家訓は「遊」

幸せの瞬間を見逃さない今昔事件簿

イタチとカワセミ

2021-11-23 08:28:11 | Weblog

今年は夏からイタチをよく見る。

よく見るというのは5匹見た。

そのうちの2匹は車に轢かれた状態であったが。

それ以外は川沿いの道で瞬間的に見たものウロウロしているのを見たもの。

最後に見たのが川の護岸用の木製土留めの隙間に入っていった。

初めは木製土留めの杭の上にカワセミが居て、それを見ていた。

何枚も写真を撮ったがカワセミはジッとそこに居て動かなかった。

と、対岸に動いたものがある。

それがイタチだった。

褐色ではなくこげ茶色に近い。

調べたら全体の色と尻尾の長さからいってチョウセンイタチであろうと結論した。

車に轢かれた状態だったイタチは褐色だからニホンイタチだったと思う。

しばらくカメラを構えてじっとしていると私の姿は「アヤシイ」。

ちょうどお爺さんが歩いてきたので話しかけた。

まずはカワセミだ。

小声で「あそこに、あの杭の上にカワセミがいるんですよ」と言った。

お爺さんは小声の意味をもちろん察し、やはり小声で「ああ。いますね」と答えた。

ちゃんと分かってもらえた。

これで少し声の大きさを戻して「あっち側のあの木製柵の中にイタチが入っていったのですが写真を撮ろうと思ってカメラを構えていても全く撮れないんです」と言った。

その瞬間「ああ。歩いていますよ」と私が示したのとは違い土手の少し上の辺りにイタチを見つけた。

本当だった。

さっきのイタチが見えない通路を通って別の所から現れたのか、また別のイタチなのかは分からない。

その爺さんにお礼を言った。

アヤシイ私の話を聞いてくれて私が怪しくないことの証人の気がしたし、

しかもイタチを見たのは随分昔のことで今見たことを喜んでいたようで私もそれを見て嬉しく思ったからだ。

残念ながらカメラの性能が悪く、

せめて止まっているカワセミだけでもきれいに大きく撮りたかった。

これは全部実話なのだが、なにせイタチの写真がないものだから説得力がイマイチなのだ。

本当に本当の話だぜ。


干し柿2021

2021-11-20 10:23:04 | Weblog

干し柿は買い出しに行ってきた翌日に作業した。

前日収穫コンテナを玄関に置きっぱなしにしておき、それを2階に上げることからだ。

車に積み込むには妻と二人で持ち上げたのだが狭い階段を二人で持ち上げるのは、かえって危険だ。

「えい」と持ち上げてみたら「行けそう」という感覚を得た。

そのまま二階に二往復して全部の柿をテーブル下に用意した。

さて次は妻の出番だ。

皮むきをひたすらしてもらう。

私は妻がむき終わった柿が6個になるとヒモを付け台所に入って熱湯に浸ける。

その後大きなボウルに入れて、しずくを落とさないように居間を通過しベランダに設置した簡易干し柿作り機に掛ける。

干し柿作り機は関節が3か所ある脚立をM字型に開き、そこに伸縮物干し竿を最長に伸ばして、それを3本置いて固定してでき上がる。

約100個の柿は3本の物干し竿にちょうど良い間隔で並び急な雨でも対処しやすくなった。

今までのは木造の場合は木材の傷みが激しく次に採用した折り畳み物干しは干されるものが軽い物を想定してあり、且つ竿の間隔が狭いため大きな柿は干せなかった。

今回は干しやすく丈夫で解体も簡単だ。

雨の場合は今までの折り畳み物干し竿に移す。

妻の皮むきは3時間に及んだ。

私の作業は移動が付き物だが妻はその場でする作業だから後々の凝りが心配だ。

作業を終えてみると、もう薄暗くなっていた。

きれいに並んだ柿を見ると疲れも癒され冷え込んだ風がいつもと違い心地よく感じた。

既に数日間干された柿は少し縮み大きさも重さもかなり減っているし垂れてくるシズクもないから簡単に移動できる。

干された柿は、まだそのままの柿色をしているが表面を触ってもべとつくことはなく老人の皮膚のような感触だ。

皮をむいた柿は、そのみずみずしさが、まさに若者のようだ。

一方干し柿は深い味わいのある甘さの際立った別の良さがある。

若さの失われていく私は干し柿の事を思うと自分の老化を許す気がしてくる。


影を見て

2021-11-16 15:35:19 | Weblog

友人が定年退職するにあたり退任記念展というものを静岡文化芸術大学のギャラリーで催している。

初日には私の年配の友人と顔を出し二日後に妻と行った。

2度目の時、ふと作品に黒く影が気になった。

ギャラリーは天井からライトが当たっている。

当然作品には影ができている。

「おっ、この影がいいな」と直感して写真を撮っていった。

するとある作品には上から見た部分と影、そしてその裏側、さらにそれを支える脚の部分という構成になっていて色々な角度からの見方があるなと思った。

影は光の当たるときしか出ない。

むしろ光の当たらない部分の方が当たる部分よりも多い。

そんなことを考えたら次に自分自身のことが気になり始めた。

自分自身の見え方とは、どういうものなのだろう。

光の当たる部分と影はどれで裏側とか支える部分はどれなのかな。

そう考えていたら本人が顔を出してくれた。

彼に今考えていたようなことを告げると、大した返事はなく、この作品を作るにあたっての苦労話をし始めた。

「俺の話はどうなんだよ」と思うと彼の記念展のチラシの中に充分彼の考え方として書かれていた。

 

ごあいさつ

心象風景をテーマに作品を制作しています。

子供のころに見た武蔵野の風景であったり、旅先で出会った風景であったり、高速道路を運転しているときにふと視界の端を通り過ぎた風景であったり。それらの景色が原点となり、感性を刺激し、断片的に自分の中に記憶されていきます。

作品を制作するということは、この蓄積された感性の断片を確認していくようなものかもしれません。

心象風景として広がる感性の原野を少しずつ形にしていくのが私の作品であり、その多くは俯瞰された風景です。

その風景を大好きな鉄を使って表現しています。作品をとおして「鉄」の温かみや柔らかさを感じていただければ、幸いです。

 

とね。

教授というお堅い仕事はもうこれまでにして元来の芸術家(変人)らしく生きてくださいよ、と思う。

退任後の初作品が見てみたいと感じている。


ドジを見せた

2021-11-15 15:59:08 | Weblog
毎年恒例の柿買い出しに出かけた。
例によってY夫婦と一緒だ。
そして今年は私の運転。
わが家は100個の予約でY家は140個だ。
わが家は収穫コンテナを3個持っていくがY家は、これから購入して持っていくことになった。
私の車にわが家の収穫コンテナを3個積み、それを2段重ねして計6個積む工夫をした。
バックドアがまっ縦に開いているように見えて、やはり丸みがあるので上方向に狭くなっている。
また室内も平ではなく余分な凹凸が在って微妙に積み込みの邪魔をする。
何よりまずこの収穫コンテナに、いったい何個積み込めるかも分からない。
この収穫コンテナに積みきれなかった場合のダンボールを積み、そのダンボールを収穫コンテナの上に置くための板を積み、それからダンボールは解体して持っていき現場で組み立てて、そのためのガムテープを持ち・・・・。
まぁ準備してみれば全部の項目をクリアーして出発できた。
だが座席を少しずつ前に移動させたため背の高いY夫のみ足の置き場が狭かった。
農園には午前の終わりに到着し農園側で準備してくれてあった柿を早速積み込む。
収穫コンテナには50個ほどの柿が収納できたので、あっという間に積み込みは完了した。
100円ショップで購入した自転車の荷物を固定するゴムひもで車体に固定させて帰路を安全に移動する準備は万端であった。
昼食と休憩のため「みたまの湯」に寄った。
昼食後ご当地野菜を買い込み、その後風呂に入って露天風呂から晴天の甲府盆地を見てから次の目的地に進む。
身延にあるカフェに寄るのだ。
農家を改造して造ったらしい小さなカフェでチョコレートケーキとコーヒーを楽しんだ。
さて、こう書いてくるとすべてが順調に進んだように感じるが実は私がドジを踏んでしまった。
帰路の途中私は運転に集中していた。
後部座席では婦人同士が話に花を咲かせていた。
私とY夫の話が途切れた数分、そして次の瞬間私の居眠りが起きた。
ほんの一瞬だったし車間距離も取りブレーキも適切に掛けたため余裕で停車できた。
ただ車内は「ヒャー」となった。
いつも春野の帰路にはガムを噛みながら運転することにしているのだが、その時には、つい忘れた。
安全のための、いつもの行動は欠かしてはならない。
このドジを見せて同じ世代の教訓とした。


ヤギの小便

2021-11-07 10:57:48 | Weblog
先日のイグアナは、交番に届けた以降見えなくなった。
4か月間待ち望んでいた持ち主の元に戻りイグアナ共々涙の再会となったことを想像する。
さてその一日前にも別の動物との出来事があった。
私がいつもの川沿いをいつものように歩いていくと、おばさんが手をパンパン鳴らしながら叫んでいる。
「こら!ほら!」
私が近づき堤防の下を見るとヌートリアが草の間に隠れている。
私とおばさんが話をしていると草の間から姿を現した。
「あれ。ズーズーしいね。人の植えた野菜を食べて」という。
だが食べているのは収穫を終えて畑に残ったサツマイモの葉と茎だ。
「ほれっ。逃げないと罠に掛かっちゃうよ」と実はヌートリアの味方のような発言。
「あっ。何か棒を持った人が来ましたよ」と言うと「あれはウチのだ」と言い、その棒は釣り竿だった。
その場所から100メートル行くとヤギを飼っている幼稚園がある。
今日のヤギ君は堤防の上に居た。
私は座り込んでヤギとのコミュニケーションを楽しんだ。
私の話は少ししか理解できないだろうけど通じていないことはないと思っている。
わが家に20年暮らしたネコは飼い始めの頃から「ニャー」と鳴くと「はい」と我々家族の誰かが返事をした。
何回鳴いても答える。
そうしているうちに両者のコミュニケーションが成り立って行った記憶がある。
口の堅いネコは誰にも言いつけないから安心して何でも話せる。
突然ヤギが「ジャー」とオシッコをし始めた。
持っていたカメラで記録した。
ヤギは訴えない。
セクハラでも盗撮でもない。
ヤギに前立腺があるかどうか知らないが元気を証明するような透明な尿を何の滞りもなく放出した。
川の反対側を引き返していると、先ほどの「ウチの」がルアーを川の中に放り込んでいた。