家訓は「遊」

幸せの瞬間を見逃さない今昔事件簿

300円DVD

2006-03-31 09:18:39 | Weblog
100円ショップでDVDを見つけた。

日本語 英語 中国語 韓国語 の4カ国語で読む 聞く 学ぶ
というものだ。

数ある中からロビンフットを選んだ。
100円ではなく300円だった。

音声言語を選び 字幕に出す言語を選んでスタートさせる。
英語で話し韓国語の字幕を見るという組み合わせが16通りできる。

これはすぐれていると感心した。

しかし約50秒で終了する。

こちらとしては言語の勉強というよりも続きを見たいという気持ちになる。

この300円の価値は高いが不満も残った。

LANケーブルその2

2006-03-30 09:31:20 | Weblog
LANケーブルを配線したとき先端のプラグを自分で取り付ける必要があった。

RJ-45プラグと専用圧着工具を購入した。

配線はネットに出ていた配線方法を見ながらやってみた。
全て終了して、いざ繫いでみると全く繋がらない。

結局テスターで何色が何番目と書き出して配線する必要が出てきた。

テスター端子では測れないほど狭い箇所なので先端に針を付けて測った。

やっと繋がった。


LANケーブル

2006-03-29 09:18:47 | Weblog
LANケーブルを2階まで引っ張った。

1階で無線ランを試してみたが非常に不安定で、どうしても2階にケーブルを繋げる必要があった。

我が家は床一面の鉄骨とコンクリートから出来ている。穴が開いているのは2階に上がっていく階段のみ。
それ以外にどこか穴は空いていないものかと天井裏を這い回った。
結局セントラルクリーナーの電線用のパイプを見つけ、そこを利用した。

2階に居る妻と天井裏に居る私が携帯電話で連絡し共同作業した。

何とか配線が終わり天井裏に登るために家の中にずっと置かれていた脚立も外に出て行った。

パソコン画面に鮮明に映る映像は苦労の甲斐があったことを示してくれる。

ステアリング試運転

2006-03-28 11:00:12 | Weblog
家訓は「遊」の文字の入ったステアリングを取り付けた。

試運転に出た。

今日は暖かく桜トンネルも通った。オープンカーならではの醍醐味を味わった。

それにしても世界でただ1つの自分用ステアリングというものを握って運転するのは気分の良いものだ。若干細めで大径のウッドは手触りもよく黒い革巻きの今までの物より雰囲気が格段と良くなった。
アルミの無垢、ステンレススポーク、ウッドの質感が素晴らしい。

運転手も白髪頭と白髭である。こちらも良い雰囲気を出していると思いたい。

釜山旅行その4

2006-03-21 10:33:01 | Weblog
第一回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日韓第2戦目が放映されていたとき私は釜山ロッテデパートの電化製品売り場に居た。

この日に試合の放映があるのは承知していた。しかしこの日はあいにくの雨で観光客の私としては地下街やデパートを回るしか遊ぶ方法が見つからなかったのである。

その時私はショーケースの中の万年筆を見ていた。すると「ウォー」という数人の男性の大声が聞こえた。「はっ」として振り返ってみるとテレビ売り場に集まっている人達がいた。

この時間が例の時間だと瞬時に思い出した。

私も画面を見に行った。先ほどの「ウォー」は韓国選手の打った球があわやホームランになろうかというときの期待を込めた叫びであった。結局ファウルボールであった。

別の売り場に移動した。

パソコン売り場でも画面は全てWBCにしてあった。
イチローが2塁にいたシーン。バッターに向かって「どうせお前は3振だよ」という意味のことを掃き捨てるように言う店員。私の存在は確認しているが無視している。というより自分が店員であることを完全に忘れていた。

3振した。

満面の笑みで空手の正拳突きのようなガッツポーズをした。

結局韓国チームが勝利したことをテレビニュースで知った。

雨も止み夕食を屋台でとっているとき「韓国野球チームおめでとうございます」と言うと、おばさんはとても嬉しそうに「私は野球ファンで今日は試合が気になってなかなか仕事が手につかなかった」から始まって延々と喋りだした。

熱い熱い韓国人を実感した。

写真は大覚寺という寺の軒下を店舗にしてしまっている所。
御利益があるのか罰が当たるのか。

釜山旅行その3

2006-03-20 09:16:45 | Weblog
かつて「ポンポン」あるいは「バタバタ」などという音響がすなわち名前となった物がオートバイである。自転車にエンジンを括りつけ後輪を駆動する仕掛けだ。

もう日本では全く見られない。もし見ようと思えば博物館か旧車クレクターのところに行かなくてはならない。

ところが、まだこの地で生きていた。

1台目を発見したときには、都会に生きる恐竜を見たような気分になり、急いで写真を撮った。しかし何台も何台も見ると、これは実用で使役しているのだと分かった。

韓国内はナンバーなし、ノーヘル、逆走、歩道走行、過積載は当たり前になっている。
これは褒められたことではないが旧式のオートバイが好きな私はまだ充分使用に耐える物が活躍しているのは微笑ましい風景だと感じた。




釜山旅行その2

2006-03-19 10:39:19 | Weblog
名古屋空港からわずか1時間10分で自分の生活と、こんなにも違っているのかと驚かさせることが多々あった。

まずは空港内警備の警官の姿。

サングラスを初めとして全身黒ずくめにした長身の警察官二人が右手に機銃を持って巡回している。その緊張感が名古屋とは全く違う。

日本の警察官だったら「ちょっと済みません。トイレはどこですか」と聞けそうだが、この二人には、そんな間の抜けたような質問などとんでもない。
その代わり、いざという時には撃ち合いをしてでも守ってくれそうな雰囲気を発散しながら歩いている。

中身はやさしい青年なのだろう。

しかしときには近寄り難いコスチュームで人々を威圧することも必要なのではないだろうか。

釜山旅行その1

2006-03-18 12:26:20 | Weblog
3泊4日の釜山旅行に行ってきた。

高級ホテルの釜山ロッテホテルに3泊して34800円である。
この値段でこの中身といったら国内旅行では絶対に敵わないと思う。
同じ韓国内にしてもソウルよりもまた一段と格安だ。

滞在費は人それぞれだが現地の人達が食べている物を食べれば食費など国内よりもずいぶんと安い。
タクシーも「ええ?」というぐらい安いし地下鉄は90円で10駅ぐらい乗れる。
つまりほとんどお金を使わないで楽しく美味しい物を食べ、五感をフルに使っていろんな物や場所を見て回る旅ができるのだ。


2004年2月にソウルに行ったときにはハングルがやっと読める段階であった。
その時にも現地の人にとても好感を持たれたが、あれから2年間勉強をした甲斐あって読みは確実で早くなり意味もそこそこ分かるようになっていた。またそうなると相手とのコミュニケーションも楽にとれるようになっていた。
「これは何と言う名前ですか」とか「トイレはどこですか」とか「何々を探しています」などを告げるだけで相手は親切に教えてくれる。そのあと「ありがとうございました」と言えば、もう立派に会話が成り立つ。
屋台のおばちゃんと片言の韓国語でも大いに盛り上がった。


勉強って楽しいなと実感した。

写真は初日の夕食。妻は海鮮味噌鍋、私は豆腐鍋を頼んだ。
その付け合せで出された品々。

生まれ変わり

2006-03-11 09:27:00 | Weblog
麿君は対人恐怖症である。
人が家に入って来ると必ず姿を隠してしまう。客人が帰ってから姿を現す。そして玄関に行き匂いを嗅いで「今のは誰だ?」と思索するのである。

たまに顔を見せる私の実家の家族や妻の友人などが来ても一旦は隠れる。

しかし例外がある。息子達である。

上の息子は100キロ近い巨漢である。彼がドスンドスンと入って来ても、まったく逃げない。息子は、たまに見る麿君が可愛いものだから何かと捕まえては抱っこしたがる。しかしそれにも応じる。

下の息子は大排気量のオートバイで帰省することがある。家の前で大きな音でドドーンドドーンと鳴ってヘルメットのまま玄関に入ってきても逃げない。
「マーロ君」と息子が言うと「ニャー」と答えるのである。
いつも神経質なほど他人を警戒する麿君なのだが息子たちには別なのだ。

息子たちは半年に一度帰省するかどうかで、めったに顔を合わせないのに。

以前「カイザー」という名のミニチュアシュナウザー犬を飼っていた。16歳で昇天した。
麿君は、その犬の再来ではないかと思ってしまうことが時々ある。
4人が自分の家族であると認めていること
敷いてある布団を踏まずに、その脇を歩く
私の膝で眠るのが好き
我々の顔の表情をよく読み取る

生まれ変わりなど全く信じちゃいないが、それでも「もしかして」と思わされることがある。

「ねぇ、麿君。ひょっとして麿君はカイザーなの?」
と聞いてみることがある。

しかし知らん顔をしている。

彼は口が堅い。

母の誕生日

2006-03-10 11:42:42 | Weblog
誕生日というとプレゼントを貰ったり、あげたり。またケーキを食べたり、それに替わる物を食べに行ったり。そんなことを、かなりの回数繰り返してきた。

最近子供の誕生日は嬉しいが今はもう大人になってしまったので小さかった頃に比較すれば感動は少なくなってしまった。

自分の誕生日など、ほとんど嬉しくはない。
連れ添いの誕生日も自分と同様である。

しかし母の誕生日は妙に嬉しくなってきた。

老人といわれる年齢になってしまった母が、この先どれだけ私との関わりあいを持てるだろうか。
少しでも長生きをして欲しい。
そんな思いが実感されるようになってしまったからなのだろう。

私の子供たちも母の誕生日には祝いのメールを送ってくれる。そんな母と孫との関係も嬉しさの中の一つだ。

一つ年を取る喜びは一年間生きて来られたことの証。

経年変化が、それなりの価値を持つ骨董品のように、母にはいつまでも輝いていて欲しい。