『西郷隆盛論』―その知られざる人物像 (新熊本新書) – 2017/4/10
堤 克彦 (著)
図書館郷土コーナーで借りた西郷本2冊(7、8月新着)のうちの一冊。
ざっと目を通すつもりだったが、地元の知人も登場し、けっこう熟読した。
西郷が奄美大島の龍郷に潜居していた時の変名”菊池源吾”は
西郷自身のルーツが菊池(熊本県菊池市七城町砂田西郷 西郷隆盛祖先発祥の地→https://goo.gl/maps/oQWLo51G3R12 )
であることに因んだものであるといわれる。(龍郷時代にもうけた子に、菊次郎 菊草と命名)
その縁で龍郷町と菊池市との間に友好都市盟約のが締結されている。(平成24年)
著者はその企画の一環として平成18年に龍郷町を訪れている。
P62~82「奄美大島・龍郷紀行」では
「敬天愛人」が「敬天愛民」であったとする話の紹介や、「敬天愛人」と西南戦争の敗因の関係などにもふれ、
これまで読んだ西郷本にはなかった興味深い視点など、いくつかあって熟読とあいなった。
ユニークな視点は他の章でも、いくつか見られ、通説への疑問提示も興味深く、
新書ながらもりだくさんの一味違う読み応えだった。味の違いは著者の龍郷訪問も与っているように思えた。以下、それをまとめきれるでしょうか。
きょうは元治元年(げんじ・がんねん1864年)に注目しよう。
西郷が沖永良部から、足を引きずりながら(wiki)鹿児島に帰還したのは、元治元年(1864年)2月だが、すぐに「軍賦役(軍事司令官)兼諸藩応接係」を拝命、「禁門の変」で長州勢を撃退する働きをする。西郷38歳の初陣だ。
そしてこの年7月には長州藩追討の朝命(第一次長州征伐)、
そして9月、西郷は初めて勝海舟と密会する。幕府の長州征伐の本気度をさぐるためだといわれている。
この会談で西郷は、アメリカを見てきた勝の共和制の話、幕臣でありながら長州征伐より倒幕の勧める話に仰天し、初めて反幕府の方向へと考えを改め、10月には名前も大島吉之助から西郷吉之助に名を改める。
この元治元年(1864年)は西郷にとっても幕末史にあっても大きな転回点になっている。
(本土の情報は、よく入っていたとは言え)小さな島の牢屋で、静かに「敬天愛人」の思想をはぐくんでいた西郷にとって、いきなり、アメリカをその目で見てきたという、その時の勝海舟の話は、どれほどの驚きだったのだろうか。
その勝海舟の「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人みた。それは横井小楠と西郷南洲(隆盛)だ」の話はよく知られている。『氷川清話』 (講談社学術文庫) 文庫 – 2000/12/8 勝 海舟 (著), 江藤 淳 (編集),
「西郷と面会したら、その意見や議論は、むしろおれの方がまさるほどだったけれども、いわゆる天下の大事を負担するものは、はたして西郷ではあるまいかと、またひそかに恐れたよ。」
つまり「横井の思想を、西郷の手で行なわれたら、もはやそれまでだ」ということだ。
坂本龍馬の『なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ。少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く。」という話もよく知られている。
ここで、本書とつながるわけだが、それは勝の話にでてくる横井 小楠だ。
この本の著者は、横井 小楠をライフワークとする研究者である。
専門家とは一味違う視点から西郷の人物像を描いている。
たとえば敬天愛人と西南戦争の敗因の関係など、やはり奄美を訪れ、実際に現地の人との交流を持つ著者の指摘は、他書と違い大いに説得力があった。
「なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ」と言った坂本龍馬も島を訪れ、島での西郷を知ったら、なんと言うだろうか。と、とりとめのないことを・・。
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amazon 登録情報
新書: 252ページ
出版社: 熊本出版文化会館 (2017/4/10)
げんじ 66.7%
がんじ 16.7%
https://furigana.info/w/%E5%85%83%E6%B2%BB
元治元年=1864年2月20日~1865年4月7日
この時代は孝明天皇。将軍は徳川家茂
3月水戸天狗党挙兵
6月池田屋事件
7月禁門の変
8月四国連合艦隊下関砲撃事件
など年中ごたごたがあって、
こんな元号はやく忘れてしまえということで元治二年1865年4月7日に慶応と改元になる。
参考 wiki コトバンク
童門冬二 西郷隆盛p148
元治には元にて治る、つまり王代になさんとの意味があったということですが。
王政復古は、慶応3年12月9日(1868年1月3日)