家訓は「遊」

幸せの瞬間を見逃さない今昔事件簿

15年目の春野

2022-03-26 10:56:23 | Weblog

この3月で春野と出会って、もう15年が経過した。

何もかも変わった、という実感がある。

年齢にして54歳から69歳だから、そんなに大きく変わってはいかないと思うのだが、そうではない。

まず健康になった。

元々それまでも健康でいたと感じているが平たんの少ない場所を地下足袋でうろうろしていれば、それは住宅地にいるのとは違う刺激が体中に伝わるはずだ。

巻き爪が直り鎖骨神経痛が収まっていると書いたのは、わずか5年後だ。

それからでも10年が過ぎている。

相変わらず山の中でうろうろしているので鳥や山野草、樹木や爬虫類そして昆虫の類との出会いが増えた。

増えたというより、それが目に入るようになったということか。

いままでは見えていなかったものが見えるようになり興味を持てるようになった。

そこにいれば好き嫌いに関わらず向うから関係性を求めてくる。

また少ないながらもシイタケの栽培や日本ミツバチを飼ってハチミツの採取をしたりしている。

いずれも自分の生活の中に自然が入り込んだというわけだ。

それは人と人との間で起こるストレスが減ったということだが自然との摩擦は大いに起こりうる。

台風の後の倒木や土砂崩れなどは大いなる恐怖だがその後の停電は不便極まりないものになる。

好まない虫や爬虫類などの接触は、常に小さな脅威となっている。

でもこの時期にフキノトウや木々の新緑を見つけると、とても嬉しい気持ちになる。 

「ああ。自分も自然の中で生きている」と実感するのだ。

あれ?と思う場所の筋肉痛があると春野で何やったんだっけ、となる。

先日妻と春野で作業しているとき妻がジャックルーシェのCDを大きな音で掛けた。

彼の弾くピアノの音が私の耳に到達してすぐに感謝の気持ちが湧いて出た。

「ううっ」と何かがこみ上げてきて、とりあえず妻に「ありがとう」と言った。

山川草木すべての代表として妻に感謝をしたのだと思う。

 


指さし確認

2022-03-22 10:24:52 | Weblog

このところ暖かな日が続くので散歩も楽になった。

上着を一枚脱ぎ手袋を外していける。

小学校の登下校時間をさけて歩けば老人か犬の散歩くらいしか目につかない。

ほぼ川沿いしか歩かないので交差点は橋のたもとだけだ。

渡る時には右見て左見ての際、指さし確認をしている。

走ってくる車や自転車が怖いわけではなく自分の注意力の衰えが怖いのだ。

止まってくれた車に頭を下げたり手を上げたりして速やかに渡るのだが、その状況を読めない老婦人がいた。

私は車に手で「ちょっと止まっていてね。年寄りが通るから」と合図して、おばあちゃんに「いいよ。渡って」と言って渡ってもらう。

そんなことが二度ほど続いた。

同じ交差点を私一人で歩いていた。

右側には橋の手前に老人が一人自転車に乗っていた。

左からは何も走ってこない。

私は、いつもの速度で横断し、そのまま川沿いの歩道を歩いていた。

先ほど見つけた自転車の老人が私を追い越しざまに指さし確認動作をして通り過ぎて行った。

その老人は、ほどなくして自分のアパートに到着したようで自転車を降り敷地の中に入っていった。

その時、また指さし確認をした。

自転車を保管する場所や軒下などに3か所ほど。

次に振り向いてまた3か所。

その際には2回目の指さしに私が含まれていた。

「ええ?おれ?」と思ったが私に用があるわけでもなく、ましてや私を確認したかったわけでもないようだった。

その老人の指さしは、しっかり立ち、腕をしっかり伸ばすものだった。

ははあ。これを教えたかったのか、と想像した。

私の指さしは指こそは目的地方面を指しているが腕を伸ばすほどの、しっかりしたものではない。

目視の確実性を増すものだけであって、その確認で他の人に迷惑や危険が及ぶものでもないし。

その老人の腕を伸ばした指さし確認は、はたから見ても気持ちの良いものであったことは認める。

だが今後も自分流指さし確認方法を続けるつもりだ。

あの老人が見ていたら、たぶん私の中途半端な行動が見過ごせなくて私の所に走り寄って腕を伸ばした指さし確認をするかもしれない。


ぜいたくな昼食

2022-03-18 11:17:49 | Weblog

春の真っただ中を感じさせる日、春野でぜいたくな昼食を摂った。

メニューは妻の作ったおにぎり。

おにぎりには2種類あって一つは焼きおにぎりでウナギのたれで味付けされている。

もう一つはヒジキ飯だ。

煮たブロッコリーと菜花も添えられ、ごまドレッシングを掛けていただく。

それだけでは足りないからとカップ麺も付いた。

カップ麺は年に2回くらい食べるが案外美味しい。

今日は妻も食事の支度をしなくてもいい日で妻はもっぱら庭に溜まった枯れ葉を掃く。

石の間に溜まった枯れ葉、坂道の枯れ葉。

山ほど集めては枯れ葉集め場所に捨てに行く。

平地を掃くのとは違って体力やコツもいるようだ。

作業をキリにして石のテーブルに食べ物を置き折り畳み椅子を用意して外で食べる。

まぶしい陽の光も下に見える気田川の流れも鳥のさえずりも全部淡く感じながらの食事だ。

少し汗をかいて疲れの見える妻が美味しそうに食べている。

私も予定していた作業はこなした。

フキノトウを見つけたし去年ハクビシンに喰われてしまったビワがいくつも芽を出している。

その場で食べたビワの食べ残しから芽吹いたのだろう。

去年があって今年があるなぁ、とおにぎりを食べながら考えた。

予約のいらない席で時間無制限で69歳ののんびりした昼食を摂る。