家訓は「遊」

幸せの瞬間を見逃さない今昔事件簿

素人の誤算

2018-12-26 09:54:30 | Weblog
春野の我が家は道路によって上と下に分かれている。

今までは道路の上側でシイタケの栽培をやっていた。

だが来年からは道路下でもやろうと考えた。

下にもシイタケのホダ木になるコナラが在るのだ。

まずは切り倒さないと。

適当な2本を選び出し切ることにした。

木の形状を見ると南側に多く枝が生えている。

「これは南側に倒すのが当然だな」と確信した。

チェーンソーは準備万端。

もう一度辺りを見回して安全を確認した。

もしもという時のために逃げる場所も決めておく。

さて木の南側に倒すための切り口を作る。

十分な大きさの切り口が空いた。

倒れる側に回って写真を撮る。

その切り口の裏側にチェーンソーを入れる。

順調に推移しているところを写真に収めた。

さらに裏側をチェーンソーで切っていく。

「メリメリ」という音がし始めた。

何か変だ。

倒れようとする方向が違う。

「やばい」

逃げることにした。

逃げ足の速さは計画通り。

安全な場所で倒れる木を見ていた。

なんと予想とは90度違う方向東向きに倒れた。

「変だなぁ」

結果的に失敗だが怪我もなく倒したからいいのだが腑に落ちない。

もう一度南側から見てみたら木の立っている、その地面自体が東に坂になっていた。

斜面に立っているということを考慮しなかった。

さすが素人。

思わぬ方向に倒れたため別の木に引っかかってしまった。

これでもう一つやらなくてはいけないことが増えた。

これらも安全を第一に考えて楽しもうと思う。

このあたりはシカやイノシシやサルの通り道となっている。

前途は多難だがガンバルぞ。

猫の本能と妻の手法

2018-12-14 08:22:18 | Weblog
眠りにつく直前に妻が「マロちゃん、おいでー。寝るよー」と叫んだ。

珍しくない言葉だがマロ君が逝ってしまった今それを聞きたくないと思った。

「いまそれを言う?」と聞くと、「うん」と明るく答えた。

妻は口に出して忘れていくが、私は押し殺して忘れていく。

こんなにも違うものか、180度違うではないか。

マロ君が、いつから食べなくなたのか記憶にない。

11月4日には脚が立たなくなった。

その後少し回復したが、やはり食べない。

食べられないというより「食べない」と決めていたようだ。

自分の最期を、この時期だと悟ったのか。

子供の頃飼っていた猫は死期が近づくと、決まって姿を消した。

きっと人目に触れぬ場所を選び飲まず食わずで最期の一瞬を迎えたのだろう。

マロ君も、その例に倣って行動していたのだろうと思う。

だが妻は、そんな猫の本能を知らないし助けたいと思っている。

水を小皿に入れて口元に持っていき「飲んで」とやる。

マロ君は「いらない」という意思表示のため顔を背ける。

だが妻はそちらに小皿を移動して「お願いだから飲んで」とやる。

何度も繰り返した挙句マロ君が折れて「ぺチャぺチャ」と飲む。

「あー。おりこうだったね」と褒められる。

キャットフードも、その手だ。

私は、もう食べたり飲んだりしても回復しないことを知っていた。

余りにも落ちてしまった筋肉は戻らない。

妻は最後まで諦めない。

私が起きている間に少し寝ては起き出しマロ君の横に添い寝する。

もしものことがあったら私も、このように妻から介護をしてもらえるのだろうな、とその姿を見て確信した。

最期の前夜私も布団を持ち出し二人と一匹で川の字になって寝た。

10分から15分おきに寝返りを打ちたいのか体を起こす。

骨川筋衛門になった体は痛いのかもしれないと思い体を持ち上げて向きを変えてやる。

すると気持ちよさそうに寝入る。

妻は私が世話をすることで安心し、また今までの寝不足がありグッスリと寝ていた。

妻だけでなく私も最期の介護ができてありがたかった。

隣で寝ているマロ君と妻。

私の宝物たち。

介護に値する人間でなくてはいけないと肝に銘じた。


セラピストを失った

2018-12-12 19:32:32 | Weblog
最近泣く回数が確実に減った。

何か集中するものをと思い夫婦でスマホにした。

といっても私はタブレットを使っていたし妻もデータシムを使ったスマホを使っていたからゼロからの出発ではない。

ガラケーも同時に使用していて電話だけは、そちらに頼っていた。

それをすべてスマホに切り替えたのだ。

なるほど覚えなくてはいけないことが多くあり頭の中が、そちらに向く。

それに少し慣れたので、今度はスマートブレスレットという腕時計のような装置を購入して使い方を勉強している。

朝起きだして「おはよう」の挨拶から始まる。

静まり返った部屋でも「居るような気がする」という気配に向かって関係を持つ。

何かと繋がりを作ってきた我々には止められない行動であり、それを忘れるまで続けていく。

それが私たちの平常を保つ方法なのだ。

ゴミを出す日「ばかに軽いな」と感じる。

マロ君のトイレの砂が入っていないからだ。

マロ君のトイレをどけた後は、そこに丸椅子を置くことになった。

椅子が片付いた。

爪とぎが無くなったから少し歩きやすくなった。

掃除機をかけると猫の毛が無くなった。

「黒い洋服が着れるね」

マロ君が居なくなって良くなったことなんて所詮これほどのことに過ぎない。

マロ君の死はセラピストの死だった

20年来の同居のセラピストを失った時だと気がついた。

笑顔をくれるわけではないが、こちらが笑顔になる。

優しい言葉もくれないが、こちらが勝手に暖かくなる。

寝ていてもいい、歩くだけでいい、膝に来てくれたら最高。

妻は「あー、抱っこしたい」と言って泣く。

私は彼の体を思い切り嗅ぎたい。

その匂いを肺の中いっぱいに満ちさせたい。

匂いを思い起こして人は泣く。

柔らかい毛と皮膚の感覚を思い出して泣く。

脳は分かったようなことを自分に説くが、それと別の体の組織全体が欲する。

苦しみ、耐える。

今また涙が湧き上がってきた。