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映画『母べえ』を観た。ロケ地のひとつ奄美大島にて

2008年02月27日 | 映画

080227poster_2 記憶が、あいまいにならないうちに、書いておきます。

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映画のラストシーン、

あれから、一足飛びに、時は流れて、

臨終の「母べえ」の枕元。

大人に成長した2人の娘たちが駆けつける。

妹の照美、泣きながら
「母べえ、これでやっと、天国の父べえのところへ行けるのね、よかったじゃないの」(セリフは、うろ覚えです)

しかし、母べえは、最後の力をふりしぼって首を横に振り、「・・・」

照美は、酸素マスクをはずし、耳を近づけ、その言葉を聴いた。

「母べえ、何て言ったの」

母べえの最期の言葉は、

たづねる姉初子に対し、そしてわれわれに対し
照美の口から伝えられる。

それを聴いた初子の表情、倍賞千恵子さんの一瞬の名演技も見逃せない。

この母べえの言葉を、いまここで書くわけには、いかない。

なにげない?平凡な一言だが、そのことばには、
この映画全編の母べえの思いが収斂されている、ように思われるからだ。うーむ。

エンディングの音楽を聴きながら、60歳台の吉永さんが演じた、30台の母べえの日常の一こま一こまが、じんわりと、蘇ってくる。
もう一度観ても、ひとつひとつのシーンに、いろいろな発見があることだろう。

この役は、若い役者さんでは無理だったに違いないと思わせる、吉永さんの名演が光った。

映画は、昭和15年(1940)
母べえ、父べえ、娘の初子、照美の4人家族の、しあわせな、
しかしそれが最後となる一家団欒の場面からはじまる。

長引く日中戦争のなか、文学者だった父は治安維持法違反の容疑で、幼い娘たちの目の前で、土足で踏み込んだ特高の手縄にかかる。

以後、残された家族を支える周囲の人々と、戦争一色となって行く日本の社会を、淡々と描いていく。

「帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」

街のおじさん達ちのなかには、アメリカを破って、次には同盟国ドイツをたおして日本が世界一になることを無邪気に夢見る人たちもいた。

母べえは、そうした人たちとも、ごくごく普通に付き合いながら生きていくのであった。底辺で生きる、そのおじさんは、やさしかった。

しかしながら、子を思う母として、人間として、きっぱりとした・・・(以下略)

けなげに生きる母べえの後姿があぶりだすものは、戦争の悲惨さとか、愚かしさといったものだけにはとどまらない。現在のわたしたちの生き方を・・・。

映像もこれといって、凝ったふうではなく、どちらかといえば地味な印象(が、しかしよく見ると、音、光、風、小道具の配置にいたるまで、細心の配慮がなされているように、感じられる)

声高に、戦争反対を唱えるわけでも、社会批判をするでもない。

子役の二人の名演技(ふたりは、中学生と小学生くらいか)仲良しのふたりの年頃の違いと、周りの人々にたいする感受の違いなどが、コミカルながら、丹念に描かれていて、それがこの映画の大きな柱のひとつになっているのではないか。

鶴瓶さん扮する、田舎からやってきた下品なおじさん(粗野で、スケベで、そして・・・。
最期は奈良?の田舎で桜の散るころ、終戦を待たず死んでいくことになっている)は、寅さんを彷彿とさせる。このおじさんにたいする子役の反応の差もしっかりと見届けたい。

080227beach2

←龍郷町の海岸。撮影は、この後、潮が満ちるのをまって行われた。

さて、奄美ロケのシーンですが、映画のなかで、もっとも華やかなシーンになっている。東京近郊の海岸という設定ですが、母べえが、おぼれた書生、山崎を着衣のまま海に飛び込み助けるシーン。
沖合いからのカメラで、白い砂浜と、奄美独特の?稜線をもつ山が写る。アダンもソテツも、そして、テッポウ百合もそこには咲いていたはず

クリーム色の海岸の砂もアップで写っていた。

080227beach1  そして、ちょっとおどろいたのが東京の野上家の家の玄関には、間違いでなければ奄美でおなじみのシュロが植えられていていたような。ま、どうでもよいことですが。

まあ、勝手に解釈すれば、母べえのうしろ姿は、
おじさんにとっては、度重なる歴史の大波に翻弄されながらも、おおらかに生き抜いてきた「母なる島、奄美」のイメージにも重なるものだった。

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