トップの画像は 楊貴妃、くれないの全景です。
↓ 深山八重紫の全景です。
ほぼ盛りの楊貴妃
くれない(色つき始めました)
深山八重紫(がく片(外周部の装飾花)が成長して来ました)
◎アジサイは阿智胡地亭の中では、何となく地味な存在でしたがをこのように
特化して愛でると華があって味がある花だなあと思い始めました。
植物を 花芽が出て咲きだして盛りになるのをずっと連続で見守っていく
のは暮らしの楽しみの一つですね。
トップの画像は 楊貴妃、くれないの全景です。
↓ 深山八重紫の全景です。
ほぼ盛りの楊貴妃
くれない(色つき始めました)
深山八重紫(がく片(外周部の装飾花)が成長して来ました)
◎アジサイは阿智胡地亭の中では、何となく地味な存在でしたがをこのように
特化して愛でると華があって味がある花だなあと思い始めました。
植物を 花芽が出て咲きだして盛りになるのをずっと連続で見守っていく
のは暮らしの楽しみの一つですね。
鎌倉の「七里ヶ浜写真館」館主のHTさんから「アジサイ」の便りが来ました。☝楊貴妃
⇒「我が家のヴェランダにもヤマアジサイが咲きました。
3種類あってそれぞれの全体とクローズアップです。
あじさいの種類(分類)については諸説あるようですが、
「アジサイ」は総称で下記に分類され、それぞれに「ガク咲き」と
「テマリ咲き」がある。
1.は日本から出て欧州で品種改良されたものが多い。性質が強く家庭、お寺、神社、公園等で一般的に見られる。
2.はもともと日本で自生していた在来種、比較的小型で地味で日本人好み?
以前は1.と2.を合わせてヴェランダを席巻していましたが、断捨離で今は「ヤマアジサイ」の「ガク咲き」の3種類のみです。
楊貴妃 全体
くれない 全体
くれない 蕾の状態
冬のくれない
深山八重紫 全体
深山八重紫
こちらの写真は数年前まで我が家にあった「ガクアジサイ」の「ガク咲き」と
「テマリ咲き」です。
まだ咲き始めですので今後の花の変化に応じてお届けしたいと思います。」
磯のすーさんのブログのエントリー「稲村ヶ崎 強風で砂が飛んで来ました 2011年4月25日ブログの再アップです - 磯のすーさん あれこれ (goo.ne.jp)」 ←click
を鎌倉の「七里ヶ浜写真館」のHT館主に連絡したら、館主が朝の散歩のいつものコースを変更し10年後になる2021年4月26日の「稲村ヶ崎」の撮影に行かれました。
七里ヶ浜写真館館主から頂いたメール⇒「あいにくの逆光ですが稲村ヶ崎の写真です。
いかにも新田義貞が刀を海に投入するにふさわしい地形ですね。 唱歌「鎌倉」は “七里ヶ浜の磯づたい”で始まります。
トップと個の画像は稲村ヶ崎からの富士山です。
北からの強風のおかげでこの季節には珍しく久しぶりにくっきりと姿を見せました。
銅像は1910年(明治43年)1月、ボートで遭難した逗子開成中学の12名の少年を悼んで建立されたものです。
「真白き富士の根(七里ヶ浜の哀歌)」の歌詞が刻まれています。私の愛唱歌の一つですが2番の最後は“恨みは深し七里ヶ浜辺”で
結ばれています。我が地、七里ヶ浜も結構歌に出てくるなとあらためて思いました。」
◎HTさん なんと見事な富士山でしょう!! ありがとうございました。
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おまけ・・・
☝ トップの桜 盆踊り公園の八重桜
鎌倉・七里ヶ浜のソメイヨシノはまだ五分咲きです
満開の山桜
満開の山桜 その2
大島桜も満開です
これは桃の花?(八重咲き)
撮影はいずれも七里ヶ浜写真館のT館主。
コロナ禍が起きる昨年まで月に一度は三人会で美術館巡りしていたメンバーの一人である鎌倉在住の田中さんが11月半ばに信州諏訪の旅を楽しんできました。
写真シリーズの最終回です。 田中さん 多様で素敵な写真のおかげで すぐにでも諏訪に行ってみたくなりました。ありがとうございました。
宿の晩酌の「上諏訪五蔵試飲セット」☝ 帰りの列車が来るまでJR上諏訪駅すぐの「いずみ屋Click」でも試飲セットを楽しんだそうです。☟
田中さんからのメール⇒「このいずみ屋さんでも五蔵の試飲セットを注文しました。
諏訪の地場料理の定食でした。
馬刺しを半分ほど食した時点で思い出して撮影しました。
この後お盆のスペースにゆば料理が出ましたが、いずれも
家庭的で素朴な味わいですが美味しかったです。」
諏訪湖の川鵜たちからボクらの画像を忘れては困るよと・・・・
「鎌倉住人の諏訪の旅 アルバムシリーズ」完。
鎌倉の住人田中さんの写真シリーズ第五回は万治の石仏と下諏訪町です。
万治の石仏 Wikipediaから一部引用
長野県諏訪郡下諏訪町東山田字石仏にある、江戸時代前期の1660年(万治3年)に造られた石仏。下諏訪町指定文化財(昭和57年(1982年)3月26日指定)[1]。
高さ約2.7メートル、奥行き約4メートルの胴体の上に、高さ約60センチメートルの頭部が載る。「万治」という名は、同仏像の胴部に「南無阿弥陀仏 万治三年十一月一日 願主 明誉浄光 心誉慶春」と銘が銘が刻まれていることに由来する[2]。
伝承によると、諏訪大社下社春宮に石の大鳥居を立てるため、この石仏を材料にしようと鑿を入れたところ(その鑿は現存している)、そこから血が出てきたため職人達は祟りをおそれ、その晩に夢枕で上原山に良い石材があるという夢を見た職人達が探しに行くと見つけることが出来、職人達はこの石仏を阿弥陀如来として祀った。それに因んでこの辺りの小地名は「石仏」となっている。
同仏像は、芸術家の岡本太郎が訪れて絶賛したことにより有名となった。また、上諏訪町(現・諏訪市)出身の小説家・新田次郎も万治の石仏を賞賛しており、同仏像はイースター島の石人の頭部が日本へもたらされたものとする大胆な想定を基にして小説『万治の石仏』を著している。 こちらでも紹介
万治の石仏に至る小径の紅葉
下諏訪町 の山猫亭で蕎麦をたぐる
中山道 下諏訪宿 の本陣
下諏訪町は、長野県のほぼ中央にあり、直線距離で県庁所在地の長野市から50km、東京から200kmのところにある Wikipediaから一部引用
下諏訪町を含めた諏訪地域は近くに全国でも数箇所しかない石器の材料となる黒曜石の一大産出場である和田峠(町北部から長和町にかけて採掘跡がある)の恩恵により縄文時代から人の居住が見られた。この地域で産出された黒曜石は、関東一円の遺跡から見つかっており、黒曜石の生産に関しては一説によれば日本列島内で最も先進的な地域だったらしい。付近の茅野市には多くの縄文遺跡があり、同市の棚畑遺跡からは国宝に指定された土偶(通称「縄文のビーナス」)が出土している。弥生時代には、出雲などの西国から来た渡来人が稲作文化を諏訪へ伝えた。
古代の律令制下において、町域は信濃国諏訪郡の一部であった。続日本紀によると、奈良時代の一時期、諏訪地域は信濃国から分立し、諏方国として1つの国をなしていたが、約十年で信濃国に復された。
戦国時代初期までは現在下諏訪町にある諏訪大社下社方と諏訪市および茅野市にある上社方が闘争状態となる。下社方の金刺氏は上社方の諏訪氏に対して劣勢となったため、上社方の内紛に付け入って復権を図るため戦いを仕掛けるがこれに失敗。最後の当主は甲斐の武田信虎を頼って落ち伸びた。信虎は甲斐国内を統一すると諏訪地方への最初の侵攻を開始するが、、金刺氏の失地回復も大義名分のひとつであった。その後、晴信(信玄期)に本格化した信濃侵攻における諏訪攻めによって諏訪とともに武田家に占領される。
諏訪氏の高島藩が支配していた江戸時代の初期に街道整備が行われ、中山道と甲州街道を合流させるため、これまで通っていた東山道の道筋を一部改定し、合流点に下諏訪宿を設けた。甲州街道と中山道の分岐であること、北に和田峠、東に塩嶺峠と中山道有数の難所を控えることから、宿場に泊まる旅人が多く大いに賑わった。温泉が湧出している数少ない宿場町のひとつだった。貞享年間は飢饉が続いており、農民は困窮していたが高島藩主が年貢を下げたためなんとか落ち着いた。
明治維新後、萩倉地区の山間部で水車を利用した製糸業が始まる。明治36年の中央線開通により平野部に工場が移転し、諏訪地方の中で最も早く器械製糸が始まった。1910年代から1920年代にかけて隣の岡谷市が資本の集中に成功し、製糸業の中心地として栄えた。その影響が町内にもおよび、諏訪湖周辺は生糸工場が立地し山の裾野では養蚕に必要な桑の栽培と養蚕が盛んであった。
太平洋戦争中は大規模な工場が大都市から町内を含めた諏訪地域に疎開移転し、それが現在の東洋のスイスと呼ばれるこの町の精密工業の礎となっている。三協精機によるオルゴール製造で生産高が一時世界一となり、また隣の諏訪市に本社を置くセイコーエプソンはこのときの移転があったから現在の姿があるといわれている。
高度経済成長期には諏訪湖の汚染と富栄養化が顕著となり、全国で下位クラスの汚い湖になってしまったが、現在は浄化運動が行われ透明度は改善傾向にある。平成の大合併は諏訪地域にも影響を及ぼし諏訪地域全体で合併する構想も出たが、現在はなくなり自立の道を模索している。
下諏訪の今井邦子文学館
今井邦子へ島木赤彦から出状された書簡
今井邦子 Wikipediaから一部引用
今井 邦子(いまい くにこ、明治23年(1890年)5月31日 - 昭和23年(1948年)7月15日、旧姓山田、本名くにえ)は、徳島市出身の「アララギ」の歌人、小説家。後に短歌誌「明日香」を創刊した。
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その6完に続く
真澄☝
コロナ禍が起きる昨年まで月に一度は三人会で美術館巡りしていたメンバーの一人である鎌倉在住の田中さんが11月半ばに信州諏訪の旅を楽しんできました。
写真シリーズ第四回は諏訪の造り酒屋 五蔵めぐりです。
「諏訪五蔵とは
「舞姫」「麗人」「本金」「横笛」「真澄」。諏訪市の甲州街道沿いには、わずか500mの間に5軒の酒蔵が立ち並びます。同じ霧ヶ峰の伏流水を仕込み水に使いながら、それぞれに特徴のある個性豊かな酒を醸し続けてきました。ライバル同士ではありますが、ご近所仲良く「酒の街・諏訪」を盛り上げていけたら。「諏訪五蔵」はそんな心意気で立ち上げた酒蔵グループです。 (諏訪五蔵のネットサイトから)
真澄の店内
舞姫
横笛
本金
麗人
5社によるサイトから こちら。
◎三重県四日市市に住んでいた小中学生時代、夏休みに地図にある小和田の伯父の家に泊まり 従兄弟たちと地区の共同温泉につかり 菩提寺の教念寺にお参りし 氏神の八剱神社にも参詣しましたが
当然 子供に造り酒屋がこんなにあることを誰も教えてくれなかったので 当時 五蔵のことは全く知りませんでした(笑)。
余談ながら地図にある角間川の上流にある「角間新田」は小説家 新田次郎(本名 藤原 寛人)の出身地で 彼のペンネーム「新田次郎」は(新田の次男坊)からとったそうです。
なお数学者・エッセイストの「藤原正彦」は新田次郎の次男で 新田次郎の奥さん「藤原てい」さんが満州から3人の子を連れて引揚げた記録を書いた「流れる星は生きている」は
戦後すぐのベストセラーになりました。 私の両親は旧制中学校、女学校で学年が一年違いでそれぞれ 新田次郎さんと藤原ていさんのお二人とは顔なじみだったそうです。
その五に続く
高島城☝
コロナ禍が起きる昨年まで月に一度は三人会で美術館巡りしていたメンバーの一人である鎌倉在住の田中さんが11月半ばに信州諏訪の旅を楽しんできました。
写真シリーズ第三回は高島城と高島公園です。
高島城と石垣
天守から見た高島公園
天守から市内と諏訪湖を望む
諏訪市の中心部
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天正10年(1582年)3月の武田氏の滅亡後、甲斐国と信濃諏訪郡は織田氏の家臣・河尻秀隆が領し、諏訪郡には秀隆の家臣・弓削重蔵が配置された。同年6月の本能寺の変による「天正壬午の乱」の後、諏訪郡を領した諏訪頼忠は、平城の金子城(諏訪市中洲)を築き、新しい拠点としたが、1590年(天正18年)に諏訪頼忠が武蔵国奈良梨に転封となり、代わって日根野高吉が、茶臼山にあった旧高島城に入城する。
高吉は、1592年(文禄元年)から1598年(慶長3年)にかけて、現在の地である諏訪湖畔の高島村に新城を築く。その際村人には漁業権や賦役免除権などの特権を与える代わりに小和田へ移転させた。高吉は織田信長、豊臣秀吉の下で普請を経験していたことから、織豊系城郭として築城し、石垣を築いて天守も上げた。同時に上原城周辺にいた商工業者を移住させ、城下町の建設を開始した。Wikipediaから一部引用
(豊臣秀吉の配下の武将で城普請のベテランだった)日根野高吉が築城の適地とした高島は、当時諏訪湖畔に島状を呈していたと思われる場所で「浮島」とも呼ばれ、ここには主に漁業を営む村落があったことが記録に残っています。高吉はこの村をまるごと移転させて高島城を築いたといわれています。完成当時は、城のまわりは湖水と湿地に囲まれ、あたかも諏訪湖中に浮かぶようであったので、別名「諏訪の浮城」と呼ばれました。
城の北側には城下町(兼甲州道中上諏訪宿)が設けられ、城下町から城までは一本の道しかありませんでした。城は、北から衣之渡郭、三之丸、二之丸、本丸が一直線に並ぶ「連郭式」と呼ばれる形態です。
本丸には三層三階の望楼型天守が建てられましたが、天守をはじめ主要な建物の屋根が瓦葺きではなく杮葺きだったことも、高島城の大きな特徴です。湖畔の軟弱地盤で重い瓦が使えなかったからとか、寒冷地である諏訪では瓦は凍み割れてしまうからとか言われていますが、はっきりしたことはわかっていません。引用元はこちら。
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◎ 名もない庶民の系統にしては珍しく阿智胡地亭の先祖は高島からまるごと「小和田(こわた)」という湖畔の地区に移転させられたためこうして歴史に記録が残りました。
当時高島にあった島の氏神さま「八剱神社」もやはり「小和田」に移され、諏訪大社上社の摂社として諏訪湖の「御神渡」の認定と記録を継続しています。
小和田地区は今も24時間温泉が諏訪湖の中から各戸に引かれ それぞれの家庭内で温泉を楽しんでいる日本でも珍しい地域です。
毎日新聞
厳寒期の諏訪湖に発生する御神渡(おみわた)り。湖面の氷が筋状に割れてせり上がる冬一番の風物詩も、地球温暖化の影響か、平成以降は御神渡りのない「明けの海」が急増している。
八剱(やつるぎ)神社(諏訪市小和田)の宮司として、1986(昭和61)年から御神渡りの認定と神事をつかさどる。前年の85年2月3日の拝観式。父の清通さんが祭主を務めた一部始終を初めて見学し、脳裏に焼き付けた。写真以外で見た氷上の父親の姿は最初で最後に。その年の10月、清通さんは病気で71歳で逝去した。「たった一度きりだったが、参列して見たことは自分がスタートする上で心強いものだった」と懐かしむ。
以来、今冬まで35回観察し、うち御神渡りを認定して拝観式に臨んだのは10回。冬は結氷して当たり前のように御神渡りができたかつての諏訪湖。小寒の1月6日から節分の2月3日まで続けた早朝の湖面観察を振り返り「岸辺に薄氷がちょっと張った程度。厳しい寒さを感じないまま立春を迎えました。寒さを祈りましたね」。
御神渡りの記録は、諏訪神社大祝(おおほうり)家の「当社神幸記」に1443年から1682年まで、八剱神社の「御渡帳」に1683年から現在まで書き継がれている。この577年間に明けの海は78回(不明の5回を含む)で、平成以降は23回に上る。「御渡りの現象を、人々は恐れと畏敬(いけい)の念を持って関わってきた。その年の天候や事象、作物の出来などを書き留めた膨大な記録は、歴史の歩みの貴重な資料」と位置付け「書き継ぐことの大切な役目を担うことで歴史の重みをつくづくと思います」。
22日に八剱神社であった「諏訪湖御渡り注進奉告(ほうこく)祭」で「本年は明けの海にて御渡り御座無く候」と神前に報告。諏訪大社にも明けの海の注進状を納めた。【宮坂一則】
■人物略歴
1950年、諏訪市生まれ。岡谷南高、国学院大神道学科卒。京都市の伏見稲荷大社で神職の基礎を学び、諏訪大社(諏訪市など)を経て2000年9月から手長神社(同市)宮司。同社や八剱神社など15社の宮司を兼務し、八剱神社の宮司は明治以降5代目。
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シリーズその四に続く
鎌倉在住の田中さんの信州諏訪の旅の写真シリーズ第二回は諏訪大社です。
上社本宮 一の御柱☝ 上社本宮 拝殿☟
上社前宮 拝殿
前宮の裏の紅葉 アカマツか?
下社春宮 幣拝殿
下社秋宮 神楽殿
諏訪大社の公式サイトから
諏訪大社(すわたいしゃ)は、長野県の諏訪湖の周辺に4箇所のお宮をもつ神社です。信濃國一之宮。神位は正一位。全国各地にある諏訪神社の総本社であり、 国内にある最も古い神社の一つとされております。諏訪大社の歴史は大変古く古事記の中では出雲を舞台に国譲りに反対して諏訪までやってきて、そこに国を築いたとあり、また日本書紀には持統天皇が勅使を派遣したと書かれています。
諏訪大社の特徴は、本殿と呼ばれる建物がありません。秋宮は一位の木を春宮は杉の木を御神木とし、上社は御山を御神体として拝しております。古代の神社には社殿がなかったとも言われています。つまり、諏訪大社はその古くからの姿を残しております。諏訪明神は古くは風・水の守護神で五穀豊穣を祈る神。また武勇の神として広く信仰され、現在は生命の根源・生活の源を守る神として御神徳は広大無辺で、多くの方が参拝に訪れます。
全国に分布する御分社は一万有余社を数えお諏訪さま、諏訪大明神と親しまれ、敬まわれつつ巾広い信仰を有し、御神徳の数々は枚挙にいとまがありません。古くからある信仰には風と水を司る竜神の信仰や、風や水に直接関係のある農業の守護神としての信仰が著名です。また水の信仰が海の守り神となり、古くからある港の近くには必ずと言っても良い程にお諏訪さまがお祀りされております。
神功皇后の三韓出兵や坂上田村麿の東夷平定にも神助ありと伝えられ、東関第一の軍さ神、武家の守護神とも尊ばれて来ました。精進潔齋を形だけする者より、肉を食べても真心込めて祈る者を救おうという諏訪大明神御神託や、浄瑠璃や歌舞伎の本朝二十四孝が世上に広まるにつれ、日本の屋根信州諏訪の地へとの参拝者も日と共に繁く、諏訪大明神の御神徳の厚きことが伺われます。
御神体は守屋山という山であり、その麓に建てられていて豊かな社叢に覆われた境内は荘厳な雰囲気で、一年を通じて参拝者が絶えることがありません。
本殿はなく、幣拝殿の左右に片拝殿が並ぶ独特の配置で戦国時代、武田勝頼が造営した社殿は天正10年(1582)織田信長の軍勢によって焼き払われましたが、天正12年(1584)諏訪頼忠が上社を再興、現在の社殿は天保9年(1838)に二代目立川和四郎冨昌が棟梁を務めて建造されました。
片拝殿の彫刻「笹に鶏」「粟穂に鶉」は立川流の最高傑作といわれています。境内のほぼ真ん中にある東西の宝殿は御柱の年の寅年と申年に交互に建て替えられ、新しい宝殿で宝殿遷座祭が行われます。
本宮の東約2kmの所にある前宮は、御祭神である建御名方神(たけみなかたのかみ)が国譲りで諏訪に退いたとき、最初に居を定めた地ともいわれ、古くは前宮があるこの地で上社すべての祭祀が執り行われていた、いわば諏訪信仰発祥の地です。
上古には大祝(おおほうり)の居館や付属するたくさんの建物が軒を連ねていましたが、近世初頭頃までに大祝が宮田渡に移ると祭典に必要な建物のみになりました。しかし前宮は古くから上社の祭祀が行われた場所であり、最も重要とされる御頭祭(おんとうさい)は今でも前宮の十間廊で行われています。
現在の建物は、昭和7年に伊勢神宮の古材で建てられた本殿と、内御玉殿、十間廊となっています。
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その三に続く
上諏訪の湖畔から下諏訪、岡谷方面を望む☝
コロナ禍が起きる昨年まで月に一度は三人会で美術館巡りしていたメンバーの一人である鎌倉在住の田中さんが11月半ばに信州諏訪の旅を楽しんできました。
写真シリーズ第一回は諏訪湖です。阿智胡地亭が自分のルーツの地、「諏訪」を最近訪ねたのは10年も前なのでしみじみと懐かしく画像を楽しんでいます。
朝の諏訪湖
夕暮れ時の諏訪湖