2011年4月16日のエントリー
ある日何を見ようというあてもないままにたまたまテレビをつけた。
画面に現れたのは細身のすっきりした青年のドキュメンタリーだった。
番組の中で彼の病気の日々と彼の和歌が紹介されていく
最初の歌を聞いたときから 胸がつまるような 身体が震えるような不思議な体験が自分にきた
それが笹井宏之という歌人を知ったきっかけだった。
知ったときには彼は亡くなっていた。
こんな風に自分の母親を詠うことができる人間がいる
。 彼の歌の中でも とても好きな歌だ。
葉桜を愛でゆく母がほんのりと少女を生きるひとときがある
そして
冬ばつてん「浜辺の唄」ば吹くけんね ばあちゃんいつもうたひよつたろ
風という名前をつけてあげました それから彼を見ないのですが
ふわふわを、つかんだことのかなしみの あれはおそらくしあわせでした
以下は2011年2月22日のエントリーから・・
ほしのふるおとを録音しました、と庭師がもってくるフロッピー
ほこらにはあなたのねむりだけがありあなたはどこへ行ったのだろう
かなしみが冬のひなたにおいてある世界にひとり目覚めてしまう
次々と涙のつぶを押し出してしまうまぶたのちから かなしい
たましいのやどらなかったことばにもきちんとおとむらいをだしてやる
吊り革に救えなかった人の手が五本の指で巻き付いている
すこしずつ存在をしてゆきたいね なにかしら尊いものとして
したいのに したいのに したいのに したいのに 散歩がどういうものかわからない
ああそれが答えであった 水田に映るまったいらな空の青
ゆびさきのきれいなひとにふれられて名前をなくす花びらがある
「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい
真水から引き上げる手がしっかりと私を掴みまた離すのだ
内臓のひとつが桃であることのかなしみ抱いて一夜を明かす
水田を歩む クリアファイルから散った真冬の譜面を追って
それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどの明るさでした
ひとたびのひかりのなかでわたくしはいたみをわけるステーキナイフ
いずれもブログ「些細」から引用。
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