家訓は「遊」

幸せの瞬間を見逃さない今昔事件簿

講師は石亀美夜子さん

2014-07-25 08:44:24 | Weblog
「感じの良い話し方と聴き方」という題の講演だった。

1 相手に好感を持たれるポイント

2 感じの良い話し方のポイント

3 聞き上手のコツ(「聞く」から「聴く」へ)

なるほど、なるほどと拝聴した。

しかし私の今の生活環境で、どれほど重要になることなのだろうという極めて基本的で重い疑問を持っていた。

仕事を持たず妻と猫との暮らし。

好感を持たれるような話し方をする機会は、ほぼない。

先日人の前で喋る機会はあったが4人目の親を送る喪主としての挨拶なので、それももうない。

何か他人事のような聞き方になった。

そんな講師でも聞き取りづらい時もあり、そんな時の講師の言い直しは、さすがに真似すべきものだと感じた。

講演の最後に隣の人と「トレーニング」があった。

隣は80歳すぎのおばあちゃん。

「それでは隣の人と手をつないでください」と講師が言う。

すかさずおばあちゃんは私の手をにぎる。

私のボールペンを掴んでいる右手はおばあちゃんの握手で抜けなくなった。

周りを見ると手を握っている人はいない。

しばらく、そのままにしていたが合図がないので私の独断で手を引っ込めた。

「うーん。まじめな年寄りだな」と感じた。

おばあちゃんが喋り私が聴き役をするという役割になった。

「今年の正月3日に夫が、食べた物を喉に詰まらせて救急搬送され医療センターに入院した。その後1ヶ月ほどで近所の病院に転院した。病人であっても元気だ。半月ほど経ってから寿司ネタの生ものだけ「ポロ」っと吐き出した。それまでちゃんと話もできていたのだが」という内容だった。

初めは聴き役である私が聴かないふりをするというものだ。

おばあちゃんは私に気を使って「すみません面白くない話で」という。

「いやいや、そういう設定ですからね」と私がルール説明をする。

次に私が、きちんと聴き相づちや、うなずきをしても良いというルールに戻す。

自分の相手の話を聞く態度が、はっきり分かった。

聴かないフリをしていると、その時間の、いやその苦痛の長いこと。

いつものような聴き方で良いのだと痛感した。

会が終わり会場を去る時おばあちゃんが私を見ていた。

ちゃんと挨拶はしてきたが、それでも私に失礼してしまったという顔をしていた。

次に、もしまた会場で出会ったら、ご主人の様子を聞いてみようと思っている。




モリアオガエル2014

2014-07-13 07:32:34 | Weblog
今年のモリアオガエルは去年と同じ水鉢に産み付けた。

同じ鉢だが場所は違う。

去年は鉢の内側だった。

そのまま推移すれば確実にオタマジャクシは水の中に落ちる。

と、親モリアオガエルは考えたに違いない。

確かに、その考え方は間違っていない。

ところが現実は全滅だった。

雨が降らず、乾燥した日が続き泡状の卵は干からびてしまった。

ここまでは想定していなかっただろう。

今年は、こともあろうに鉢の外側に産み付けた。

たとえ雨が降って乾燥を免れても落ちていく先は地面だ。

まったく発見者として一言親カエルに文句を言ってやりたい気持ちだ。

「責任者出てこーい」

結局、見るに忍びずシャベルですくい取って別の水鉢に移してやった。

「メダカの餌をあげてね。パクパク食べるから」

妻から新たな仕事の言いつけがあった。





立ち直る

2014-07-09 07:27:24 | Weblog
「立ち直る」

これは忘れることなのか?

忘れることと忘れないようにすることが頭の中で闘っている。

涙の出なくなることを望むが涙も出ない自分になっていくのが嫌だ。

大切な宝物のひとつであった。

子供は、たくましく育っていくが年寄りは、ひ弱になっていく。

それなりの対応をしていたが、とうとう失ってしまった。

塞ぎ込むのは母も望んでいない。

そんなことは百も承知している。

ただ脳と体が一致しないのだ。

食べれるし眠れる。

衰弱していくことはない。

昨日は社会に生きていた痕跡を消しに区役所に行ってきた。

父の墓石に母の名前を彫るように依頼した。

別の世界に入ったのだ。

涙が出やすいことを避けるのが上手になった。