『薩摩藩領の農民に生活はなかったか』 単行本 – 2014/8/2
有薗 正一郎 (著)
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amazon 登録情報
単行本: 88ページ
出版社: あるむ (2014/8/2)
言語: 日本語
発売日: 2014/8/2
amazon内容紹介
近世中頃から近代にかけて、薩摩藩領の農民は重い貢租と商品作物の作付強制と役人の経費負担などの収奪を受けて、「生存はあったが、生活はなかった」と言われてきた。しかし、現実には農民は近世に遡るハレの日の諸行事を継承するなど生きる楽しみに彩られた「生活」を営んでいた。このかけ離れた状況を矛盾なく結び合わせる鍵は、農民がサツマイモを主食材に組み込んだことであるとの仮設を提起し、サツマイモ作の普及と農民の暮らしとの関わりを、土地利用の復元作業や営農技術書・紀行文の記述を拾って検証した、視野の拡大を促す書。
88ページの薄い本ですが、テーマをひとつに絞って、説得力があった。
「近世中頃から近代にかけて薩摩藩領の農民は重い貢租と商品作物の作付強制と役人の経費負担などの収奪を受けて、「生存はあったが、生活はなかった」と言われてきた」
が、はたしてそうか?というテーマ。
「しかし、現実には農民は近世に遡るハレの日の諸行事を継承するなど生きる楽しみに彩られた「生活」を営んでいた。このかけ離れた状況を矛盾なく結び合わせる鍵は、農民がサツマイモを主食材に組み込んだことであるとの仮説を提起」
タイトルの疑問文は、著者が、親戚から聞いた曽祖父の暮らしぶりから。
本書の「薩摩藩領の農民」の中には奄美諸島の農民も含まれると思うが、
奄美の歴史書を読んで感じる疑問とよく似ている。
いままで読んだ奄美の歴史の本で、奄美の農民の悲惨さを説明するためによく引用される文に
1778年に奄美にきた薩摩の役人、得能佐平次の一文をネットで探しコピペしよう。
家々の労れ、いふもさらなり、腰打かけて足を休むる家なく、渇きへ忍び兼るほどなり
朝夕の煙だに立たる事なく、磯の藻屑に飢を凌ぐなると語るを聞くも、胸塞る計り也
ほんとかよ、とも思いつつ、偉いお役人が、たまたま?書いた文章が何百年も一人歩きして私にイメージを形づくる。
ゆとりとか豊かさの定義も千差万別で、農民の暮らしぶりも階層による違いもあるはずであるが、歴史書を読んでは、「悲惨な暮らしの島の農民」でイメージしてしまう。
奄美を訪れる観光の方にも、現在の名瀬の街は一見余裕ありげに見えるらしい。
しかし人口減少がつづく奄美大島の現状は厳しさが分かると、感想は千差万別になる。
時時によっても印象もかわっていくものだが・・・。
粗放営農でよいサツマイモが主食の位置に食い込んでいくと農民は「生活はできる」が藩は専売作物をより強制できるという側面と、
耕作技術の停滞をまねく、ということも論じられる。
歴史とは何だろう?
この本を読了後に読んだサイト → 薩摩藩ってすごい藩? 【OKWave】
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サツマイモは本土より一足はやく普及したらしい。
以下wikipediaでおさらいした。
1604年、沖縄本島に伝わる。明から
1698年、種子島に伝わる。。
1705年(1709年とするものもあり)、薩摩山川の前田利右衛門は甘藷を持ち帰り、やがて薩摩藩で栽培されるようになった。
1711年、下見吉十郎がサツマイモを持ち出し、伊予国瀬戸内海の大三島での栽培を開始した。
1732年、享保の大飢饉により瀬戸内海を中心に西日本が大凶作に見舞われ深刻な食料不足に陥る中、大三島の周辺では餓死者がまったく出ず、これによりサツマイモの有用性を天下に知らしめることとなった。青木昆陽が、サツマイモの効用を説いた「蕃藷考」を著し、吉宗に献上した。
1734年、青木昆陽は薩摩藩から甘藷の苗を取り寄せ、試験栽培し、
1735年栽培を確認。これ以後、東日本にも広く普及するようになる。