新装版 真田太平記 10
池波 正太郎 著
発売日:1984年12月19日
朝日新聞社
B6判 321ページ 一般書籍
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1/3 真田太平記10-2頼朝が善光寺詣の途次、頽廃を嘆き、修復を命じたという信濃国分寺。関ヶ原合戦の直前第二次上田城合戦の前、上田城に籠る真田昌幸、幸村親子と江戸から関ヶ原へ中山道を西上する徳川秀忠の使者として真田信幸と本多忠政(信幸妻の弟26)が会見する。
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月12日
聖武天皇によって、信濃国分寺建立の詔(みことのり)が発せられたのは、天平13年(741年)であったそうな。P124
国分寺(僧寺)跡は現国分寺の南方に位置する。
2/3秀忠は上田城に籠る真田昌幸を降伏させようとするのだった。
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月12日
昌幸は、「おお、伊豆殿・・」と長男とにっこりと相対した。
しかし昌幸の「希代の謀略家である」との天下の評価は動かしがたい。
若い忠政の顔が緊張しきっているのを見て信幸が「安房守殿」と父へ呼びかける。「何でござる?」
3/3結局昌幸は城明け渡しを認める。「二言はござらぬ」
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月12日
が、そこは「希代の謀略家」であった
昌幸の謀略に手こずった秀忠は、9日に一旦全軍を小諸へと撤収させる
が、関ケ原決戦の9/15日は迫っている。それに悪天候。
秀忠の第二軍3万8000が遅れると家康の目算は大きく狂ってしまう。
関ヶ原の戦いは、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)
この巻は、午前8時、濃霧が薄れかかり、東軍福島・井伊の両部隊が、宇喜多秀家の陣所に撃ちかけ、つづいて黒田長政の部隊が三成の家老・島右近の部隊へ攻めかかり戦闘のどよめきがにわかに沸き起こる場面で終わる。