家訓は「遊」

幸せの瞬間を見逃さない今昔事件簿

石集め

2011-10-29 08:17:56 | Weblog
階段を造ったり石垣を修復するために大きな石を集めている。

川に転がっているようなツルツルの石ではなくて土の中にある角張ったゴツゴツとしたやつだ。

石垣の壊れた所には以前使用されていた石が落ちている。

しかし不思議なことに、その数が足りない。

また以前よりも大きな石を使いたいということもあって探す。

幸か不幸かイノシシが掘ったために出てきた石がある。

それを使えば、そちらもきれいになるし一石二鳥だ。

だが石は、かなり重い。

最近モルタルをよく使う。

セメントと砂を水で練った物をモルタルと言うのだが、その比率は決まっている。

セメント1に対して砂は3だ。

どちらも25Kg入りの袋で売っている。

だからセメント1袋使用したということなら砂は3袋使用したことになる。

重さにしてモルタルは100Kgだ。

私の場合セメント2袋消費したので、それだけで200Kg運ぶなり塗るなりしたということだ。

砂やセメントは袋に入っているので、まだ持ち上げ易い。

石は持ちにくいし落とすわけにはいかないので気を使う。

砂の重さから比較して25Kgより重い石も運んだ。

それらを集めてくるときには軽く100Kgを越えているだろう。

家の敷地に入るところで荷車ごとひっくり返したこともある。

登り坂を100Kgの荷車を引くと汗がポタポタと落ちる。

私のような非力な人間が原動力となるとき前輪駆動方式が良いことが分かった。

後から押すとなると舵取りが難しくなるし重さも増す感じがある。

また下るときにも足を踏ん張りながら降りることが出来るから人力(エンジン)ブレーキと舵取りの両方を使ったほうが便利で安定している。

ダンプカーやユンボの力の強さを自分の手足で確認している。

また石と石の間で指を挟むこともある。

機械は痛くないが人間は痛い。

だが機械の入れないところにでも人間の手は入る。

私がダンプカーのようにユンボのようにパワーを付けるのが最強なのだ。

だがご飯をたくさん食べても身体が太って重くなるだけでちっともパワーは変わらない。


頭の使ったの2

2011-10-28 07:10:43 | Weblog
今度は頭の中身を使った。

春野の我が家の山林の中に他人の飛び地が3筆ある。

そこを売ってもらった。

ところが、そのうち2筆が農地になっている。

農地を買う資格がない私は地目を変更するしか購入する手立てはない。

売主と相談して、その手続きを私にやらせてもらうということで合意した。

まずは農地委員会の許可をとり、その許可を持って法務局で今度は地目変更の登記をする。

それが終わると、いよいよ所有権移転登記をして終了だ。

最近その手続きの全てが終わった。

勿論売買契約書等も全て自分で作った。

それによって売主に支払う金額がずいぶん低く抑えられた。

本来なら私が土地代金を支払って、その中から売主が地目変更等の手数料を支払わなくてはならない。

それでは売買価格が高くなってしまう。

売主と私の信頼関係が充分にあるからこそ、こういうことが出来たと思う。

実際の土地も私が草刈りをする等整備をして文句なしの山林にした。

その結果農地委員会と法務局の現地調査にも合格したというわけだ。

もともと山間地の山林であるし我が家の山林に囲まれた土地なので安価であったが、さらに安く購入できた。

パソコンのおかげで楽に書類が整えられた。

またインターネットで下調べすることができたし地図などもプリントすることが出来た。

ずいぶん便利な世の中になったものだ。

うれしかったのは安価に出来たことだけでなく売主から「ありがとう」と言われることだ。

売主にとってめんどうな手続きを代理して私が済ませ、そして現地がきれいになった。

先祖から譲られてきた土地を手放すことに抵抗があったようだが今は「気楽になった」と言ってくれる。

私も「ありがとう」を言う。

お互いに感謝が生まれた土地売買であった。

地続きで増えた300坪。

どのように使うかは、まだ全く決まっていない。



頭を使った

2011-10-27 06:44:45 | Weblog
階段造りが終了して、そこに繋がる石垣を掃除した。

石垣をきれいにしてみると今度は崩れた箇所を修復したくなった。

上から土がドサリと落ちてくるのを承知して崩れた場所を少し掘ってみた。

案外土は固くて小さな穴を掘ることができた。

だが石垣の石は結構大きくて奥深く土に入り込んでいる。

正常な石垣の石が入っているところまでは掘らなくてはならない。

やはりドサッと来た。

だが掘るしかない。

掘ればドサッと来る。

めげずに掘る。

少しだけ両隣の石よりも深く掘り、そこに石を置く。

「エイヤッ」と掛け声を掛けないと持ち上がらないほど大きな石を置いた。

向きが気に入らないから外して、やり直した。

隣の石との組み合わせが良くないから再び外して置き換える。

一つの石の場所が決まると次の石を置いては座りの良い位置を探して置く。

そんなことを繰り返した。

筋肉痛が3日後に来たという悠長なことはない。

作業を終了した夜から筋肉痛が始まった。

首が痛い。

湿布薬を貼る日が続く。

ふと気が付いた。

首が痛いのは頭を使っているからだと。

ただしこの場合頭というのは頭の中身つまり脳を使ったのではない。

頭というオモリを利用して石を持ち上げているのだ。

右利きの私は、どうしても右手に力が入り、だから頭を左側後に向けて振り上げるように使う。

すると右側の首が痛くなるというわけだ。

ほぼ二箇所の石垣修復を終えた現在あと一箇所の修復を予定している。

まだまだ首の痛みは取れそうもない。

よく頭を使っている証拠だ。




国道152号線

2011-10-25 14:13:07 | Weblog
先日泊めてもらった蓼科にある友人の別荘を地図で見た。

帰り道を確認するため次第に縮尺を小さくしていくと彼の別荘から下に下りてくれば浜松に辿り着くことが分かった。

さらに縮尺を下げると、ほぼ手描きの直線くらい真っ直ぐに茅野市から浜松市まで国道152号線が延びていることが分かった。

がぜんここを走ってみたくなった。

ただ走ってみるだけでは、もったいないので諏訪湖畔にある北澤美術館そして駒ヶ根にあるカフェグースにも寄ろうということになった。

朝6時45分に家を出た。

いつもの天竜川堤防を走る。

途中から、いつも行かない方角に車を進める。

家から春野まで1時間なので、こちらの方向に1時間走ると、どの辺りなのか気にして走る。

綱引きで県境を決める国盗り合戦の地「兵越峠」を越えてトイレ休憩したのは9時を回っていた。

現実の山道は直線どころか180度向きを変えて逆行したり360度転回して進んだりした。

また工事箇所もありダンプがバックして道を譲ってくれたり斜面に登って作業している人たちの手を止めてもらってから進むこともあった。

既に紅葉真っ只中のところもあり、すかさず車を止めて景色を眺める。

11時過ぎ伊那市の美和湖付近にある南アルプスむらで昼食にした。

「きのこ汁のようなものは、ありますか?」の問に「メニューはこちらです」と涼しく答えてくれた。

カレーやハンバーグなどだった。

少し落胆して中華飯とおにぎりセットを食べた。

茅野市を見下ろせる杖突峠を走っていると遠くに山々が見渡せた。

ヴィッツの1000CCエンジンは上り坂ではヒーヒーと気の毒な音を立てていたが、それ以外は快適であった。

秋葉街道を走破するという約5時間のドライブの終了だ。

秋葉街道は春野町にある秋葉神社へ参拝するための参道でもある。

という意味では、どんなにきつい勾配の上り坂でも秋葉山から離れるということは下ったわけだ。

また国道152号線を走るということは中央構造線をなぞるということでもある。

地震との関係や地形学的にも面白いところらしい。

分杭峠(ぶんぐいとうげ)という峠付近には多くの車が駐車しシャトルバスも走っていた。

パワースポットとしての人気があるという。

単なるドライブの目的にするにはもったいないほど多くの魅力を持つ国道でもあった。

駒ヶ根から別の下道を帰ってきたのは夜道を走るには国道152号線は危ないと考えたからだ。

だがシカや野ウサギまたイノシシと遭いたいなら、そちらを選ぶべきだろう。



文化的な秋の日

2011-10-11 07:12:54 | Weblog
永松朝子さんの個展を見に行く。

静岡カントリー浜岡コースのホテル3階カルチャーフロアーで行われている。

本人は、お昼頃来館するというので今日は会えない。

しばし彼女の作品を見て過ごした。

ヨーヨーマのチェロが流れ窓の外は穏やかな遠州灘、お茶と栗をいただいて、おいとました。

昼食は「煮ものや のら」に行った。

掛川の分かりにくい場所に位置しているのでカーナヴィと喧嘩しながらの到着だった。

それでも予約時刻ピッタリだった。

室内はカウンターの色 テーブルの形 置物などいろいろにコダワリを感じた。

さて出された器に驚いた。

直径40センチはあろうかという大きなお椀だったからだ。

薄味でとても美味しかった。

友人の陶芸家のところに行ったというより帰った感覚。

先日初めてロクロを体験したときの湯飲みにサインしろという。

ここでも肉球マークをサイン代わりに入れてきた。

「こうしたい」と言うと

「こうやればいい」と答えながら別の土で実演してくれる。

だが実際に自分の器に掘り始めると、やはり難しいものだった。

お茶を飲んでいると楽土舎を運営している松田さん夫婦がやってきた。

先日開催された山下洋輔と田中泯共演の裏話を聞かせてくれた。

私の書いた日記も読んでもらった。

半袖でも長袖でも合うような暖かく穏やかな日に文化的な話や行動が出来て幸せだった。




焼き鳥屋「陣太鼓」

2011-10-09 08:10:25 | Weblog
浜松駅南側にある焼き鳥屋「陣太鼓」に行った。

この店の経営者は御近所さん。

近所に住んでいて、よく顔を合わせるが店には行ったことがなかった。

日暮れが早くなった夕刻少し厚着して歩き始めた。

路地を見つけて入ってみた。

「ああ。ここに出るのか」

他愛もないことで素晴らしい知識を獲得した気になる。

店は比較的空いていた。

「ホッピー」という飲み物を注文した。

ジョッキに半分くらい入れた焼酎の中にホッピーという麦芽発酵飲料を注ぐ。

焼酎のホッピー割りはアルコール度数の高いビールのような感覚かな。

焼き鳥の盛り合わせをとった。

少し濃い目のタレの味が美味しかった。

焼き鳥の煙が店内に適度に充満して気分が良い。

客は上機嫌で話をしている。

我々は店主と彼の奥さんと話した。

「歩いて来て歩いて帰る」と聞いて驚いていた。

他の常連客がチラチラと我々を見る。

というよりオトコばっかりだったから妻を見たのか。

「3月11日以降暇になった」とはいえ入れ替わり立ち代り客が訪れる。

感じの良いご家族だし清潔感のある店だから、また来るんだろうなぁという予感を持って店を出た。

二人とも、もう一軒行きたい店があった。

エキストラコールドビールの店だ。

駅ビルの中にある八丁蔵。

カウンターに座り「マイナス2度ふたつ」と注文した。

いくら冷たいビールでも夏ほど感激がないことに気がついた。

気温が私たちの飲み物の好みまで左右するのだ。

季節の移り変わりをビールでも知った。

すっかり暗くなった路地を歩いて帰る。

地価の高い場所にもボロボロの空き家があるし近代的な家々中に草ボウボウの家がある。

農業用の水路には、もう水が流れていない。

ザーザーという音が、もう懐かしく思える。

少し寂しくも感じた。


講師は ささめや ゆき氏

2011-10-08 06:36:30 | Weblog
講師は ささめや ゆき氏 絵描き。

「絵は悲しみを持って描くものだ」と悟ったという。

パリを流れるセーヌ川の中洲にあるシテ島外れの屋根裏部屋でのことだ。

絵を描き続ける動機を軽く表現する。

「ほかにやることがなかったから」とか「せめてこれだけは続けよう」など。

絵の学校の先生が「君ほど才能のない人はいない」と言われようとアメリカでコックとして大成しかけていようと絵を止めない。

絵を続けるのも止めるのもモチベーションが低い。

「僕の人生は、いつもあとちょっとのところで違う方に行く」と普通に言う。

「しかし間違っていなかった気もする」とも言う。

「組合活動をやっていなかったら今頃は退職金をもらって悠々自適だったかもしれない」と少しの後悔も見せた。

描けば描くほど汚れていく絵。

電灯のスイッチを押そうとドアに近づいて振り返った瞬間、汚れた絵に吸い寄せられて画面が「こうしなさい」と教えてくれた。

完璧な作品が出来上がったという。

その時の興奮が味わいたくて描き続けているが、まだ未だにその一度だけだそうだ。

シェルブールで一日36時間絵を描き続けたというエネルギーを感じることは出来なかった。

英国ラジオ放送で流れた美空ひばりの歌を聴き日本を思い出し2番の歌詞で帰国したいと思い3分以内に決心したという即決した、その時の決断力を感じ取れなかった。

だが44年間描き続けていることは事実。

きっと本人にも分からない何か強い力が活発に動いているに違いない。

「君の絵のほうが、あっちの絵より良いよ」と言った青い目の老人。

「君は芸術家になりなさい」と言った白いスーツに紫のカトレヤを付けた画家。

彼らの言葉が、ささめや氏の心の深い部分に熱い物を埋め込んだのだろう。

学校の習字の先生に美術の先生に音楽の先生に言われた言葉を引きずる私。

もう一度習字を始め、絵を描き歌を唄い誰かに誉められれば治るかな。



土に描いた存在

2011-10-06 07:29:48 | Weblog
8月からずっと土建屋さんだ。

崩れかかった石垣を直したり新たに石を組み込んで石垣を増やしたりしている。

ヘビが巣くうのを避けるために石垣の間にモルタルを詰める作業も進めている。

モルタルが天然石との間に見えるのは少し興ざめするが見栄えよりも実をとる。

片手で持てる程度の重さの石から「えーい」と声をかけないと持ち上がらない程の石まで使う。

私がやっと積んだ石は石垣の中では中くらいの大きさで、もっと大きなものもたくさんある。

「昔の人は力持ちだなぁ」と感じるし「昔の人はセンス良いなぁ」とも感じる。

石垣は見えている部分よりも、ほとんど土に隠れている部分の方が大きい。

だから何年も持つし地震や台風でも壊れないのだなぁと感じる。

5段の石階段を8段にしていた時のことだ。

土を固めて帰ったが翌日その土の上にしっかり通行者の跡が着いていた。

鹿だった。

アスファルトの上には「二」という跡しか残らないが土なのでヒズメの形に土が掘れて立体的に残る。

そのまま保存したいほどきれいな足型が着いていたが、そこはコンクリートで固める必要があったので、やむなく消した。

だが、その場所以外に足型はなく、かなり遠くまでジャンプしたのであろうことは驚きだ。

ヒイラギナンテンを抜いて移動させた後そこを平らにしておいた。

スコップの裏側で土を叩いて水平に近く、しかも固くした。

翌日今度はモグラが歩いた。

「歩いた」と言っても地中のことだが、それでも地表に、はっきり土の盛り上がりが模様のようにできていた。

モグラのトンネルは途中で途切れている。

もう一度同じ道を戻ったのか、もしくは、まだそこに滞在中なのか分からない。

滞在中だとしたら居場所を教えているようなものなので危険だと思われる。

翌々日さらにそこからトンネルが延びていた。

モグラ君のその日その時のアリバイは誰も証明できない。

スコップで土を掘っているとミミズが出てくることがある。

これはモグラに食われまいとして逃げるために出てくるのだと、つい先日教わった。

自分に近づく地中の振動という恐怖。

地表に出てくると今度は乾きという悪条件が待っている。

小さくて軽いミミズでも通った跡が着く。

土に描いた存在。


DOCはDOCK

2011-10-05 06:45:08 | Weblog
蓼科にあるDOC氏の別荘で目覚めたのは午前5時半。

いつも通りに起きて散歩した。

標高が1185メートルある割には寒くなかった。

ゴルフ場の隣に位置する別荘地のため隅から隅まで整備されていて気持ちよい。

小川の音に誘われて行くと沢の岩の間を清水がザーザーと音を立てて流れ、その流れは更に川に合流してゆく。

DOC氏の用意してくれた朝食をとり、またまた皆で会話を楽しむ。

この場の提供と言い皆の世話と言い、そして中さんの車の件と言いDOC氏には並々ならぬ犠牲を払ってもらっていることを実感する。

DOCとは自分で決めたハンドルネームらしいがDOCKとしてKを一文字増やして傷ついた船の修理や足りないものの補給をする場所の意味も加えても良いと思った。

船が人間に代わっただけで癒されて大海に戻って行くことは同じなのだから。

さてDOC氏邸を後にした我々は製麺所に寄り自由農園に寄って活きの良い地元の土産を調達した。

52号線の身延で昼食をとった。

私はホウトウ鍋とご飯をたらふく腹に詰め込んだ。

その後富士川PAに設置されたスマートインターから伊豆組と浜松組に分かれて東名高速に入った。

下りは行楽帰りの車で混んでいた。

日本平でモーガンO氏と挨拶して一応の別行動にした。

10分もすると後ろを走る私の視野からO氏の姿は消えた。

ところが袋井インター手前でO氏のモーガンが路肩に止まっているではないか。

私もハザードを点けて止まった。

「ガス欠だ」と言う。

私も諏訪南インターで給油したが25Lしか入らなかったしO氏はDOC氏邸で持ってきた20Lを入れたはずだ。

だが紛れもなくガス欠症状を示す。

急遽私がガソリンタンクを借りて袋井インターを出てガソリンを購入し再び袋井インターから乗り掛川で降りて、またすぐ乗った。

「2キロ先故障車あり」と電光掲示板に出ていた。

路肩に停車していると道路交通法違反になるかもしれないが、やるしかない。

我々の横を猛スピードで車が走りすぎてゆく。

安全の確保は難しいものだと実感した。

ガソリン補給をしたO氏のモーガンは黒い煙を吐き出したが快調に走り無事浜松インターで下りることが出来た。

自宅に到着して片づけをしているとポケットの中からどんぐりの実とゴルフボールが出てきた。

DOC邸の近所で拾ったものだ。

「子供みたいだ」と自分で感じた。

まる二日オープンで走ったため咽が少しいがらっぽい。



中さんが来ていた

2011-10-04 07:56:47 | Weblog
MECJのミーティングに参加した。

清里に来るとモーガン仲間がたくさん居て心が落ち着く。

だが誰とでも話をしたくなるし皆のモーガンを見たくなって浮き浮きした少し焦りのようなものも感じる。

今年は特別なことがあった。

去年の11月に亡くなった中さんのモーガンが並んでいたのだ。

「おお。懐かしい」

思わず車体に触れた。

中さんと私の共通の友人であるDOC氏が四国から持ってきてレストアしてくれたのだ。

レストア途中で他界してしまった中さんの思いを引き継ぎ完成させて、この会場に持ってきたのだ。

エンジンを掛けさせてもらった。

キーを回しても掛からない。

隠しスイッチを使って掛ける。

DOC氏は、この隠しスイッチも別の隠しキーも覚えていた。

四国で一緒に走り、その途中で故障して以来のエキゾーストノートは以前のままだ。

いや若干力強くなった。

「ここに来ているね、中さん。この音なら満足でしょ?」心で会話した。

思わず「うるっ」と来たが堪えた。

DOC氏は中さん繋がりの整備工場で修理しているから、まるで中さんは居ないくせに全て采配しているような気がすると言っていた。

もう一度この日は中さんと会話することになった。

DOC氏の別荘に泊めてもらうため走り始めたときのことだ。

「うわぁ早い。なんでそんなに飛ばすの?」

後からついて行く私たちをまるで振り切って逃げていくかのようだ。

まてよ、これは中さんだ。

四国での中さんの走りが全くこのようだった。

「そうか中さん。分かった」

闇の中の八ヶ岳高原ライン八ヶ岳エコーラインを疾走して蓼科に向かった。

中さんを夢中で走って追いかけているのに横に乗っているような感覚だった。

ミーティングでのアトラクションとしてのストップゲームの際声を掛けてくれた美人母娘を乗せてゲームに参加したこと。

パーティーで私が、そのゲームに入賞できたことを思い出したのは蓼科に到着して皆で乾杯しているときだった。

だがその後O氏の面白い話題に花が咲き思い思いの意見を出し合った。

中さんの意見も是非聴きたかった。