引用。
(画像はネットから引用)
世界銀行の融資で、天津、上海、黄舗の3港に港湾大型荷役設備を設置する国際入札案件がありました。
入札の前に、クレーンの鉄構構造部を中国現地で製作した場合の見積もりを、依頼する為に会社の製造部の人と大連の重工会社へ行くことになりました。
1、火車(汽車)の旅
予約していた北京からの飛行機が飛ばなくなり、汽車で行かざるをえなくなりました。
同行の人や商社の人は、ガッカリしていましたがボクは内心喜びました。確か北京から40時間ほどの行程で寝台列車に乗れるからです。
一度中国の長距離列車に乗ってみたいと憧れていました。
1)中国はレールゲージが広軌ですし、機関車は鉄の塊で、山のように大きく、車輌そのものもがっちり鉄と木材で造られており、これぞ「鋼鉄列車」と言う感じです。
車輌の内装は、子供の時に乗った国鉄の窓枠、床、座席全てが木製のあの懐かしい車輌と同じです。アルミを多く使う最近の日本の車輌とは全く違うものでした。
車輌は硬座席と軟座席に分かれており、軟座席が日本のグリーン車でした。
軟座車の乗客は高級軍人の家族らしき一家と出張帰りの東北の省のえらいさんと見える人達でした。
当時、まだ大都市間の高速道路網はなく、飛行機も「中国民航」しかなく、これは軍人と中央、地方官僚の専有物みたいなもんで、
一般庶民の長距離移動は鉄道だけですから、硬座車の混みようは相当なものでした。
2)軟座車には女子服務員が同乗しており、大きなアルミ製のポットにお湯を絶やさず、各自渡された蓋付きの湯飲みが空になる頃、ついでくれます。
ところで、儒教ベースの中国、韓国では接客業というのは、人間として最低の仕事で誰もが出来たらやりたくない、身を落とした仕事と思って従事していますから、
お客に笑顔や丁寧な対応など普通しませんが、天安門事件以降少しづつ変わったのか、服務員は愛想良く車中を歩いていました。
韓国人や中国人が日本に観光に来て、皆が皆驚くのは、日本のどんな店に入っても「店員や従業員が笑顔で応対してくれる」ことだそうです。
そういえば、初めてこの両国に出張した時の店やホテルの従業員の態度はつっけんどん、無愛想で戸惑いました。
3)食事は食堂車で青島ビールを飲みながら、中華の定食(量が多すぎて食べきれないほど)でしたが、好奇心で、昼時硬座席を覗いてみると、車内販売で弁当を買っています。
中国人は冷えたものは食べ物ではないと思っていますから、車内販売でも熱々の饅頭類を折り箱に入れて売っているようでした。
何でも油でジャーっと言う中華めしの基本は、日本と違って魚でも豚肉でも食材入手から料理するまでに何日もかかり、高温多湿の国土で食中毒を避ける長年の智恵だろうと思います。
4)車窓から見る風景は北京郊外を出ると単調な農村とえんえんと続く畑だったのでしょう。
残念ながら、いまは殆ど記憶に残る風景はありません。明け方、大連に近づくと工業都市らしく大小の煙突群が見えてきました。
大連は戦前、沢山の日本人が住んでいたところで、かっての日本人の居住区には、まだ日本家屋が残っていると新聞や本で読んでいました。
「アカシヤの大連」という本がベストセラーになった頃だったかもしれません。大連駅は豪壮な駅舎で、駅前は広い広いロータリーになっています。
本稿は2003年ごろかっての記憶を辿って書きました。
ボンベイ(現ムンバイ)には、港湾近代化の第一段階の大型荷役設備の商談で何回か行きました。
東京から商社の担当者と、勤務していた会社の技術者チームを組んで行きました。
設備投資はされるのか この時点では海のものとも山のものともわからない商談ですから、課長クラスなどはどちらの会社からも参加せず、
私をはじめ商社の長谷さんも含めて担当者ばかりのチームです。
日本からボンベイに行くにはヨーロッパ便のフライトで行きますから、行きも帰りも真夜中の2時頃にしかボンベイ空港に離発着しません。
空港から真夜中、ホテルオベロイにチエックインし簡易ベッドで仮眠しました。
昼前に、商社の現地代理店のオフィスへ行き、ファ○○社の社長ファ○○さんに挨拶をし、彼の行き付けのレストランで昼飯を共にしながら状況の説明を受けました。
この時の食事がスパイシーなほんまもんのインド料理との阿智胡地亭の最初の出会いでした。
阿智胡地亭は同行メンバーと違って、出てくるどのインド料理に何の違和感もなく、全部おいしく平らげ、招待してくれたファ○○社長にすっかり喜んでもらいました。
身長190cmを越える痩身の彼は、町で見掛けるボンベイ人とは風貌が全く違いました。
あとで長谷さんに聞くと父親の代に宗教的な迫害にあい、パキスタンからインドへ移住したパーシー、パールシー( Parsee)と呼ばれる一族とのことでした。
彼のかもしだす雰囲気は何となく映画「荒野の7人」のジェームス・コバーンに似ていました。
余談ですが、彼の役柄はオリジナルの黒沢映画「七人の侍」では宮口精二がやりました。彼の登場場面は、何度「七人の侍」を見ても息を止めて見入ってしまいます。
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Wikipediaから一部引用。 パールシー、パールスィー(ヒンディー語: पारसी、Pārsī)とは、インドに住むゾロアスター教の信者である。
サーサーン朝の滅亡を機にイランのゾロアスター教徒のなかにはインドのグジャラート地方に退避する集団があり、
現在、インドはゾロアスター教信者の数の最も多い国となっている。今日では同じ西海岸のマハーラーシュトラ州のムンバイ(旧称ボンベイ)にゾロアスター教の中心地があり、
開祖のザラスシュトラが点火したと伝えられる炎が消えることなく燃え続けている。
インドでは、ペルシャ人を意味するパールシーと呼ばれ、数としては少ないが非常に裕福な層に属する人や政治的な影響力をもった人々の割合が多い。
インド国内で少数派ながら富裕層が多く社会的に活躍する人が多い点は、シク教徒と類似する。インドの二大財閥のひとつであるタタは、パールシーの財閥である。
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ファ○○社は長年、日本郵船の現地乙仲をし、港湾局に食い込んでいる会社でした。付き合っているうちにわかってきましたが、
日本郵船NYKのエージェント契約をしているという事に強い誇りを持っており、その延長上でダイヤマークの会社と仕事をすることに誇り持っていました。
NYKという会社の世界ブランド力の一端を垣間見る思いでした。
お客さんはボンベイ港湾局で、First Mechanical Engineerという肩書きの個室にいる施設部長が面談の相手でした。
ファ○○さんは必ず同席しましたが、相手の部長もファ○○社が連れてきた商社、メーカーということで安心して面談してくれました。
二人のやりとりを横で見ていて直感的にこれはベストなエージェントだと思いました。
インドネシアの華僑のエージェントが中央、地方を問わず役人、軍人を水面下で丸抱えしているのと同じ雰囲気を感じたからです。
3回ほど行ったボンベイ で インドの空気に触れ、人に触れ、食べ物に触れ、日本という風土や人間の暮らし方との違いは大きく感じましたが
一方で「どこの国や土地で生きていても 人間という生物は みなちょぼちょぼ や」と この地で 実感したのはのちのちに良かった気がします。
*画像はいずれも ネットから借用。出張時撮影した画像ではありません。
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◎阿智胡地亭便り#52 コウベローカル噺④ インド料理を・・ 2004.02.24記
昭和55年ごろ、ボンベイ(ムンバイ)港湾局の施設部長を日本に呼んで四国の工場や神戸港に案内したことがある。
彼は、ベジタリアンの中でも厳密な方の菜食主義者で、東京のレストランで彼のために特注した焼き飯を、
「この焼き飯の前に肉を使った料理に使われたフライパンが、そのまま使われているようだ。米飯に肉の臭いがするから食べられない」と言ったりして、食事では大汗をかいた。
神戸で案内した「ゲイロード」にはさすがにベジタリアンメニューが普通にあって、案内したこちらもも施設部長もホットした。
彼は驚くほど沢山食べた記憶がある。成田到着から何日も、腹を減らしていたのかと、少し気の毒だった。
余談ながら、一緒に泊まった三宮のホテルの朝食で、私が和定食の白飯に生玉子をかけて食べだしたら目を丸くして驚いて見ていた。
聞くと生まれて始めてこういう食べ方を見たという。
後でなんかで読んだのだが、世界中でも、玉子をこうして食べるのは日本だけらしい。
それにしてもベジタリアンは海外に出るのは大変だなと思った。
原理原則なき民である日本人の中でも、阿智胡地亭は、和洋・中華・印度・朝鮮・蒙古そのほか なんでも、
「うまければどこの料理でもいい」と思っているのだが。
震災前に三宮の神戸市役所近くにあった「Gay lord(陽気な殿様)」は、当時ロンドンやパリにもチエーン店があって、
長身のインド人給仕頭が黒服に身を固め、広い店を笑顔で仕切っていた。ボーイも皆インド人で、店の雰囲気は高級レストラン風だった。
昭和58年の秋ごろか、貿易部門から自動倉庫など物流機器や設備の国内営業部門に異動しました。
販売する機器や設備を学ぶために、アメリカ・ユタ州の州都ソルトレイクにある技術提携先の会社に出張を命じられました。
技術グループの出張に便乗して加えてもらいました。
ソルトレイクはその名のとおり「塩の湖」で子供の頃から、映画館で見るニュース映画で車のスピード世界記録をこの「塩湖」で競っているのが、よく放映されたものです。
真っ白な雪煙ならぬ塩煙を巻き上げて時速300km?で走り、車の後部から、パラシュートを膨らませて止まるという車は往時の自分にとっては、夢の中の出来事でした。
1)この町はキリスト教の一分派モルモン教の本拠地で、砂漠の中に人工的に作られた町です。
住民は大半が教徒で酒、たばこ等は基本的に禁止で我がチームは滞在中大変でした。ロッキー山脈から引いた雪解け水で砂漠の中に緑の市街地が広がっています。
中心地から小一時間山の方に行けば一年中スキーが出来る高地にあります。どこまで行っても清潔な街並みが続き、うろんな下町の繁華街なるものはありません。
ただ一個所、町外れに何となく懐かしい感じのバラック建の家並みが続く一角がありました。
道路に下水が溢れ、子供が裸足で遊んでいました。ベトナム難民を受け入れたゾーンとのことでした。
ヤキソバのソースの匂いが通りに流れ、腹がグウと鳴りました。ただこのゾーンと市街地との落差は何となく納得出来ませんでした。
2)会社から技提先に研修で派遣された後、アメリカに残る選択をし、会社を退職して技提先に移籍したKさんの自宅に招待されました。
彼は認めれてマネージャーとして働いていました。アメリカの会社で働くのは、評価がはっきりしていてやりやすいと彼は言っていました。
一戸建の家なので芝生をいつもきれいに刈り込んでおかないと、近所中からクレーム受けるのがかなわんと言っていたのが記憶に残ります。
住宅地としての価値が下がらぬよう住民が街並みのメンテに気を使って、日本人の感覚ではおせっかいと思われるけど「ご近所の中で共住する意識」 がしっかり生きているようでした。
3)日曜日に隣のアリゾナ州のカジノへ繰り出しました。
研修ですでにこの町に滞在経験のある和田さんが国際免許証を準備しており、彼の運転のレンタカーで2時間の行程でした。
その途中、ソルトレイクを通りました。厚く堆積した真っ白な塩の砂漠の上を走ります。前後左右どこを見ても白一色の世界です。
ただ上の空だけが真っ青で自分が地球以外のどこかにいるような不思議な奇妙な世界でした。
4)街中でも空港でも、モタモタした英語で用を足そうとすると、きれいな日本語が返ってくるので何度か驚きましたが、帰りの空港でその訳がわかりました。
モルモン教徒は高校を卒業すると最低一年間は全員が布教活動に従事することになっています。成績のいい人達は海外へ、
まあまあの人達はアメリカ国内の各地へ旅立ちます。空港で涙で抱擁し、別れがたい思いがこちらにも伝わる一団がいました。
両親、兄弟、親戚、友人たちの輪の中に、目を赤くした少年のような初々しい若者がいました。 彼は我々と同じ便で、故郷を離れこれから香港へ向かう青年でした。
JR広島や阪急六甲で、自転車に乗った黒い背広の若い外人に「チョットイイデスカ、キリスト教ノオハナシガ、シタイノデスガ」と声をかけられると、
ああ、あの若者がここでも頑張っているなとは思いますが、つい邪険に「いま忙しいので」と断ってしまうのも事実です。
それにつけてもイエズス会の宣教師たちが、スペインからこの極東の島々まで布教に来て以来、今に至っても継続するこのキリスト教の布教パワーは、凄いものです。
ご参考までに、小室直樹著「日本人のための宗教原論」はキリスト教、イスラム教、仏教などのこのあたりを解き明かし、
能天気宗教無知の ボクにとっては 、目からウロコどころではない本でした。
(2003年ごろ記憶を辿って書いた。 画像は全てネットから引用。)
1、台北ー高雄
台北から台湾南部の工業・港湾都市の高雄には汽車(中国語では火車)もありますが、時間がかかるので高雄の「中国鋼鉄公司」へ行くときは飛行機に乗って移動しました。
離陸しすぐ上昇し、水平飛行なしですぐに下降するくらいの感じの飛行です。
ある出張の一週間前、好きな小説家の向田邦子さんがこのルートで飛び、飛行機の空中分解で満員の乗客とともに亡くなりました。
後で上昇、下降のくり返しから来る機体の金属疲労が原因ではないかと新聞に出ました。一緒に行った人が今回は汽車で行こうと言いましたが、
今まで一週間後に同じ飛行機事故は統計的に起こってないから、飛行機で大丈夫と言いましたが彼は汽車、僕は飛行機と別れて乗りました。
当時日ごろは、どのフライトもチケットが取れるかどうかいつも満席で大変な頃でしたが、乗ったDC10は乗客が全部で5人か6人でした。
大丈夫とは思うものの着陸するまではさすがに落ち着きませんでした。
「父の詫び状」や「あ、うん」など、毎年恒例の正月の向田さん原作のテレビドラマは欠かさず見ます。
2、もう一つ高雄で。
港湾クレーンの件で高雄港に行った帰りに乗ったタクシーが、この国のいつものように飛ばしていました。 小雨がパラついてきて嫌な予感がしました。
向こうから鋼材を積んだ大型トラックがこれまた、飛ばしてくるのが見え、ウインカーを出さずに、タクシーの前で急に曲がりました。
ウンチャンが「アイヤー」と言って、ブレーキを踏みましたが、港への引込線なのか、車輪が濡れたレールの上を走っていたので、
タクシーはスリップしてゆっくりと回転しながらトラックの後ろにはみ出た鋼材の方に近寄りました。ああこれでオシマイと目をつぶったとき、
鼻の先をトラックが走り抜けました。 反対方向を向いて停まったタクシーのウンチャンはさすがに青い顔をして荒い息をしていましたが、
暫くして車をまわしてホテルに向かいました。ああいう時は床に伏せることも出来ず、ただ迫ってくる激突の瞬間をスローモーションのように待っているだけでした。
今は台湾でも車があんなスピードで走っていないと思いますが日本でも神風タクシーと言われた時代があったように、
モータリゼーションの初期の国はどこも交通ルールはあってないみたいなもので、結構交通事故にあった日本人も多かったです。
2002年ごろ記す。画像はいずれもネットから引用。
画像:Wikipedia
昭和50年代に会社のニューヨーク事務所は世界貿易センター第一ビルにありました。
初めて日本から一人でニューヨーク事務所に行くことになった時、日本を出発前に職場の人から
「One World Trade Center]という英語は発音が難しいから、タクシーによく別の場所に連れて行かれる、
「わんわーるど とれーど せんたー」と日本なまりの発音で何遍言っても通じないよ、メモに書いておいてメモを見せたらいい」と
アドバイスを受けていたのでメモを準備してタクシーに乗りました。
長いフライトの後ニューヨークに着き、空港のタクシー乗り場に並び、赤ら顔の大柄な白人のドライバーのタクシーに乗りました。
駄目もとで、とりあえずメモを見せず、思い切り口を大きく開けてはっきり発音し、行き先を告げると
運転手は聞き返しもせず、うなずいて車をスタートさせました。車は高速をぐんぐんスピードを上げて走ります。
どきどきし、心中不安で一杯のまま、通じてるんやろうなと体を固くし、見た目は平然を装って乗っていると 写真で見た高層のツインビルが見えてきました。
ほんとうにホッとしました。ビルのエントランスに着いて 料金を払いトランクを出してもらうと汗びっしょりでした。
ニューヨーク事務所駐在の方に 後で夕食の時、この話をしたら、一発で通じてここへ辿り着いたとは凄いよと言ってもらい、ひそかに心中ヤッタと思いました。
人間いくつになっても おだててもらうほうが けなされるよりうれしいし自信になるものですね。
2000年10月ごろ記す。
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2001年10 月 追記
現実が人の想像を越えました。まさかニューヨークの世界貿易センターがテロ行為で消滅するとは・・・・。
*それにしても我々日本人は Kamikaze Attack、Suicide Bombing(今回の事件のCNNの報道で盛んにこれらの用語が使われていた)で
人類が近代におおっぴらかつ大規模に実行に移したことがない行為を先駆けてやり、
結果として(そういうことも出来るんや)と人に気づかせ、その考え方と行動実績を他国に輸出したことになりました。
今もコップの中で身内で喧嘩しているあいだに、知らないうちに海外世間様から嫉妬をかったり、爪弾きされてUnited Nationsから、
(冗談ですが)この地球上では異質な奴らやから、次は「日本はいてまえ」と生物化学兵器かなんかで抹殺されんようにと祈るのみです。
*ところでUnited Nations は直訳すれば連合国なのにわが国では何故{国際連合/国連}とお上や新聞は訳すのでしょう。
海外社会では第二次世界大戦で日,独、伊の枢軸3国に対し、共に戦った国々の事をUnited Nationsと言っているのであって、
原語にはどこにも国際なんぞという意味はありません。
また、United Nationsの敵国条項にはまだこの日本を含むこの3国の名前が残っているそうです。
こういう英語から日本語への翻訳における言葉のまやかしが(事実の隠蔽が)敗戦国日本の色んなことに続いています。
*それがいいかわるいかは置いて言えば、どんな行為にもその理由とか原因があるはず。
太平洋戦争の日本とアメリカ(を含む諸国)との戦争も。今回のNYの21世紀の戦争/テロも。
ここまで悲惨な被害者が出てしまうと、今回のテロの根がイスラエル建国にさかのぼるらしいということは欧米大手メデイヤはもう書けないでしょう。
戦時中のNHKや朝日新聞や読売新聞が先頭になって「鬼畜米英打倒、神国日本、神州不滅」を言い、この流れに反する日本人は「非国民」と弾圧されていたそうですから。
アメリカは何故こういう目にあったかということは、よくわかっている・・かも。しかし決してそれを公にはしないよう報道管制がしかれているようです。
NYの貿易センタービルはあの60人は同時に楽に乗れる高速エレベーターと、トイレに行くにも鍵をもらっていちいち鍵を開けて入らないといけない
治安の悪さの記憶しかありませんが、あのビルに勤務している人もろともに崩壊させるなんて、信じられません。
自分が属している集団の為には、個の命は犠牲になってもいいという考えは、人間の種としての本能に組み込まれていることなのでしょうか?
それともその集団がなす後天的な刷り込みなのでしょうか?
画像はほぼ当時の北京駅 ネットサイトから引用。
1)北京と天津の往来
昭和50年代当時 北京から天津へはまだ高速道路がなかったので、ほとんど列車で行き来しました。
北京郊外に出ると見渡す限りトウモロコシ畑がどこまでも延々と広がっていました。
途中の農家は電線が引かれている様子もなく、家も粘土で出来ています。
こうして何千年もこの地に住んでいる人達がここで暮らしているのだなと思いました。
北京市域の城壁の中に住む人と域外の人は同じ国ながら生活ぶりが全く違います。
域外や地方の人達は都会に出たくとも、人口抑制のために政府が住民登録の移動を禁じているから、
不法滞在の扱いになりあちこちにスラムが出来て色々問題が出ている時でした。
沿岸部と内陸の貧富の差が広がる一方の最近は、大量の地方出身者が戦後まもない日本と同じで、
職を求め続々と都会地へ移動し、どう対応するかが中央政府の大きな課題のようです。
あるとき旧正月の時期にぶつかり、大きな荷物を持って故郷に帰る人たちで北京駅は大混雑でした。
夕暮れ、駅の構内も構外も、薄暗い電燈の下に沢山の人達が横になったり膝を抱えたりして居て、歩くのもままならないほどです。
汽車の切符が取れるまでこうして過ごすと聞きました。
帰郷する人に加えて住むところの無い人が駅で暮らしているから国の中央駅とは思えない雰囲気でした。
東京のラッシュアワーの凄さが日本でも一部の特殊な地方性の現れと同じで、北京駅の周囲は異常に思えましたが、
東京での会社勤めで経験したラッシュアワーと同じで、北京人にとっては嫌も応も無い当たり前のことの様でした。
2)天津新港は北京の外港になります。ボクが好きな天津甘栗は天津で取れるのではなく天津から船積みされるので、
日本で天津甘栗と言われていると聞きました。つまり天津は貿易港で東京にとっての横浜にあたります。
港の港湾クレーンはどれもソ連の図面で製作された旧式のポートークレーンばかりでした。
ソ連と中国が国交断絶の時に何万人と家族とともに派遣されていた各分野のソ連の技術者が、仕事を放り出して、
技術資料、図面を残らずもって突然本国へ引き上げたために、どれだけ中国人の技術屋が苦労したかという話しを何度か聞かされました。
国境を接した大国どうしの中国人のロシア人に対する屈折した思いの一端を聞かされた思いでした。
(2002年ごろ当時を思い出して記し、友人知人へメールで送った。)
1)ある国際入札案件のコンサルタントがグラスゴーにある会社だったので、応札技術仕様の確認のため事業部の技術者チームとスコットランドに行きました。
グラスゴーでホテルからコンサルの事務所まで海岸沿いをタクシーで走りました。20分ほど走る間、高い塀で囲まれた工場がずっと続きます。
塀の上から造船用と思えるタワークレーンが幽霊のように数十台も見えました。
タクシーの運転手にこれは何ですか?と聞いたら、
「日本の造船会社が安値で船の注文を全部取っていくので潰れてしまった造船所さ、俺もここに勤続24年だったけど。
会社はクレーンを解体する金もないからそのままだよ」と言われ、その後、車の中はシーンと沈黙のままコンサルに着きました。
2)仕事が終わって夜、同行の人達とグラスゴーで一番と言われる中華料理の店に行きました。
確か中国本土が各国との公式国交回復の前の時期で、近くの席に黒っぽい人民服に身を固めた中国本土の政府幹部らしい集団が話もせず黙々と食事をしていました。
異様な感じでした。
ナイフとフォークを使い、西洋皿で中華を食べさせる西洋レストラン式の中華料理店は後にも先にも初めての経験でしたが、
ネットから引用の参考画像。当時の写真ではありません。
10人以上いるボーイは全員中国人で、聞くと3年契約で香港のコック・ボーイ派遣会社から来ているとのことでした。
こんな遠くまで出稼ぎとは中国人はタフな連中やなとそのとき思いましたが、その後 アメリカに出張したとき、
LAの日本料理屋で着物姿の仲居の女性と話をしたら 名古屋の板前・仲居派遣会社から何年か契約で来ていると聞き、
日本人も同じなんやと思いました。その頃急激な円高傾向の時期でドル払いの契約で来ているので
なにしにアメリカまで出稼ぎに来たのか、これなら日本で働いていた方がましやったにと彼女は嘆いていました。
グラスゴーの造船所跡に関するサイト
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シリーズ 「昭和50年代の海外あちこち記」 こちら。
パリのタクシーの助手
ロンドンのヒースロー空港とパリのシャルル・ドゴール空港の間は一時間ごとにシャットル便が飛んでおり、予約無しでも来た順で乗ることが出来ます。
思ったより早くヒースロー空港に着いたので予定より一便早い飛行機でパリのシャルル・ドゴール空港に着きました。
課長が先にパリに日本から着いており、ウィーンのホテルで日本からの課長の電話で聞いたパリのホテルの住所をメモしてあり、
それをタクシーの運転手に見せて課長のいるホテルに向かいました。
乗ったタクシーの助手席には大きなコリー犬が乗っていてギョッとしました。
空港から走り出すと沢山のタクシーが助手席に色んな大型犬を乗せてるのが見えました。
タクシー強盗が多く運転手がよく殺されるので、強盗除けに助手席に犬を乗せていると聞きましたが、乗っている犬はおとなしくきちんと 座っているので、
長年、動物の扱いに慣れている連中は違うなと思いました。
空港から出ると日本のアルミサッシメーカーが「YKK」という看板を出している大きな工場が見えました。
あちこち国の空港近くの工業団地に当時から「YKK」は進出していました。
パリのタクシー運転手のプロ意識
パリの中心街に着きましたが、課長が予約したホテルがメモの住所に見つかりません。
運転手はぐるぐる廻った後、住所の近くの大ホテルに入ってフロントに聞いてくれました。
その後目指すホテルを見つけてくれましたが、大通りから一筋入った裏通りに面した宿屋のような小さなホテルでした。
彼の分かりにくい英語の説明では、住所の番地が一つ違っていたそうです。
ロンドンの箱型タクシーの運転手もそうでしたが、このパリのタクシーも意地でも客をちゃんと行き先に届けるという意志が背中に漂っており、
この中年の運転手についチップを沢山はずんでしまいました。ホテルはトイレが共同でバスなしのBアンドBホテルした。
課長は町に出たのか外出でした。チエックインして部屋に入りホットしていると課長が帰ってきましたが、一応飛行機の時間を連絡していたので、
空港へ迎えに来てくれたそうです。こちらが一つ早い便に乗ったので行き違いになりました。ウイーンで日本から電話を受け、
ロンドンで同行の技術屋さんを日本への飛行機で送り、その後パリへ廻ったので 、あいつ一人でちゃんと来よるかなと心配されていたみたいです。
有り難くお迎えのお礼を申し上げました。
翌朝、ホテルのクロワッサンとカフェオレだけの朝食は、パンはこんなにおいしかったんだと神戸を離れてから「山崎製パン」のパンで萎えていた舌が感激していました。
フランスのもう一つの顔は警察国家?
休日にシャンゼリゼを凱旋門の方へ歩いている時、突然大量の警官隊が現れ、大通りの両側にびっしり展開しました。
車輌も通行止めになりました。写真を撮りに車道に出たアメリカ人観光 客が 無表情の警官に邪険に歩道に押いやられています。
何事!!と見ていると黒塗りの大型車が何台も猛スピードで白バイの先導で飛ばしていきました。大統領のお通りでした。
(シャンゼリゼ通りの真ん中辺あたりの公園の向こうはエリゼ宮という大統領官邸がある)
空にはいつのまにか武装ヘリも飛んでいました。華やかなシャンゼリゼの空気が一瞬にして変わりました。
あの落差の激しさは凄かった。映画「ジャッカルの日」の一場面を目の当たりにしたような気持ちです。
映画だけでなく、実際いつも暗殺に備えた厳重な警備を布いていたようです。
パリ警視庁の建物に連れ込まれたまま、ついに出てこない政治犯や外国人容疑者が毎年何人もいると読んだことがありましたが、
ヨーロッパの他の国に比べてもフランスの支配体制維持のシステムはしっかり保持されているという話は、本当だと屋台で買ったアイスクリームを食べながら思いました。
1977年頃の体験 2002年記
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1)インドネシアの首都ジャカルタの外港はタンジュン・プリオークと言います。ここに、ある港湾荷役設備を輸出しました。
設備を納入した数年後、新たに別の荷役用特殊車輌の国際入札がありました。入札結果は11番札でしたが、
前回も起用した現地エージェントが優れものなのであきらめず営業を続けることになりました。
落札して発注書をもらうまでジャカルタに張り付いて下さい、と上司から指示が出たのでジャカルタに前後3ヶ月間出張しました。
昭和55年ごろのことです。
2)滞在中のある晩ホテルの部屋の電話が鳴りました。目を覚まして時計を見ると夜の11時を過ぎています。中国系インドネシア人のエージェント、Tさんでした。
今からお客さんとレストランシアターへ行くので同行してくれと言います。有無を言わせない口調でロビーでお客さんと一緒に待っているからと言います。
慌てて着替えてロビーにおりました。 食事の後、さえないショーを見たり、間延びしたゴゴーダンスに付き合ったりしましたが、
さすがに午前2時頃眠くなり、先に1人で帰ることを了解してもらいました。
3)タクシーがホテルまでの道筋の真ん中あたりに来たとき警察の検問の灯りが見えました。自分はあせってパスポートを探しましたが、
ホテルのセイフテイボックスに預けたままでエージェントに急かされたので持出していませんでした。
日本の大手商社マンが警察とのトラブルで1ヶ月ブタ箱にほうり込まれ、数日前に出てきた時には全身皮膚病にかかっていたという話を聞いたばかりです。
全身が冷たくなっていくのがわかりました。自分を説明するものが何もありません。
警察官の振る赤い懐中電灯でタクシーが止まり、警官がインドネシア語で何か言っていますが少しもわかりません。
警官の顔がだんだん険しくなっていくような気がしてもうあかんと思ったとき、ふとポケットに固いものがあるのに気がつきました。
ホテルのルームキーでした。あわてて出てきたのでフロントに置かずそのまま持出したようです。
それを取り出して顔の前で必死にかざし、このホテルの日本人の宿泊客だと吠えました。
苦笑いをした警官から「行け」と合図が出てタクシーが走り出しました。ほっとして思わずタクシーのシートに倒れ込みそうになりました。
4)結果からすると、夜遊びをして帰る華僑から袖の下をとって小遣い稼ぎをする検問だったようですが、そんなことはその時は思いもよらず、
ただただパスポートを持ってないことを咎められると恐れおののきました。
なんせ真夜中の2時過ぎにジャカルタ郊外で他に誰もいなくてたった1人ですから。
それ以降は深夜の営業活動は勘弁させてもらいました。 いくつもある「よくあの場面を切り抜けた」経験のトップクラスの思い出の一つです。
その後いろんな経緯がありましたが、幸いこの商談は落札になり発注書をもらいました。当時の裏のあるインドネシア商談だからかもしれませんね。
画像は全てネットから引用。出張当時に自分で撮影したものではありません。
( 2002年、2003年ごろメールで知人友人に発信した「海外あちこち記」から。)
阿智胡地亭のエッセィサイト
2002年、2003年ごろメールで知人友人に発信した「海外あちこち記」から。
昭和50年代中頃、港湾荷役設備の商談でムンバイ当時のボンベイへ3、4回行きました。
日本から出るとボンベイには夜中の3時頃到着します。大きなビルが立ち並ぶ海岸線をホテルまで車で走るのですが、
街灯の下ごとに新聞をかぶった人達がえんえんと寝ています。同行したM商事の長谷さんに聞くと最下層のカーストの家族だということでした。
一年中、零度以下になることはないのですが、時々温度が下がることもあり、そんな日の朝はボンベイ市の清掃局のトラックが一家全員の凍死者の死体を回収に回るんだと。
「そんなアホな」と言うと「連中はいつも生存ぎりぎりの物しか食べられないので、いつも栄養失調であり、冬期にはよくあること」と言います。
街並みはヨーロッパの大都会並ですが、通りは子供の乞食が群れていて、彼らに付きまとわれて歩くことも出来ません。
インドに行くと人間も動物の一つの種類だと実感するとは聞いていましたが何日か過ごすと凍死者の話もほんとかなと思えるようになりました。
同時代にこの地球に生まれて、命の価値がこんなに違う・・・。インドに行くと人は皆、哲学者になるといいますが、
インドに生まれると輪廻の思想でもなければ日々生きていけないかも知れません。
一国にしてそのまま一つの宇宙であるインド・・、零の概念を人類で初めて考えついたインド人、今、世界のIT関連のソフト開発を支えている優秀なインド人達。そして仏陀の生まれた国。
大好きなインド料理を堪能した後、無思想の日本人サラリーマンであるボクは混乱したまま数日後、神田の雀荘「椿」でポン・チーに興じるのでした。
1)ムンバイでは昼前になると毎日、筒型をしたスズ製の容器の吊り輪に棒に通して、肩に沢山容器を担いだ人達がビルに入ってきます。
大きなビルにも小さなビルにも続々とやってきます。これはサラリーマンの弁当です。各人の家で作られたばかりの暖かい弁当を、
運び屋が契約した家ごとに回って集め、それをご主人の勤め先の会社まで届けると言う仕組みです。よくはわからないそうですが、
ボンベイは人口が1200万人の大都会ですから(そのうちスラムに500万人が住む)沢山のサラリーマンや大きな店の店員がおり、
ここに届けるのと食べた後の容器の回収で昼時は大混雑でした。2段重ねの入れ物の一つはライスやナンでもう一つはカレーなどの汁物だとのことでした。
何と贅沢な人達でしょう。会社で家と同じ物を毎日食べるなんて・・・その一方、昼食の運び屋という仕事をする人達があんなにいるなんて思いもよりませんでした。
2)ホテルを一歩出るとあっと言う間に30人位の子供の乞食に取り囲まれます。男の子も女の子もいます。
口々にテンパイ、テンパイ??と言いながら手を出してきます。とっくに忘れていたけれど、子供の時の自分と同じ年頃の戦災孤児の姿を思い出しました。
東京から同行したM商事の長谷さんから可哀相と思うだろうけど、この乞食集団の一人に一ルピーでも渡すと、
明日から集中的に狙われて囲まれるからみんなも困る。
絶対に渡さないでくれと言われていたので早足で通りを渡りましたが、私にとっては毎朝のストレスでした。
それぞれの集団に親方がいて、朝、乞食衣装を貸して夜鵜匠のように金を取り上げると言っていましたが真偽のほどはわかりません。
このカーストの子供は生きるために、五体満足に生まれながら、同情を買う為に親に不具にされることもあるなどという話も聞きましたが、
当地にいる間はそうかも知れんなと思っていました。
今思い出しても見た瞬間にこちらの身体が固まるような姿の乞食が沢山いましたので。
3)郊外に大きな洗濯場があるというので見に連れていってもらいました。
橋の欄干から下を見ると広大な広さのエリアに、段々に水が流れる洗濯場があって、屈強な男達が何百人も、
白い布に石鹸をつけて石に叩き付けて洗っていました。こういう場所がいくつもあり、商売は繁昌していると聞き、
この暑さだから毎日着替えるとなると膨大な仕事量だろうと納得しました。
4)大きな敷地を取った豪壮な屋敷がいくつも並ぶところを車で通りすぎたので、聞くとそこは「パーシー」が住む住宅街でした。
「パーシー」は昔のペルシャ、今のイランから ある時期にインドに移住した当時の貴族階級でいまだにインド人とは通婚せず、
純血を維持しているとのことです。インドの有力財閥「タタ」(タタ製鉄などのオーナー)はこのパーシーの一族です。
ところで日産の社長のゴーンさんの両親はレバノン人でブラジルへ移民で行き、ゴーンさんはブラジル国籍ですが、
彼は学校はフランスの最高学府の一つの理工科学院?を出てルノーに入社しました。 レバノン、シリア、イランなどはインドアーリア族で、
広くいえばアングロサクソンやラテン系民族と親戚みたいなものです。 インドの最高カーストのバラモンもその一つの集団ですが、
ボンベイの町で見かけるずんぐりむっくりの庶民の体つきや顔つきは、原住系の非アーリア系ドラビタ族の血を引いているのか、
ボクによく似ており何とも言えない不可思議な思いをしました。
この日本列島では昔のボートピープルで大陸や半島各地から、流れついた当時の先進文化を持ったと言うか、人殺しに効率のいい鉄製の武器を持った連中に、
原住系の親玉クラスは蹂躪、虐殺され、大半の原住民は下層に取り込まれましたが、歴史というのは勝者の歴史ですから、
いつのまにか血塗られた歴史は人の記憶から消され、古来から単一民族の国という事になってしまいました。
(ただ最近、古事記や日本書紀の文間から、抹殺出来なかったもう一つの歴史が沢山見つかってきています。
また、埋められた銅鐸が人の住まない谷間から道路工事や造成地工事でブルドーザーの歯先にひっかかって、襲撃されてあわてて隠されたままの形で1500年後に
あちこちで見つかったりしていますが)
それに比べ、陸続きの地域というのは、次から次へとニューエントリーして来た連中を止められずに、先祖の生きるか死ぬかの戦いの記憶を持ちながら、
いま同じ時空で異民族どうしで折り合いをつけたり、つけられなかったりしながら息をしながら生きているということでしょうか。
ほんま大陸に住む連中は、えらいことやと思いませんか。
* 画像は全てインターネットから借用。阿智胡地亭がムンバイに行った当時に撮影したものではありません。
1)ジャカルタの中心にあるホテルの部屋から下を見ると、バトミントンコートが何面も見えます。
毎週日曜日には、朝早くから若い男女が全面で一日中試合をしていました。インドネシアのバドミントンが、オリンピックで何回も連続して、
金メダルを取るほどの国民的スポーツであることを、ジャカルタに行ってはじめて知りました。コートの周りも応援団か見物人か沢山の人が出ていました。
2)昼飯は商社の連中とホテルの中華ランチや、日本人がやっている餃子からウドンや親子丼まである日本めし屋へ行きましたが、
オフィスのOL達は高層ビルの下に、昼時に何台も来る屋台で、広い大きな葉っぱにライスやバナナをヤシ油で揚げたものや、
色んなおかずを載せてもらい、木の下のベンチでうまそうに食べていました。一回やってみたいと言いましたが、
腹を下す覚悟ならどうぞと誰も一緒に付き合ってくれませんでした。(昼飯といえばロンドンやニューヨークで
日本商社に勤務している土地っ子OLが昼にどういう物を食べるのか、見るともなく見ましたが、紙袋からサンドイッチやクッキーを
出して食べている人が殆どで、外に食べに出る人はいないようでした。いずこも女性は堅実だなーと思いました)
3) 商社も単身者用に部屋数の多い、大きな屋敷を借り上げ、日本食を作るインドネシア人の住み込みのコックを何人かおいていました。
また食堂の一隅に大きな本棚があり、帰国時や出張者が置いていくライブラリーめいたものがあるので、
一ヶ月近い出張時には時折晩に日本飯をご馳走になりに行って、本を借りてホテルに帰りました。
商談ごとに扱いを依頼する商社が違って、結局別々にM物産さん、M商事さん、N・Iwaiさんの3社のお世話になりましたが、それぞれ現地支店の雰囲気が違いました。
ただ、どの商社の支店も日本人は全員が関西弁で喋っており、中にはちょっと変な関西弁の方が何人もいたので、
関西のご出身ですかと聞くと、いや私は日本では東京以外知りませんが、東南アジアのどの店でも、昔から関西弁が社内ビジネス語になっているので、
当地へ来て関西弁をいやでも覚えざるを得ませんでしたと、いまいましそうに言う人が何人もいて、思わず笑ってしまいました。
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ところで、欧州やアメリカの駐在員も赴任して数年は、ほとんどの人が任地の土地の悪口を言いますが、
ジャカルタの各社の駐在員もビジネス習慣の違いや国情にいらだつらしく、口を揃えて陰でこう言っていました。
「インドネシアは、人はオラン米はナシ魚はイカン」オランはオランウータンが森の人という意味のように
インドネシア語で「人」という意味です。また、ナシは近頃日本でもインドネシア風焼き飯をナシゴレンと言うように
「お米」のことです。(麺類はミーなので焼きソバはミーゴレンと言います)
おわかりのように「魚」のインドネシア語はイカンです。出張者の分際でそんなことはないでしょうとも言えず、
いつも黙って聞いていました。皆さんインドネシアに溶け込むというよりオフィスと宿舎を往復して
3、4年の任期を過ごす人が大半に見えました。まあ一年中、短パンとTシャツとゴム草履があれば暮らせる土地柄ですから、
高温多湿でクーラーがなければ過ごせず、四季のある日本に早く戻りたいというのが、かなりの人の本音のようでした。
(画像はネットから借用したものでやや古い年代の画像ですが昭和50年代のものではありません。)