阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

片口のつもりで作ったのにおでんが盛り付けられてきた。

2019年12月22日 | 身辺あれこれ

丹波篠山の立杭焼きの里から荷物が届いた。中から自分が形を作るまでやった作品がそれなりに(殆どプロの手が入って)仕上がって現れた。

相方に片口だよ、お酒入れてと頼んだら、「おでん」が満載で出てきた!小鉢にちょうどいいよと!(笑)。

 

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仏教について自分と同じような疑問を持ち続けている小説家の対談集を読んでかなり氷解した。高村薫と南直哉著「生死の覚悟」

2019年12月22日 | 乱読は楽しい

新書版なのになかなか前に読み進めず、とうとう最大一カ月の借り出し期間を3回繰り返してようやくなんとか読み終えた。

この本を読んで初めて知ったが、何回か講演を聞いたことがある高村薫さんは、母方は全員がお寺さんの一族だったそうだ。しかし本人はミッション系の学校で学んでいる。

 南直哉という禅僧の存在はこの本で知ったが、この人も殆ど洗礼を受ける直前までキリスト教に親しんだ経歴がある永平寺での修行僧だった人だ。

それ故に、ただ仏教だけというのではなく、人間にとって宗教とは何かというやりとりが出てくるのも当然の成り行きだ。

この本を読んでいるうちに学生時代から座禅を今も毎日続けているYさんのことが頭に何回か浮かんだ。彼は座禅する、念仏を唱える、社会的活動をする、を絶やしたことがない。

この本を読んだ今の結論は、宗教は頭でどうこう考えるだけものではなく、「行為」することを伴って初めて存在するものらしいという考えてみれば当たり前のことのようだ。

 ほんの一部の内容。

【目次より】
生死に出会い、惑う――髙村薫

第一章 生命と死の門――2011年1月25日

黒衣のダース・ベイダー/ふたつの「サンガ」/「紅顔の修行僧」への違和感/近代理性で〝仏〟に迫る/〈生命〉という到達点/阪神大震災と「死の門」/生死の構造

第二章 坐禅の先にあるもの――2011年1 月25 日
オウムに決定的に欠けているもの/懐疑の訓練/「葬式仏教の崩壊」から始まること/信心というハードル/縁起する実存/作家と禅僧の間にある〝一線〟/これからの僧侶に必要なこと/仏教の可能性と復興の必要条件

断章I 道元がたちあらわれるところ――髙村薫

断章II 運動する『正法眼蔵』――南直哉

断章III 空海が現代人ならと想像させる書――南直哉

断章IV 信心不問の仏教史――髙村薫

第三章 信心への懐疑――2018年9月13日

「住所不定住職」/「仏教の突破」/究極の宗教論/「人ではなく、神を信じなさい」/私の原点/「信じる」への違和感/「最初の人」と「次の人」/「悪人」という自覚

第四章 生死の覚悟――2018年9月13日
震災文学の決定版/生死の覚悟/自己からの逃走と宗教への接近/自己であることの負担に耐え続ける/池の奥底にある問い/南海トラフ地震/宗教家の条件/僧侶のある苦い経験/ふたたびオウム真理教について/終わりなき振り子運動/救世主になろうとした人/空海が現代に生きていたら……/自己を解体するために自己を保つ/「お前のやっているのは、仏教ではない」/「信じる」という主題

悲しみの中に立ち続ける――南直哉

 

著者プロフィール

 

高村薫 タカムラ・カオル

1953(昭和28)年、大阪市生まれ。作家。1990年『黄金を抱いて翔べ』でデビュー。1993年『マークスの山』で直木賞受賞。著書に『晴子情歌』『新リア王』『太陽を曳く馬』『空海』『土の記』等。

南直哉 ミナミ・ジキサイ

1958(昭和33)年、長野県生まれ。禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1984年、出家得度。2018年、『超越と実存』で小林秀雄賞受賞。著書に『老師と少年』『恐山』等。


コメント (2)
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仏教の本質 哲学者「中村元」 動画

2019年12月22日 | ゲストルーム

仏教の本質 哲学者「中村元」

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