妻の母親の葬儀の時、友人であり葬儀社の社員だった彼に葬儀の一切を取り仕切ってもらった。
17年前のことだ。
葬儀社の担当としてはもちろんだが、告別式の司会から霊柩車の運転まですべてをお願いした。
その時に私の考えで式場には義母の好きだった東北地方の民謡を終始流し続け義母の写真を遺影の他複数枚簡単な立つ額に入れて置いておいた。
無宗教で行ったため、葬儀の全てをプロデュースする必要があった。
義母の生活の様子を伝えて幸せな人生だったことを皆に私が披露した。
そういうことがあったので、その葬儀の後私に「僕の弔辞を読んで」ということに繋がっていったと思う。
彼は肺がんを患い両肺の一部分を摘出していた。
若い頃彼の家で金曜日の夜に集まってリコーダーを吹いていた音楽仲間だった。
その集まりが我が家になり、いろいろな状況の変化で解散してしまっていた。
彼は葬儀社を勤め終えた後、介護士として病院勤めをして、その年の忘年会に医師や看護師たちと一緒にリコーダーを吹く機会が訪れた。
リコーダーの練習を一緒にやって欲しいと我が家にやって来たのが、また次の新たな出会いであった。
老人のリコーダーアンサンブルは、一面悲惨な状況ではある。
目がうまく見えない。 指がつる。息が続かない。音楽記号を忘れる。
だが、それだから和やかな雰囲気が練習を包む。
彼は決してうまく吹けないが「やめる」とは言わない。
もう私が疲れてしまって「今日はこの辺で終わりにしてください」と言うまでは。
また休み時間には私と彼の共通の趣味である車やオートバイの話に花が咲く。
月に一度の老人アンサンブルは私にとって彼のために、ではなく楽しい充実した憩いであった。
「若い頃やってて良かったね」とは二人の切実な思いであった。
だが突然終末がやって来た。
奥さんから電話があり彼の具合が悪くなって入院したと知ってから約3か月後のことだ。
入院中に弔辞を読むなどとは思わないし、その後は再び会えると思っていたから弔辞を考えることも不謹慎だと思っていた。
次の電話は「死にました。以前弔辞を頼んであると聞いています」とのことだった。
うろたえた私は、即答できず翌日「弔辞を読ませていただきます」と伝えた。
彼と私で老人アンサンブルを楽しんだ時の姿は家族の誰も知らない事実だ。
その後の予定表にも今年いっぱいは彼の名前を入れたままにしてある。
「こじんまりと行います」という奥さんの言った通り会場には30人ほどの弔問客の姿だけだった。
一般席の先頭右側の椅子の背中に「指定席」と紙が貼られていた。
私の後ろには最後列にちらほらといるだけだった。
読経の後司会者が私の名前を呼んで出番を伝えた。
弔辞の中の彼と私のメールのやり取りを紹介した後「ここで一旦すっきり別れましょう」と言った途端に涙が溢れ出てきた。
彼との別れが現実的になった一瞬だった。
だがすぐに正常に戻り読み終えた。
約束が守れた瞬間でもあった。