文化博物館の帰り、一駅離れた四条で地下鉄をおりて18番出口の大丸から地上に出て京都に行けば必ず寄る「錦市場」に行きました。
この日は外国人観光客もほどほどてそれほど混んでいなく、目当ての「鯉の甘煮」を買って帰りました。いつも買うハモの照り焼きは品数が少なく
も一つだったので今回はやめました。店員がどの店でもカタコト?の英語を駆使して外国人相手に積極的に対応しているのはもう普通の風景です。
新しい資本が入って店の入れ替わりもあるようですが、客の来る市場は活気があって歩くだけでも楽しい。
子供たちは「フィールドアスレチック-子供の森冒険コース」をたっぷり楽しんでから帰途につきました。
行きは山陽電車月見山駅で下車しましたが、帰りはひとつ西の駅の須磨寺駅まで歩きました。老舗の店に予約してあった「押し寿司」を受け取って帰るためです。
離宮道の松並木を下りて駅に向かいました。
店は今日は予約だけで一杯で店頭売りはありませんと言われて残念そうに帰るお客さんが絶えませんでした。
前回は2015年1月に離宮公園に行く前に3人で店内で食べました。
前回⇒山陽電車の須磨寺駅で下車してまず腹をこしらえるために「志らはま鮨」で昼食にしました。
聞いてはいましたが穴子をはじめ、それなりの値段に見合う十分な旨さでした。
須磨寺前商店街は平日の昼時で空いていました。
前回の須磨離宮公園はこちら。
毎年、8月の第一週の土曜日と次週の火曜日に歩いていて、来年も催す予定だそうです。
野坂昭如作・オンライン小説『いつもいろんな犬といっしょ』から部分引用。
ぼくの育った神戸市東の外れ、この地域は、今、感傷的に、美しく思い返す、黄金時代のありきたりを超えて、住みやすい地域だった。15分歩けば、六甲山山麓に至り、10分で、文字通り白砂青松、泳ぐ者の影が海底にうつる清らかな海。山際の至るところに自噴の泉があり、当時の、市の東を限る石屋川の水は豊か。
この川上に水車小屋5軒、川床の石をはぐと、小さなカニがあわてて横走りに逃げ出す、山道を辿れば池、外国人の飼う毛の長い犬がよく泳いでいた。木々の葉末は、陽光、またその池の面照り返しを浴びいつもキラキラ光っていた。水から上った犬の、身震いして飛び散る水も光っていた。
山際に私鉄として、いちばんスピードの早い阪急電車、犬を連れて乗れた。時に犬だけ、御影から芦屋まで、無賃を申し訳なく思うのか、常にドアのそば。創設者小林一三は、しゃれた車両ながら、ブレーキの際、飛び散る鉄粉の汚れを考えて、車体はチョコレート色。ひきかえ、神戸市市電は、スマートな薄緑。
阪急の南に、省線、さらに阪神国道を走る単両の電車、海岸近くに阪神電鉄。南北2,3キロの間に4本が走る。六甲道駅から、灘を経て三宮駅、駅の西、南北に一直線の筋が、山際にある塔を持つホテルにちなみ、トアロードと呼ばれ、俳人西東三鬼が、奇妙な連中と過ごし、途中のレストラン「ハイウェイ」は谷崎の御贔屓西洋料理屋。
扇型の防波堤を持つ、神戸港は、ヨーロッパ航路の拠点港、三宮駅を南へ降りると百貨店そごう、その先きまっすぐな道の果てに、時計台を持つ税関が見える。神戸の子供は、埠頭、保税倉庫、上屋、税関の役割をよく心得、たいてい5色のテープの端を持ち、汽笛と共に、いつ動いたとも判らぬ巨大な船の、いつしか防波堤近くで、船体を横に向け、さらに、せまい堤と堤の間を抜けて、彼方へ消える、埠頭近くに、5色のテープが波につれ上下、しみじみ人の別れを経験した覚えがある。
もっとも、この一抹のわびしさは、そごうの手前、市電の曲がり角にある「ユーハイム」から、左へ入って百貨店大丸、境内に映画館や安直な食いもの屋が並ぶ生田神社へ、親の足が向けば、たちまち失せる。まっすぐ阪急の終点、駅ビルでもいい、ここの2階はゲームセンター、大阪の本店同様、名物カレーライス、映画館もあった。
元町通りの手前が大丸、西の終りに三越デパート、この間、6丁が神戸の繁華街元町、万国旗と、セーラー服の外人の似合う商店街、鈴蘭燈が名物。書店、古本屋の多い街並み、もちろん、ヨーロッパ直伝の洋品、当時でいう唐物屋、日本でいちばん早くアチラのファッション、と当時はいわない。
ただ洋服をテーラーと子供も呼んだ。猫の目の如く、女物がどうだったか知らない。生地すべて英国製。三越から省線を越えて、戦時下、もてはやされた湊川神社。この西に、少年と縁のない吉原、島原と並ぶ三大遊廓福原。さらに西が、大興行街「新開地」。
六甲道駅を東へ辿れば、御影、住吉、芦屋、この山際から国道まで、まず高級住宅地、特に阪急より上の住吉、阪急から国道までの芦屋は、到底、田園調布の比じゃない。1軒敷地300坪。
東西に走る4本の電車と、湊川、生田川、大石川、石屋川、住吉川、夙川と南北を流れるほゞ直線の川で、神戸市と、今でいう衛星都市は画然と分たれ、東の大川、武庫川で、神戸は限られる、向こう側は、大阪圏。
武庫川と、六甲山地、東の外れに宝塚、武庫川の海へ注ぐ少し西に、甲子園球場、オリンピック用プール、そして数十面のテニスコート、後、予科練の訓練場、滑走路になったらしい。阪神パーク。
小林一三の開いた宝塚は、本来は温泉。温泉の湯槽のフタの上で始まっったタカラヅカは、昭和に入って「少女歌劇」全国に知られ、大劇場完成、付帯して動物園、遊園地、川向こうに以前からの三業地。少し歩けば清荒神、年寄りはここへ詣で、女たち少女歌劇、子供は動物園遊園地、それぞれ楽しんで、夕刻、料理屋で御飯。ぼくの場合、宝塚、西宮北口、阪急六甲で帰宅するのだが、1時間かゝらなかった。
飼犬と電話と「女中」の数が世帯に比しいちばん多いのが芦屋市といわれていたが、新興住宅地、六甲道駅近辺にも、他にくらべ、この贅沢三点セットは珍しくなかった。
永手町から、昭和11年暮、省線南側中郷町へ引越し、設備の整った成徳小学校へぼくを通わせるため、北向きのやはり2軒長屋だったが、後の隣組20数軒でいうと、3軒に1軒電話と犬、女中は3軒に2軒。中郷町の犬たちは住いを有し、つながれていた。
ベルは以前のまま。雑種じゃなく、由緒正しい犬もいたはずだが、犬種を覚えていない。セーターに、ホームスパンのスカートの美少女が悠然と歩を進めるシェパードをつれて、よく夕刻近くを歩いていた。ベルを伴い、これにぶつかると立止って見送るしかないが、純血種を求める気持はまったくない。ベルは海を嫌った。
定刻の5分過ぎに歩き出すと、若い人たちも何人か参加しているのがわかりました。総勢は90人ほどでしょうか。
歩くエリアは大体は知った場所で、ブログにも何回も登場しています。
しかし、案内者がいてその説明を聞いたり、案内ボードを教えてもらうと別の土地を歩いているような気になります。
〇トップの画像は御影公会堂を山側から撮影したもの。
〇阪神御影駅で集合。参加費は資料代に100円。
〇石屋川から六甲山を望む。ここが徳川道の拠点
〇石屋川公園のモニュメント
〇御影公会堂
〇神戸市と合併するまでは、このあたりは東灘区ではなく菟原郡(その後に武庫郡)御影町だった。
〇成徳小学校の玄関天井にあるシャンデリア。小学生の張満谷昭如少年も見上げたかもしれない。
◎このウォーキングに参加した目的は、野坂昭如が養家の両親や同じく養女の妹と暮らした“張満谷”家
が、中郷町のどこにあったのか特定して教えてもらいたかったのだが、残念ながら一帯は、米空軍による焼夷弾の
絨毯爆撃を受けて全くの焼野原となり、東西南北の街中の道路もわからなくなり、今は特定が難しいとのことだった。
十三で阪急神戸線から京都線に乗り換えて四条大宮駅下車。55番のバスに30分ほど乗り立命館大学へ。
写真家の大石芳野さんや新たに七人委員会のメンバーになった小説家の高村薫さんと、大学の先生をやってきた人の話は、有るべき姿を語る学者と、個人事業者というか現業者との違いをモロに感じました。小説や撮影の取材で生身の人間の生きるさまをその場で見て、実態を感知してきた人、そして同業との競争にさらされ、常に表現者の意図と志を問われ、しかもその結果は売れてなんぼの修羅場をくぐっている人と、基本的には研究室で文献を研究し論文を作り大学から決まった日に給料が口座に振り込まれてくる生活が長かった人。その差が人間やその語りに出るのは当然なんでしょう。その学者さんの中で「あるべき姿に近づける実践に王道はない、隙間を狙って声を上げて一つでも変えていく手立てを一人一人が考えるしかない。」と言う小沼通二さんは、七人の会の事務局長を長くされている物理学者だが、研究室を飛び出した行動する学者のようで、この人や会を支えるスタッフがいて七人委員会が続いているようです。
この人の話を聞きたくて行った高村薫さんは、野間宏の処女作「暗い絵」の紹介をされました。
この小説に描かれている時代といま現在の日本は、当時の特高や憲兵というカタチは今なくとも、物言えば唇寒しのところがよく似てきたことを一人一人が知るべきと。しかしまだ諦めることは全くない。最近動き出した若い主婦や学生のように自分の事と受け止め行動する人たちが出てきたと。我々年寄りは彼らをサポートしようと。写真家の大野さんは戦争が起きて一番先にえらい目に会うのは世界中共通で、女子供病人年寄りだと、彼女がこれまで撮影してきたスライドでまっすぐ見せました。講演が終わってから、バスでこんどは烏丸に出て、錦市場で鯉の甘煮を買おうとしたら六時前でいつもの店は終わって閉まっていて、やむなく開いてい居た別の店でハモの照り焼きを一串買って、烏丸から地下鉄でJR京都駅に出ました。
京都駅近くのホテルのロビーで、この講演会の為京都に来た東京の西郊に住む従兄と四年ぶりに会いました。80歳過ぎても現役の定期寄稿者である彼は全く老人ぽくなく、歩きぶりや物腰は六〇歳代でも通用するなあと思いました。五〇年来の玄米食のお蔭でしょうか?まだ元気で現役を続けるようで心強い。
2011年兵庫県篠山市で開催された「七人委員会講演会」はこちら(クリック)です。
画像の転換速度は砂時計をクリックして長短を調整して下さい。拡大アイコンをクリックして大画面でどうぞ。
阪急塚口駅で伊丹線に乗り換えて、稲野駅、新伊丹駅、伊丹駅と3駅目です。塚口駅で乗り換え。
バス道を歩くとほぼ一本道でJR伊丹駅に10数分で行けます。
途中にお風呂屋さんがありました。なんか嬉しくなります。
伊丹駅に到着。
向こうに壮大なイオンの建物が。
帰りは阪急ではなくJR伊丹駅から尼崎乗換で六甲道に帰りました。
高松方面
しかし周辺は全く違う風景が広がって、知らない別の町の駅になっている。これはこの時代まさかの箱もの行政の産物?なんだろう?
宇和島・松山から来た特急は宇多津駅で二つの編成に分離され、前の「いしづち号」は高松へ、後ろの「しおかぜ号」は瀬戸大橋を渡って岡山へ向かう。瀬戸大橋にかかった所。
15年前にはあなご弁当は広島宮島の「うえの」の「あなご弁当」しか食べたことがなかったし、当時岡山駅の駅弁にあなご弁当は気がつかなかった。岡山駅はいまも「まつり弁当」が有名だが、自分の好みではない。今回選んだ両方の駅弁はあいかたに大好評で確かに、次回もまた買おうと思う旨さだった。
「ままかり寿し」も前はなかったような気がするが、調味料を押さえて素材の味が素直に出ていて「名物なのに旨い」という一品だった。
両者共にコストパーフォーマンスも見事だと思った。
7年前に来た時は本堂の近くまで友人の車で車道を上がったので気づきませんでしたが、今回は歩いて参道を上がったので、
両側に一つの区画面積が非常に広く、大きく立派な墓石がいくつも建つ独立墓地が続くのに気がつきました。
どれも明治以前の時代からの相当古いお墓のようで、おそらく瑞應寺を支えてきた有力な檀家たちのお墓かと思います。
大きな墓石の中には苔むしてどなたも長くお参りに来られた様子のない墓地もあり、それぞれの家の盛衰までおもわず伺う気分になりました。
( 瑞應寺は、釈迦如来像を本尊とする曹洞宗に属する寺で、文安5年(1448)生子山城主松木景村公が建立し、
鎌倉より月担和尚を招いて、仏国山瑞應寺と名付けました。
天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の際、小早川隆景の攻略により生子山城は落城し、寺も戦火にあいました。
万治3年(1660)分外和尚を迎えて再興、広島県徳雲寺の九世白翁禅師を迎えて開山し、完全に再建されました。
文政11年(1828)に焼失しましたが、天保元年(1830)に庫裡と梵鐘、弘化4年(1847)に本堂と僧堂、
安政3年(1856)に山門と中門、回廊が完成し、更に明治30年(1897)に専門僧堂を開設し、禅門修行道場として広く学僧が出入りし、
一般参禅者も後を絶ちません。現在、曹洞宗最高の別格に位置しています。
本堂近くにある樹齢800年を数える大銀杏は、県指定天然記念物です。ブログ[東人の新居浜生活]から引用。)
広くて立派な一般檀家の墓地を通して新居浜山根地区の家並みが見えました。
このあたりは参詣者もいなくて、まさに森閑とした空間の中を、古くから新居浜に居住した信心深い“いにしえびと”の魂と
歩いている心地がしました。
山を下りて振り返ると雨にけぶる石鎚山が迫っていました。