家訓は「遊」

幸せの瞬間を見逃さない今昔事件簿

源氏の湯

2014-10-21 07:59:31 | Weblog
年に何度か通る国道52号線。

静岡県清水区の興津から山梨県甲府に至る。

つい先月末もモーガンの集まりに参加するため清里を往復したばかりだ。

河の本流のような52号線の支流に当たる道を登っていくと各地の良さの凝縮された町に出る。

たいていは景色が良く地の物を美味しくいただける鄙びた温泉地だ。

今回も、まさにその通りの場所十谷温泉源氏の湯に行った。

2日間とも晴天に恵まれモーガンの屋根は外したままだ。

空気は寒くも暑くもなく快適な走行だった。

湯とアルコールを三昧し、たくさん笑うのは毎回だ。

今回は、それにプラスして良い散歩ができた。

竜仙峡という雄大な自然の造形と、そこに人が安全に歩ける程度の橋が掛かっていて、のんびり歩くには最高の道のりだった。

ただし普段あまり歩かない人たちなので、そうとう疲労したらしい。

それでも車のところに戻ってくれば爽快感に満ちていた。

この地には花びら茸というガンや糖尿病に効果のあるといわれるキノコがあることを宿の食事で知った。

帰り道さっそく、その生産現場で、その様子を見せてもらい2パックを購入した。

さらに52号線沿いの果物専門屋で甲州百目柿やぶどうの箱を安価で仕入れた。

その後赤沢宿で昼食を摂った。

古い古い宿場町は江戸の情緒と思われる風景が残っていて山の空気も澄み、それを知っている大学のゼミ一行やオートバイ一行と一緒にソバ屋に入った。

「トントントントン」とソバを切る音が立派とは言えない小奇麗とも言えない店内に響き渡る。

窓の外は向かい側に見える山。

オーダーをきっちり聞かないおばちゃんたち。

天ぷらが、まだ出ていないのに厨房から消えてしまったおばちゃんたち。

明らかに従業員というより近所のお手伝いおばちゃん。

それらが嫌な感じはなく、むしろのんびりしていると感じたのは、この宿場の持ち味なのかもしれない。

宿場としての歴史が長いからなのかもしれないが立ち寄る客に対して疑いもせず接してくれるようだ。

老いも若きも、このジジイ達にちゃんと話してくれる。

観光で食っているには違いないかもしれないが、この心地よさは他の観光地で味わったことがない。

帰路にちょとした実験のようなことが偶然起きた。

52号線の交差点で富士川を挟んだ西側と東側に分かれたのだ。

新清水インターから高速に入り新清水のSAで休憩していると、その別れた相手に出会った。

結論的に、どちらの道を走っても、ほぼ同じ時間がかかることが分かった。

ただし渋滞時に退避するため、いろいろな道を通っておくことは大事だと感じた。



モリアオガエル最終報告

2014-10-11 08:29:44 | Weblog
つい先日モリアオガエルの経過報告をした。

その文面は次のようだ。

「このところ、その水鉢の下からヤマカガシが出てくるのを見つけた。

ヤマカガシにしてみれば食い物が上から降ってくるのだ。

下で静かに落下を待つのは当たり前だ。

そのヤマカガシも幼蛇である。

去年か今年に生まれた者であろう。」

だが事態は最悪の様相になってきた。

初めのうちは小さなヤマカガシが目立っていたが、とうとう大物まで出てきた。

人間で言うと中学生から高校生そして大きな大人まで。

以前は宅地内にヘビがうろつくことなどほとんどなかった。

しかし、このところ見つけるのは宅地内ばかりといっても過言ではない。

モリアオガエルの卵を孵化させて、それを敷地の外にある池に移したことがある。

あれが正しかったようだ。

今回は初めて宅地内の水瓶で大人になっていくモリアオガエルを観察しようと思った。

だが当初の考え通り、やはりヘビを呼んでしまっていたようだ。

商店街にあるウナギ屋の換気扇の外にいるような焼き鳥屋のウチワのすぐ前にいるような感覚をヘビたちが持ったのかもしれないと考えた。

いろいろな匂いの混沌としている中に「これだ!」と何であるか、どこにあるのか、はっきり認識していたのであろう。

呼んでおいて「来るな」はないよな。

というわけで卵からオタマジャクシになり、それから足が生えて水瓶からでていくことは観察できた。

それで充分だ。

その後のヘビに喰われる瞬間までは見たいとは望まない。

水瓶の中から子モリアオガエルとオタマジャクシを網で救いバケツに移す。

そのバケツを水路の中の溜めマスに空けた。

本来の生きる場に移したのだ。

水路は下の溜めマスに次々と繋がっていく。

彼らの生き残るチャンスも今よりは増すであろう。

これでヘビも分かってくれると思う。

「宅地から出て山へ帰ってくれ」

私の切なる願いは、たぶん聞き入れられたと思う。

思いたい。





講師は野本寛一氏

2014-10-10 11:25:25 | Weblog
「日本人の自然観・民俗学の視座から」という講義だった。

どのような講義になるかのあらましを示した後、最初の写真は「草木塔」というものだった。

文字通り草木を供養する塔だ。

大きな動物の供養はするが草木に対してもする。

これは仏教伝来以前からしていたという。

ハエや蚊そしてアブまでが供養の対象だという。

なんとも自然を尊ぶ日本人らしい精神じゃないかと感激した。

普段はパチンと叩いて殺したり煙を使って遠退けたりするのだが心の底では彼らの生存を認め同じ自然の中に共存することを目指している。

山の雪が溶け中腹に人の顔ができたらヒエを蒔く。

自然暦を利用して暮らしていた生活の知恵だ。

カレンダーや気象情報だけを頼りにする現代人よりもはるかに合理的な気がする。

欲望の自制ということで全部を取り尽くさず必ず少し未来のために残しておくということもしてきた。

そんな知恵が現在は、なくなりつつあることを講師は憂いていた。

シイタケが工場で作られる現在においても確かにその通りだと感じるものが多くあった。

昔は同じ鍋を皆でつつくのが食事だった。

だが今は一人だけ自分の部屋で食べることもある。

それでは知恵や風習の伝承がうまくいくはずがないし子供の心の発育に悪影響が起こっても不思議はないかもしれない。

雨のおかげで植物が実り我々は恩恵を受けるが、多すぎると、それは災害という形で我々を苦しめる。

その狭間で、うんと苦労しながら生きてきた。

最後に自慢の喉を聞かせてくれた。

同じ歌詞の田植えの唄だ。

だが田の位置について少しテンポの違いが出てくるという。

山の奥深い(北の)地域は気温が低く稲の株分けが少ない。

従って植える稲と稲の間隔が狭く田植えの進みが早いというわけだ。

唄を聴いていると農民の姿が思い描かれ、そのテンポと共にそれぞれの生活があると感じられた。

女性を穢れたものとする考え方があったことを知っている。

だが、その部分については講師は声を大にして、そんなことはなかったと言い切る。

その証拠を、いくつか上げた。

その荒げた声が講師の正義感を表わし、好ましく感じられた。

衣食住の全てに忙しく働く女性に対し月に一度の休息を与える「月小屋」というものが、この遠州地帯には多くあることを聞いて、その子孫であることに誇りを感じた。



姉は姉を超えた

2014-10-06 09:45:08 | Weblog
何年か前の母の誕生日に旅行したとき母と姉と妻と私の4人で話していた。

小さな家、裸電球が一つ点いていて姉と二人、両親の帰りを待つ。

60年近くも前の話だ。

姉は父や母が夕方になっても帰ってこないようなとき、とても心細かった思い出を披露した。

私は、そういう気持ちになったことがないことに気がついた。

つまり私は4歳年上の姉の気遣いで心細いと思ったことがなかったのだ。

この時は私が姉にお礼を伝え、母は「そうだったかねぇ。あの頃は忙しかったからねぇ」と、まるで忘却の彼方の記憶を呼び戻そうともしなかった。

その母が夜間救急に運ばれた。

妻と私が病院に駆けつけると救急車に同乗してきた姉が廊下の長椅子で待機していた。

ドアが開き中に通される。

ベッドに横たわる母。

薬手帳を開き医師が飲んでいた薬を確認していた時だ。

母が突然声を出した。

というより絞り出される声とは言えない動物的な音だった。

姉は、とっさに母の頭を撫でた。

母の声は止んだ。

母は、それっきり戻ってこなかった。

それは母の私たちへのお別れの挨拶だったと後になって感じた。

私たちが枕元に駆けつけたことを察して、そうしたのだ。

話にはなっていないが、それでも、いつもきちんとけじめをつける母らしさを感じたのだ。

だが最近あの瞬間に姉が姉の立場から、もっと大きな立場に入れ替わったとも思えてきた。

今姉は、私を、そして家族を守ろうとしている。

両親の帰りを、ひたすら待っていた子供の頃の時のように気まじめに。

だが全く違うのは、もう帰らないことを理解している。

「まだ悲しくなる」と吐露した姉だが今までとはまるで違う強さではなく深さとでもいうものを感じた。

慈愛というものなのだろうか。

母が亡くなることによって姉は変わった。

私には、まるで子供だった頃のように守られている感覚がある。

「それでいい」と母が言っているように思う。








講師は ひろさちや氏

2014-10-05 07:58:14 | Weblog
仏教的な考え方の講演だ。

青色青光(ショウジキ ショウコウ)

黄色黄光(オウシキ オウコウ)

赤色赤光(シャクシキ シャッコウ)

白色白光(ビャクシキ ビャッコウ)

という言葉をホワイトボードに書かれた。

阿弥陀経の言葉で浄土を表しているということだ。

青は青春で黄色はジジイやババアと例える。

次の行の黄色と赤の場合の黄色は黄金の黄で赤は赤貧(貧乏)の赤。

赤と白の赤は健康白は病気。

それぞれに対比を見せる色。

浄土では、それがそれぞれ輝いているという。

ここ、娑婆(シャバ)では若いことが良くて老化は良くないこと。

金持ちが良くて貧乏が悪い。

健康が良くって老化はいけないこと。

この世はすべて縁(エン)だから自分より背の高い人と出会えば自分は背が低く、その逆もある。

劣等生がいるから優等生がいる。

それでいいじゃないか。

へんな物差しを捨ててしまうのだ。

縁で説明されると私も納得してしまう。

すんなり腑に落ちるのだ。

長い仏教の歴史が私の心にも深く入り込んでいることを確認する。

10年間引きこもりをしていた人の質問に「もう少し引きこもっていたらいかがですか」と言うとニコッと笑ったという。

笑った気持ちが、なんとなく分かる気がした。

引きこもっては、いけないものだと決めつけている私自身も発見した。

幸福だから努力すると言われた。

私は努力したから幸福が訪れると考えていた。

確かに、やはり幸福になることが先決だと思えてきた。

そのまんまというのだが怠惰に暮らせと言っているのではない。

浄土では綺麗な景色や美味しい食べ物だらけ。

シャバからの土産として最も良いのは美しい思い出だ。

苦のない浄土では出来ないこと。

つまりシャバでしか味わえない苦労である。

悲しみに耐えてきた苦労が浄土への土産だというのだ。

「ラム そのまんま ソノマンマ」と3回唱えた。

途中で会場に笑い声が増えたことに気がついた。

皆さん気が楽になって笑顔になってきたのだ。 

だが確信を語っているときには、水を打ったように静まり返る。

集中できる、それだけの説得力を感じた。

今のままで、そのまんまで輝けるように生活しようと決心した。

解散後

2014-10-04 07:36:59 | Weblog
MECJのミーティングが終わり各人それぞれに解散した。

私と一緒に参加したO氏や事務局であるH氏はクラシックカーイベントに向けて走っていった。

私は妻の友人であるS夫妻のところに向かった。

S夫妻は、ある企業の保養所の管理をしている。

住所と名前だけで山の中の広い敷地の中の1軒を特定するのは住宅地と違ってたいへんだった。

しかし訪ね当てることができた。

呼び鈴を押すと中からS氏が出てきた。

驚いた顔をしている。

奥さんから我々が訪ねるかも知れないことを聞いていないようだ。

「あれ、どうしたの?よく分かったねえ」という。

中に入ると管理室にいた奥さんが「よく来たねえ」と言って歓迎してくれた。

そして「今から忙しいさ」と言う。

当然だ。

お客さんが帰り宿泊後の掃除等一式が始まる時刻なのだから。

S氏が「お風呂入っていきなよ。そのあとここでお茶のみな」と言って風呂道具一式を持ってきてくれた。

彼らの忙しい時間に来てしまって申し訳なかったことと私たちが風呂に入れる幸運を思って「そうする」と即決した。

石造りの大きな風呂は、さすがに気持ちよく窓から見える庭も山の風情が感じられた。

はじめ熱く感じた湯加減も我慢して入っていたら心地よくなった。

チェックアウト後の風呂に入る機会なんて、そうそうあるものではない。

無料の貸し切り風呂を堪能して汗を拭き拭き出て行くと一段落したS夫婦が食堂で待っていた。

コーヒーを出してくれたりジュースを飲んで行けだの,ぶどうを持って行けだの歓待を受けた。

施設の案内をしてもらうと、この企業の関係者が羨ましく感じられた。

帰り際に少し紅葉し始めたヤマブドウの下に止めたモーガンを見て「こんな車が、ちゃんと走るんだねえ」とまるで車に興味のない友人の言葉を聞いて笑えてきた。

確かに、そうとしか思えない車だ。

「ちゃんと走らないこともあるんだよ」とは言わなかった。

完全に引ききっていない汗に山の気温が心地よかった。

狭い車内で騒音と振動にまみれて帰路に着いたが気分は爽快であった。






街灯

2014-10-03 07:18:11 | Weblog
入手してから3ヶ月掛かった。

その前に3ヶ月ほど通って譲ってもらった。

実際に手に入れてみると予想していたよりも傷んでいた。

まずはサビ取りをした。

けっこう手間がかかる。

錆止め剤を全体に塗ってからは、のんびり作業できた。

元色のグリーンに塗り屋根は、そのグリーンに黒を混ぜて塗った。

窓は当初元のようにガラスにしようかと考えたが重くなるし作業中に割れると始末に悪いので塩ビ板にした。

中をサンドブラストしてスリガラス風にしたかったが私の使用しているコンプレッサーでは出力が弱くて砂が飛ばないことがわかった。

しかたなくフィルムを貼って雰囲気を変えた。

釣り上げるのは、もらい物の犬の散歩用鎖に屋根と同じ色の塗装をして利用する。

ソケットを設置して、それに配線し大きめの電球を取り付けて終了。

あとは、縁側の天井に吊り下げて、すべて終わり。

と、主なことを書き出してみると、いかにも簡単そうだ。

実際には試行錯誤があり購入した器具が無駄に終わり予想とは違う結果となった。

だが、それらを総合しても楽しかったことは間違いない。

橋の欄干や公園にあるような照明器具が我が家を照らすと思うだけで嬉しくなる。




モリアオガエルの経過

2014-10-02 07:51:23 | Weblog
モリアオガエル2014としてブログに載せたのが7月13日だ。

http://blog.goo.ne.jp/begonomanagu1324/s/%A5%E2%A5%EA%A5%A2%A5%AA%A5%AC%A5%A8%A5%EB

その後順調に「メダカの餌」を与えて大きくなってきた。

最近は手足が生えてきた者もいる。

手足が生えて俄然カエルらしくみえるようになると少し体が小さくなるようだ。

体が締まるのかもしれない。

ところが、そんな先輩を喰うオタマジャクシがいる。

小さなカエルの見習いを大きな後輩オタマジャクシが喰う。

自然界というのは厳しい世界だ。

先に大人になるということが、すなわち生き残れることではない。

そんな水鉢の中での競争を生き残り、まだシッポはあるが、もう「独立したカエルである」という者は鉢から出ていく。

鉢の縁をよじ登り頂上から下の地面に向けて飛び降りる。

だが本来の自然界の厳しさは、そこからなのだ。

鉢の中は所詮同じオタマジャクシ同士の戦いだ。

泳ぎが上手ければ逃げれるし食欲が旺盛ならば大きく育ち喰われることはない。

鉢から飛び降りたカエルの子は、まだ長いシッポがある。

これは地上で生活するのには、かなり邪魔だ。

飛び降りて苔の上に軟着陸した猛者の様子を見ていた。

すぐさま、どこかに隠れなくてはいけない。

だが、その長いシッポは、どうにも歩きを妨げる。

ジャンプしようにも重いシッポがネックだ。

ヨチヨチと歩いて避難するしかない。

このところ、その水鉢の下からヤマカガシが出てくるのを見つけた。

ヤマカガシにしてみれば食い物が上から降ってくるのだ。

下で静かに落下を待つのは当たり前だ。

そのヤマカガシも幼蛇である。

去年か今年に生まれた者であろう。

それぞれが精一杯生きていることが分かる。

水鉢には、まだたくさんシッポのあるカエルになりかけの者たちがいる。

ある者は一生を終えて水面に落ちてきたセミをつついている。

自分のシッポが消えて動きが良くなってから鉢を出ればいい。

下で待ち受けるヘビは、小食だから運がよければ逃げ延びることができる。

下で待ち受けるヘビは、運がよければ何匹も喰えて生き延びることができる。

「君たちの両方よ。空の鳥にも気をつけろよ」