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   ある日のできごと、心の呟き、よしなしごとetc

2024年の中秋の名月             20240917

2024年09月23日 | 
2023年の中秋の名月は、奈良県桜井市にある大神神社で観ました。


2024年の中秋の名月は、和歌山県田辺市本宮町にある熊野本宮大社で観ました。

熊野本宮大社は熊野三山(本宮・速玉・那智各大社)の中心、全国に4700社以上ある熊野神社の総本宮です。
主祭神は、家都美御子大神(スサノオノミコト) 。


三本の川の中州にあたる聖地、大斎原(おおゆのはら)に社殿が建てられたのは、崇神天皇65年(紀元前33年)。
能舞台などもあり、今の8倍の規模だったそうな。

  
  
明治22年の未曽有の大水害により社殿のうち中・下社が倒壊し、現在地に上四社のみお祀りされることになったそうです。
他八社は石祠として旧社地大斎原にお祀りし、現在に至っているとのことです。


今宵は、この川の土手から月を観ます。

  

           
            こちらの山際から月は上ってくるそうな。  


お月見の準備が調いました。

17時50分   
        ※写真は西行法師
        ※棒の先にあるのはサツマイモと里芋の葉
        ※酒は純米酒「雑賀(さいか)の郷」


月が上る前に、大きな鳥居のある大斎原へ。

    

      

18時05分  

鳥居には、金色の導きの神鳥八咫烏(やたがらす)

      

三つの霊場「熊野三山(『熊野本宮大社』、『熊野速玉大社』、『熊野那智大社』及び『那智山青岸渡寺』の三社一寺)) 」「高野山」「吉野・大峯」 と参詣道(熊野古道)を取り巻く人と自然が長い年月をかけて育んできた文化的景観が類を見ないものとされ、2004年7月に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されました。
今年は世界遺産20周年です。

    

明治22年(1889年)の大洪水まで熊野本宮大社のあった旧社地「大斎原(おおゆのはら)」
おおゆのはら
   
      

暗闇の中の石祠  

山際がだんだん明るくなってきました。  

18時40分  

        

       

 

     
     
         


18時50分  

 19時05分  

今年もすばらしい中秋の名月を観ることができました。
 
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http://www.hongutaisha.jp/about/より引用

縁起・神話

天火明命は、古代、熊野の地を治めた熊野国造家の祖神です。天火明命の息子である高倉下は神武東征に際し、熊野で初代神武天皇に天剣「布都御魂」 を献じてお迎えしました。
時を併せて高御産巣日神は天より八咫烏を遣わし、神武天皇を大和の橿原まで導かれました。
第十代崇神天皇の御代、旧社地大斎原の櫟の巨木に、三体の月が降臨しました。天火明命の孫に当たる熊野連は、これを不思議に思い「天高くにあるはずの月が、どうしてこのような低いところに降りてこられたのですか」と尋ねました。すると真ん中にある月が「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚尊)であり、両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って齋き祀れ」とお答えになりました。
この神勅により、熊野本宮大社の社殿が大斎原に創建されたと云われています。

熊野本宮参詣曼荼羅第十三代成務天皇の御代には、国々の境が決められました。
熊野国は、紀伊半島の南半分(志摩半島より南)と定められ、初代の熊野国造(長官職)には高倉下の子孫である、大阿斗宿裲が就任しました。
このように、熊野国造家は天神地祇の子孫である「神別諸氏」の氏族であり、物部氏の先祖でもあります。熊野本宮大社の神々は大阿斗宿裲以降、千数百年もの間、熊野国造家の子孫によって代々お祀りされてきました。
御由緒・歴史

熊野連山の三千六百峰を形成する、果無山脈。その山間を縫うが如く流れ、太平洋へと続く熊野川は、まさに熊野の大動脈です。この熊野川の中枢に、古代より熊野巫大神の鎮座されるお宮が、熊野本宮大社です。熊野本宮大社は過去「熊野坐神社」と号し、熊野の神と言えば本宮のことを表していたものと推測されます。

熊野坐大神の御鎮座の年代は文献に明白ではありませんが、神武東征以前には既に御鎮座になったと云われており、社殿は崇神天皇65年(紀元前33年)に創建されたと『皇年代略記』や『神社縁起』に記されています。奈良朝の頃より仏教を取り入れ、平安朝以後は仏化により「熊野権現」と称し、神々に仏名を配するようになりました。熊野本宮大社は上・中・下社の三社から成るため、熊野三所権現と呼ばれています。また、十二殿に御祭神が鎮座ますことから、熊野十二社権現とも仰がれています。
平安当時、宇多法皇に始まる歴代法皇・上皇・女院の熊野御幸は百余度に及びました。幾度かの御幸に供奉した藤原定家が『明月記』の中で「感涙禁じ難し」と記しており 、困難な道を歩き御神前に詣でたことが、いかにありがたく、いかに御神徳が高かったかを窺い知ることができます。

1184年、第21代熊野別当に就任したのは、本宮・田辺を拠点とする田辺別当家の湛増でした。
源平二氏の争乱に際し、湛増率いる熊野水軍が源氏側についたことにより、勝敗が決したと云われています。

※熊野別当・・・熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)の統轄にあたった役職

南北朝から室町時代にかけては、皇族や貴族などの上流階級に代わり、武士や庶民の間に熊野信仰が広がりました。身分の貴賤や老若男女を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さゆえ、熊野には大勢の人々が競って参詣し「蟻の熊野詣」と呼ばれる現象を起こすまでに至りました。

なお残念なことではありますが、明治二十二年の未曽有の大水害により社殿のうち中・下社が倒壊し、現在地に上四杜のみお祀りすることとなりました。他八社は石祠として旧社地大斎原にお祀りし、現在に至っております。

参考文献:熊野本宮大社前宮司  九鬼宗隆
熊野三山信仰事典(戎光祥出版)

御祭神

御祭神は、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)に共通する「熊野十二所権現」と呼ばれる十二柱の神々です。
また、奈良時代より神仏習合を取り入れ、御祭神に仏名を配するようになりました。

家都美御子大神/素戔嗚尊

主祭神は、熊野三山の他二社とは異なる家都美御子大神です。
昔は熊野坐神社「熊野にいらっしゃる神」と呼ばれていました。
また、造船術を伝えられたことから船玉大明神とも称せられ、古くから船頭・水主たちの篤い崇敬を受けていました。
上四社(第一殿~第四殿)にお祀りしている神々

第一殿 西御前:熊野牟須美大神、事解之男神(千手観音)
第二殿 中御前:速玉之男神(薬師如来)
第三殿 証誠殿:家都御子大神(阿弥陀如来)
第四殿 若  宮:天照大神(十一面観音)
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