高島城☝
コロナ禍が起きる昨年まで月に一度は三人会で美術館巡りしていたメンバーの一人である鎌倉在住の田中さんが11月半ばに信州諏訪の旅を楽しんできました。
写真シリーズ第三回は高島城と高島公園です。
高島城と石垣
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天守から見た高島公園
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天守から市内と諏訪湖を望む
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諏訪市の中心部
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諏訪高島城
天正10年(1582年)3月の武田氏の滅亡後、甲斐国と信濃諏訪郡は織田氏の家臣・河尻秀隆が領し、諏訪郡には秀隆の家臣・弓削重蔵が配置された。同年6月の本能寺の変による「天正壬午の乱」の後、諏訪郡を領した諏訪頼忠は、平城の金子城(諏訪市中洲)を築き、新しい拠点としたが、1590年(天正18年)に諏訪頼忠が武蔵国奈良梨に転封となり、代わって日根野高吉が、茶臼山にあった旧高島城に入城する。
高吉は、1592年(文禄元年)から1598年(慶長3年)にかけて、現在の地である諏訪湖畔の高島村に新城を築く。その際村人には漁業権や賦役免除権などの特権を与える代わりに小和田へ移転させた。高吉は織田信長、豊臣秀吉の下で普請を経験していたことから、織豊系城郭として築城し、石垣を築いて天守も上げた。同時に上原城周辺にいた商工業者を移住させ、城下町の建設を開始した。Wikipediaから一部引用
(豊臣秀吉の配下の武将で城普請のベテランだった)日根野高吉が築城の適地とした高島は、当時諏訪湖畔に島状を呈していたと思われる場所で「浮島」とも呼ばれ、ここには主に漁業を営む村落があったことが記録に残っています。高吉はこの村をまるごと移転させて高島城を築いたといわれています。完成当時は、城のまわりは湖水と湿地に囲まれ、あたかも諏訪湖中に浮かぶようであったので、別名「諏訪の浮城」と呼ばれました。
城の北側には城下町(兼甲州道中上諏訪宿)が設けられ、城下町から城までは一本の道しかありませんでした。城は、北から衣之渡郭、三之丸、二之丸、本丸が一直線に並ぶ「連郭式」と呼ばれる形態です。
本丸には三層三階の望楼型天守が建てられましたが、天守をはじめ主要な建物の屋根が瓦葺きではなく杮葺きだったことも、高島城の大きな特徴です。湖畔の軟弱地盤で重い瓦が使えなかったからとか、寒冷地である諏訪では瓦は凍み割れてしまうからとか言われていますが、はっきりしたことはわかっていません。引用元はこちら。
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◎ 名もない庶民の系統にしては珍しく阿智胡地亭の先祖は高島からまるごと「小和田(こわた)」という湖畔の地区に移転させられたためこうして歴史に記録が残りました。
当時高島にあった島の氏神さま「八剱神社」もやはり「小和田」に移され、諏訪大社上社の摂社として諏訪湖の「御神渡」の認定と記録を継続しています。
小和田地区は今も24時間温泉が諏訪湖の中から各戸に引かれ それぞれの家庭内で温泉を楽しんでいる日本でも珍しい地域です。
厳寒期の諏訪湖に発生する御神渡(おみわた)り。湖面の氷が筋状に割れてせり上がる冬一番の風物詩も、地球温暖化の影響か、平成以降は御神渡りのない「明けの海」が急増している。
八剱(やつるぎ)神社(諏訪市小和田)の宮司として、1986(昭和61)年から御神渡りの認定と神事をつかさどる。前年の85年2月3日の拝観式。父の清通さんが祭主を務めた一部始終を初めて見学し、脳裏に焼き付けた。写真以外で見た氷上の父親の姿は最初で最後に。その年の10月、清通さんは病気で71歳で逝去した。「たった一度きりだったが、参列して見たことは自分がスタートする上で心強いものだった」と懐かしむ。
以来、今冬まで35回観察し、うち御神渡りを認定して拝観式に臨んだのは10回。冬は結氷して当たり前のように御神渡りができたかつての諏訪湖。小寒の1月6日から節分の2月3日まで続けた早朝の湖面観察を振り返り「岸辺に薄氷がちょっと張った程度。厳しい寒さを感じないまま立春を迎えました。寒さを祈りましたね」。
御神渡りの記録は、諏訪神社大祝(おおほうり)家の「当社神幸記」に1443年から1682年まで、八剱神社の「御渡帳」に1683年から現在まで書き継がれている。この577年間に明けの海は78回(不明の5回を含む)で、平成以降は23回に上る。「御渡りの現象を、人々は恐れと畏敬(いけい)の念を持って関わってきた。その年の天候や事象、作物の出来などを書き留めた膨大な記録は、歴史の歩みの貴重な資料」と位置付け「書き継ぐことの大切な役目を担うことで歴史の重みをつくづくと思います」。
22日に八剱神社であった「諏訪湖御渡り注進奉告(ほうこく)祭」で「本年は明けの海にて御渡り御座無く候」と神前に報告。諏訪大社にも明けの海の注進状を納めた。【宮坂一則】
■人物略歴
宮坂清さん(みやさか・きよし)さん
1950年、諏訪市生まれ。岡谷南高、国学院大神道学科卒。京都市の伏見稲荷大社で神職の基礎を学び、諏訪大社(諏訪市など)を経て2000年9月から手長神社(同市)宮司。同社や八剱神社など15社の宮司を兼務し、八剱神社の宮司は明治以降5代目。
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シリーズその四に続く