らんかん山公園から見た、矢之脇町、塩浜町(写真左手奥)のあたりです。
昭和37年9月3日、血液輸送中の自衛隊機がのらんかん山に墜落、公園には慰霊の碑(写真↓下)があり、名瀬市では9月3日を「献血の日」(平成7年から)にしていますが、今日はその話ではありません。
忙しい人は記事の一番下だけお読み下さい。
なぜ、らんかん山というのかを説明します。とても長くなりそうです。漢字だと蘭館、以前は秋葉山といったそうです。
慶応元年といえば↓西郷隆盛が奄美から召還された翌年だから、1865年か、またこんがらがります。
この年、薩摩藩はこの山の麓(当時は名瀬市金久=かねく)に、白糖工場を建設します。下の写真の上はその跡を示す看板です。
他に、写真下の龍郷瀬留(せどめ、当時はせけるべ)、宇検村須古(うけんそんすこ)、瀬戸内町久慈(くじ)の四箇所です。すごいです。
奄美で白糖が生産されるのは、記録によると、黒糖が試作され始めてから30年ほどあとの1767年(明和4年)、沖縄では1662年らしいのですが、あまりパッとしませんでした。奄美大島の場合、長年のキビ作で土地が疲労していて白糖の質が悪く、四国、讃岐の上質の白糖におされます。
黒糖の値も下がります。そこで、藩は慶応元年、産業としての白糖製造にのりだします。
土地は痩せ、粗放な農業いっぽんやりでは、四国の白糖に対抗出来ません。
しかし、薩摩藩の目は奄美沖縄を通して諸外国に向いていました。黒潮のおかげでもあります。最新の知識と情報でイギリスの最新式製糖機械を導入します。それにしても奄美大島に工場四つとは大規模です。
マッキンタイラー、オートロスというイギリス人の技師も雇い入れます。
技術指導のため、奄美大島にやってきたこの外国人達のための住まい(館)があったのが、この蘭館山公園というわけです。
英国人なのになぜオランダの蘭なのかは、藩政当時、異国人のことをオランダといっていたから。
しかし、これらの工場はいずれも5年以内に廃止。原因は燃料不足、台風、明治維新の直前という日本の政治状況。この外国人の私生活上の評判はあまり良くなかったらしいということは、硬い本には書いてない。
♪オートロス船や煙まきゃまきゃ沖はりゅり
塩浜マシュくゎやうり見ち袖絞り♪
塩浜沖から島を去る外国人を涙で見送る愛妾マシュ加那を歌う島唄。
くるだんど節の曲で歌うという。
さて、この白糖工場が、らんかん山の麓のどのあたりにあったかということは、酒造工場あたりとも、近くの会社ビルのあたりともいわれ、はっきりわかりません。
近くにあったという代官所(派遣役人の居た建物、仮屋・本仮屋)の跡すら、謎がありそう。
謎といえば、実はここからが本題だったのですが、借りて参考にしている本(名瀬市誌1巻歴史編)を返さなければならないので説明が長くなりました。
他に参考 山下文武著 『奄美の歴史さまざま』 奄美文化財団・奄美文庫2
奄美でも良く売れている、ポテトチップスは「九州しょうゆ」味。88g124円。
醤油はなぜ甘い。海で泳いだあとのソフトクリームはおいしかったから?奄美しょうゆも甘い。
この白糖工場と関係があるという話、西郷お気に入りの薩摩藩主島津斉彬(1858年急逝)の奄美大島でのオランダ貿易構想、謎解きは、もうとても書ききれません。おもしろいサイト見つけてあります。これ↓を紹介するだけでよかったのですが。
加賀の醤油はなぜ甘い Ⅱ