諏訪湖の御神渡(おみわた)り出現に向けて湖面の観察を毎朝行っている八剱(やつるぎ)神社(諏訪市小和田)の宮坂清宮司(68)は1日、
「今季の諏訪湖は薄氷が張った程度で全面結氷がなかった。御渡りは非常に厳しい状況で、明けの海奉告とせざるを得ないでしょう」と語った。
節分の3日早朝の観察で、最終決定する。
5季ぶりに出現した昨季に続く発生が期待されたが、観察開始の1月6日以降、寒い日は続かず、長野地方気象台によると1月の諏訪の最低気温は
10日の氷点下9.5度。御神渡りの出現に必要といわれる氷点下10度以下の日が1日もなかった。
宮坂宮司は取材に、諏訪市出身のアララギ派歌人、島木赤彦が諏訪湖の薄氷について詠んだ
「沖べより 氷やぶるる湖の 波のひびきの ひろがり聞(きこ)ゆ」を披露。「今季は風が強く冷たかったが、歌の通り氷を砕く波音だけが響き、
水鳥が泳いだ諏訪湖だった」と総括した。諏訪湖に御神渡り出現がない「明けの海宣言」なら、平成の31年間で22回目となる。【宮坂一則】
2006年07月19日(水)ブログ掲載
八剣(ヤツルギ)神社の話
プロフィールに「代々の氏神さまは信州上諏訪の八剣神社」と書いていますが、この神社はこんな神社です。
上諏訪の小和田(コワタ)一帯の産土神である八剣神社は、確かに家の代々の氏神さんではあるのですが、阿智胡地亭は10年程前までそのことも詳しくは
知りませんでした。父親が16歳の時に諏訪を離れてその後ずっと他の土地で暮らし、阿智胡地亭も諏訪では一度も暮らした事が無く、子供の頃、そんな話を
聞く機会も無いまま父親はもう34年前に亡くなりましたから、当たり前といえば当たり前なのですが・・。
従兄から教えてもらったり、書物で知った八剣神社には次のような歴史や縁起があるようです。
☆「新信濃風土記」という本によれば、天正19年(1591年)に、豊臣秀吉の家臣、日根野織部正高吉(この日根野氏は大阪府下の関西空港に近い日根野町に
ルーツがあるらしい。)が、諏訪湖の中にあった高島の漁村50戸を小和田に移して、高島城を築いたということですが、この「移した」というのが重大事件
だったろうということは容易に想像できます。
高島村の人たちは、湖の中の島(現在の高島城のあたり、現在は陸続きですが、昔は湖が大きかった)に住んで、湖で漁をしたり、田んぼ(現在の小和田田んぼあたり)
で稲作をしていたわけですが、日根野氏が「城をつくりたいので立ち退いてくれ」というので、話し合いで、住居地として現在の小和田の土地をもらうとともに、
特権として諏訪湖全体の漁業権を得たということです。・・・後略・
これ以降小和田(コワタ)地区の住人は、この漁業権を独占し、田んぼもそのまま保有し、堺の町のような住民自治の権利を維持して明治まで続いたそうです。
その住民の定期的な話し合いの場(議場)は諏訪湖の湖中で湧く温泉を、パイプで引いた地区別の共同浴場でなされたそうで、今もいくつか自治会館として存続しています。
*(7/20追加)なお小和田エリアの旧住民の各戸には一年毎日24時間いつでも出る温泉の湯の蛇口が、水道の蛇口の隣に並んでいます。
諏訪市内でも限られたエリアの恩恵ですが、日本全体でも珍しいことだと思います。
☆また、八剣神社は1683年以来諏訪湖の御神渡り現象を記録する「御神渡り帳」を今日まで毎年継続しています。
御神渡りは諏訪大社の神が湖面を(上社から下社へ)渡った跡と伝えられ、氷が割れてもりあがり線となって走る自然現象ですが、その道筋で吉凶を占うなど
神聖で大切な現象とされてきた。・・中略、その記録が「湖上御度注進録」として八剣神社に伝わっています。室町時代から途切れることなく
560年間。これほど古い自然現象の観測記録は他に例がないそうです。
諏訪湖の御神渡りについて(webから引用しました)
雪が降って表面水温が下がり、最低気温が氷点下10~15℃以下の日が続くと、諏訪湖は全面結氷します。
すると水面からの蒸発がなくなり、空気へのエネルギー供給が途絶えるため気温はさらに低下して氷は次第に厚さを増して行きます。
0℃で氷が氷結するときには体積が膨張しますが、いったん固体になると温度が下がるほど収縮しますので、深夜氷が引き裂かれて
ゴーという大きな音とともに裂け目ができます。この裂け目に夜のうちに氷が張ります。
翌日日光が出ると湖全体の氷が膨張するので、割れ目に張った弱い氷は押し上げられます。最低気温がマイナス10℃以下の寒い日が続いている間は
、割れ目の氷は次々と盛り上がり成長します。これが御神渡りで氷が盛り上がるメカニズムです。
氷にのっても安全な状態になると、八剣禅社の「御神渡り拝観式」が行われ、奉告祭をしてその年の作物の作柄が占われます。
「今季の諏訪湖は薄氷が張った程度で全面結氷がなかった。御渡りは非常に厳しい状況で、明けの海奉告とせざるを得ないでしょう」と語った。
節分の3日早朝の観察で、最終決定する。
5季ぶりに出現した昨季に続く発生が期待されたが、観察開始の1月6日以降、寒い日は続かず、長野地方気象台によると1月の諏訪の最低気温は
10日の氷点下9.5度。御神渡りの出現に必要といわれる氷点下10度以下の日が1日もなかった。
宮坂宮司は取材に、諏訪市出身のアララギ派歌人、島木赤彦が諏訪湖の薄氷について詠んだ
「沖べより 氷やぶるる湖の 波のひびきの ひろがり聞(きこ)ゆ」を披露。「今季は風が強く冷たかったが、歌の通り氷を砕く波音だけが響き、
水鳥が泳いだ諏訪湖だった」と総括した。諏訪湖に御神渡り出現がない「明けの海宣言」なら、平成の31年間で22回目となる。【宮坂一則】
2006年07月19日(水)ブログ掲載
八剣(ヤツルギ)神社の話
プロフィールに「代々の氏神さまは信州上諏訪の八剣神社」と書いていますが、この神社はこんな神社です。
上諏訪の小和田(コワタ)一帯の産土神である八剣神社は、確かに家の代々の氏神さんではあるのですが、阿智胡地亭は10年程前までそのことも詳しくは
知りませんでした。父親が16歳の時に諏訪を離れてその後ずっと他の土地で暮らし、阿智胡地亭も諏訪では一度も暮らした事が無く、子供の頃、そんな話を
聞く機会も無いまま父親はもう34年前に亡くなりましたから、当たり前といえば当たり前なのですが・・。
従兄から教えてもらったり、書物で知った八剣神社には次のような歴史や縁起があるようです。
☆「新信濃風土記」という本によれば、天正19年(1591年)に、豊臣秀吉の家臣、日根野織部正高吉(この日根野氏は大阪府下の関西空港に近い日根野町に
ルーツがあるらしい。)が、諏訪湖の中にあった高島の漁村50戸を小和田に移して、高島城を築いたということですが、この「移した」というのが重大事件
だったろうということは容易に想像できます。
高島村の人たちは、湖の中の島(現在の高島城のあたり、現在は陸続きですが、昔は湖が大きかった)に住んで、湖で漁をしたり、田んぼ(現在の小和田田んぼあたり)
で稲作をしていたわけですが、日根野氏が「城をつくりたいので立ち退いてくれ」というので、話し合いで、住居地として現在の小和田の土地をもらうとともに、
特権として諏訪湖全体の漁業権を得たということです。・・・後略・
これ以降小和田(コワタ)地区の住人は、この漁業権を独占し、田んぼもそのまま保有し、堺の町のような住民自治の権利を維持して明治まで続いたそうです。
その住民の定期的な話し合いの場(議場)は諏訪湖の湖中で湧く温泉を、パイプで引いた地区別の共同浴場でなされたそうで、今もいくつか自治会館として存続しています。
*(7/20追加)なお小和田エリアの旧住民の各戸には一年毎日24時間いつでも出る温泉の湯の蛇口が、水道の蛇口の隣に並んでいます。
諏訪市内でも限られたエリアの恩恵ですが、日本全体でも珍しいことだと思います。
☆また、八剣神社は1683年以来諏訪湖の御神渡り現象を記録する「御神渡り帳」を今日まで毎年継続しています。
御神渡りは諏訪大社の神が湖面を(上社から下社へ)渡った跡と伝えられ、氷が割れてもりあがり線となって走る自然現象ですが、その道筋で吉凶を占うなど
神聖で大切な現象とされてきた。・・中略、その記録が「湖上御度注進録」として八剣神社に伝わっています。室町時代から途切れることなく
560年間。これほど古い自然現象の観測記録は他に例がないそうです。
諏訪湖の御神渡りについて(webから引用しました)
雪が降って表面水温が下がり、最低気温が氷点下10~15℃以下の日が続くと、諏訪湖は全面結氷します。
すると水面からの蒸発がなくなり、空気へのエネルギー供給が途絶えるため気温はさらに低下して氷は次第に厚さを増して行きます。
0℃で氷が氷結するときには体積が膨張しますが、いったん固体になると温度が下がるほど収縮しますので、深夜氷が引き裂かれて
ゴーという大きな音とともに裂け目ができます。この裂け目に夜のうちに氷が張ります。
翌日日光が出ると湖全体の氷が膨張するので、割れ目に張った弱い氷は押し上げられます。最低気温がマイナス10℃以下の寒い日が続いている間は
、割れ目の氷は次々と盛り上がり成長します。これが御神渡りで氷が盛り上がるメカニズムです。
氷にのっても安全な状態になると、八剣禅社の「御神渡り拝観式」が行われ、奉告祭をしてその年の作物の作柄が占われます。
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