家訓は「遊」

幸せの瞬間を見逃さない今昔事件簿

餅つき

2005-12-31 11:07:29 | Weblog
友人宅で餅つきを体験してきた。

餅つきというと ペッタン ペッタン 搗いている情景が思い浮かぶ。がしかし、そこまでに至るまでが難しいのだと分かった。

まずは蒸しあがったもち米を臼の中にあける。
セイロの形に固まったままのもち米を杵を使って潰していく。ここがむずかしい。
この作業は私がやると、もち米が杵にくっ付いてきてしまって、どうにもならなくなってしまう。またその場に居た力自慢がやってもうまくできなかった。
「腰が入っていない」状態なのだ。ところが名人がやると流石もち米はみるみる餅に変化していく。

結局「杵を持ち上げて下ろす」という単純作業をやらせてもらった。
返し手が餅を畳むようにして上手に臼の真ん中に寄せる。
私は、ただ杵を下ろせば良いだけであった。
しかし本来なら杵を担当した人にも何かしらのコツがあるのだろう。

出来立ての餅をちぎって大根おろしの入った大皿に入れたり、きな粉や納豆の皿に入れる。
餅は左手の親指と人差し指の中に入れて大きさを決めて切る。3個も切ると掌にくっつき始めるのでぬるま湯の中に掌を入れる。米がこんなに接着力を持つものだということを忘れていた。

搗き立ての餅は、とにかく旨い。とりわけ大根おろしとの相性は素晴らしい。

年の瀬を伝統的な餅つきで終われたことを嬉しく思う。
昔から、こうやってこの1年の健康や実りに感謝してきたのだ。
この1年ありがとうございました。

軽トラデエド

2005-12-29 11:14:15 | Weblog
軽トラックで東京に行ってきた。
友人KU氏のお手伝いだ。
KU氏は顔が広く東京の某放送局で使用していたテレコをいただけるということになった。ただし、そのテレコはプロ用のため一台が机ほどの大きさがある。当初私の乗用車で行くものだと思っていたのだがKU氏の軽トラで行くことになったのだ。
東名で事故渋滞があったが約束の13時には目的地に到着できた。
出発時刻、バイパスと高速道路の利用、トイレ休憩の長さ、すべてが正解だった。
某放送局で荷物を積み込んだ。プロ用テレコ2台。金額にして約300万円。
KU氏はお礼を述べて「みかん1箱」を渡した。
「いやぁ、ありがとうございます」と放送局関係者
プロ用テレコ2台=みかん1箱
という計算式が成り立った瞬間であった。
「あれぇ、パンクしているぞ」左後輪が仕事放棄していた。
手際よくタイヤ交換を済ませ帰路に着いた。
東京という街は活気にあふれ高級外車があちこちに見られる。
ランボルギーニ、フェラーリ、ロールスロイス。
わが街にも走っているベンツが実はAMGだったり、VR6のマーク(つまり6気筒)モデルだったりする。
KU氏は車に全く興味がなく私の説明を聞いて
「へーぇ、そんなにすごいの?」と上の空で答えながら、のんびり発進のんびり走行を繰り返した。
私は、そんなマイペースなKU氏が誇らしかった。私なら東京風運転をしてしまいそうだからだ。
しかし直進するとすぐに首都高速の橋脚があり
「左か右か?はいっ決めてっ!」というような二者択一を迫られる場面では「そこ右!」というような私の指図がありがたかったようだ。
遅い昼食をとるために港北サービスエリアに入った。
KU氏は積んできていたガソリンを手動ポンプで注入し始めた。隣に駐車した男性が降りてきてドアロックを確かめてから去っていった。
こんなところでガソリンを注入している人物をほとんど見かけないし、軽トラックの荷台で色違いの毛布に包まれている物体やら我々の風体などを総合判断して
「泥棒、浮浪者」など、良からぬことばかりが浮かんだに違いない。
真っ暗になってKU氏の自宅に無事プロ用テレコ2台を下ろし終えた。
私は軽い虚脱感と狭い助手席での固まった姿勢に疲労を感じていた。
しかしKU氏は往復運転にもめげず、ダッシュボードに乗せてあるみかんを剥いては口の中に放り込み話をする。信号で止まるとエンジンを切り魔法瓶に入れてきた、ぬるい麦茶を魔法瓶の蓋に注いで呑む。
「青だよ。走って」という私の掛け声がなければ話しこむ。
その後我が家で夕食を共にし私の疲労は増し彼は益々元気になって分かれた。
私と彼とのいろいろな違いが我々をお互いに惹きつけてきたのであろう。


今年の10大事件

2005-12-26 10:41:10 | Weblog
今年の10大事件というものを毎年考えることにしている。出会った人物、事故、事件、食べ物、飲み物、音楽、健康、環境、などなど考えられるあらゆるものを列挙しておいて、その中から10を選ぶ。
1位は妻の母親の死であった。3月に進行性のガンを告知され11月末に逝去した。
時間的にも長かったので、いろいろなことを考え、いろいろな人に会い、いろいろ準備をした。病気や死が私に教えてくれることは極めて多い。真剣に行動した時間が長いので後には充足感が残る。拘束されて減ってしまった自分の時間を考慮に入れても尚満足している。それこそが死んでいった義母の最期の望みでもあったような気がしている。

麿君の外出

2005-12-24 11:34:20 | Weblog


平成10年9月19日
初めて我が家にやってきた虎柄の子猫が「麿」という名を付けられ一緒に生活することになった。

同年10月28日水曜日
暴走族風の車に撥ねられてから一切外出しなくなった。
それからは2階ベランダから下を覗き込み通りかかる猫に呼びかける程度が外の世界とのわずかな繋がりであった。たまに玄関から出るときには決まって動物病院に行くときであって麿君にとっては、最悪の外出であった。

そして平成17年11月25日(金) 事件は起きた
私の膝にいた麿君がポトンと降りて部屋を出て行った。
すると玄関ドアの施錠を外す音がした。「ガシャン」という音で私は妻が帰宅したことを知ったのだが麿君は、その前から妻が帰ったことを察知していた。
玄関に入ってくるなり妻の声が聞こえた。誰かと携帯電話で話をしていた。
しばらくすると今度は隣の部屋の固定電話で喋っている声が聞こえた。
私はパソコンに集中していた。
裏庭で「チャリン」という金属音が聞こえた。風で何かが落ちたのではなく誰かがいるという気配を感じた。
私はカーテンをサッと開けサッシをガラガラと開けた。この頃の5時過ぎはもう夜のように暗い。体を少し出すとセンサーライトが瞬間に点いた。猫が通っていた。猫のほうも驚き私を見上げた。
何と「麿君」だった。
私は驚いたがすぐに納得できた。妻が帰宅して玄関ドアを開け放したまま電話に夢中になっていた、その時出てしまったのだ。
隣の部屋で電話している妻のところに行き
「電話を切れ」という合図をした。
妻は私の形相から緊急事態を察して、すぐに話を切り上げた。
「麿君が外にいるぞ。玄関で電話しているときに逃げたのだ」と言うと
「えぇ」と驚き、すぐに自分の落ち度に気付いて「ごめんね」と言った。
捜索のため私は裏口から妻は玄関から外に出た。
ほどなく裏庭で麿君を見つけた。私が呼んでも全く帰って来ようとしない。一歩近づいてみた。その時庭に置いてある植木鉢に足が触れ大きな音を立てた。すると麿君は、その音に驚いて逃げた。しかしそちらの方向には妻がいる。妻も麿君の姿を確認し「麿君麿君」と呼んでいる。
私が更に近づこうとすると妻の側に逃げる。これはちょうど良いと思いもう少し接近した。
妻が捕らえたかなと思ったのだが、「いなくなっちゃった」という言葉が聞こえた。
「何やってんだよ」と私は激高して言った。

私は一旦家に戻り懐中電灯を2個持って出た。妻に一つを渡しふた手に分かれて探そうと言った。
まず私は一軒置いて隣のアパートの敷地に入った。
居た。麿君は私に「ニャー」と、か細い声で鳴く。姿を確かめようと懐中電灯で照らすと、その光が怖いらしく逃げていってしまう。それではと直接照らすのを止めた。
「おいで。麿君おいで」などと言いながら近づいた。しかし私の姿すら怖くてブロック塀に飛び上がり次の瞬間別の家の敷地に降りてしまった。瞬間に見た麿君の尻尾が太くボサボサになっていた。そうとう恐怖の状態であることが見て取れた。
降りてからは不安になったらしく「アーオ。アーオ」と鳴いた。その寂しげな鳴き声は麿君の居場所を示している。
すかさず妻に電話をかける。呼び出し音はなるが、しかしなぜか妻は応答しない。
代わりに「電源が入っていないか電波の届かない場所に・・・・・・」などと余計に逆上したくなるメッセージが私の耳に入れられた。

麿君が入りこんだ家の玄関側に妻の灯す懐中電灯の光が見えた。
「おおい。ここだよ。ここに居るよ」と妻に大声で伝えた。もはや近所迷惑を顧みず焦りのままに行動した。
妻は、その家の住民に断わり猫捜索の承諾をもらった。その家の夫婦も出てきて裏に居た私と話をする。できるだけ繊細に探したい私たちとは裏腹に、その家の主は
裏に通じる空き地に放置してあるゴミなどの言い訳を言いつつ、且つそれらを音を立てながら無造作にどけつつやって来た。そして「ここから追えばあっちに出るかな?」と言う。もうそんなことを言っているうちに麿君は充分に追われた気持ちになり、そのまた隣の家に入り込んで行った。

麿君の姿を見失った妻が私の近くにやってきた。
「おい電話に出ろよ」と言うと、すぐに「はい分かりました」と言う。
二人で話していたところにアパートの住人が自転車で帰宅した。
わけを話して敷地に入ることの追認を受けた。
妻はその住人と一緒に探し始め私は、さきほど妻が居たところに移った。ちょうど夫婦が入れ替わったような形になった。
「ああ大変シロが襲い掛かる」という妻の声が聞こえた。
見ると近所の家の飼い猫のシロが麿君を追い詰めていた。先ほど不安げに鳴いた麿君の声が期せずして他の猫を集めてしまう結果になったのだ。

シロは麿君と同い年の猫で小さい頃は一緒に遊んだ仲間である。麿君は家から全く外出しない猫となったがシロは従来の飼い猫のように、ある家に帰属するが外での行動は全く規制されないという生活をしていた。その結果、シロはこの辺りのボス的な存在になり広範なテリトリーを徘徊する毎日であった。
そのシロがかつての友達を威嚇している。かつては麿君がリーダー的に遊んでいたが今や形勢は全く逆転していた。

私は、その家の住人に、ことをかいつまんで説明し裏に入らせてもらった。
「ウワーオゥ。ファーッ」「イャァオウ  ワーオゥ」「ファーッ」などと不気味な声の響き渡る闇の通路、私が入っていくと依然として睨み合い威嚇の声を掛け合っていた2匹の猫は動きを見せた。通路に居た麿君が逃げたのだ。そこへブロック塀の上をゆっくり歩いていたシロが襲い掛かり2匹が一体となってグルグルと回りながら場所を移した。私もすぐに向きを変えて走っていった。その家の玄関先に停めてある車の下で再び睨み合っている。車のバンパーの下にシロの姿が見えた。私は走っていって思い切り蹴り上げた。しかし、そこは猫。私の蹴りなどが当たるはずも無かった。
次の瞬間「フギャー」という声と共に2匹が分かれた。車の下から出て行くシロの姿が見えた。悠々とした足どりで自宅の方向に戻っていく。尻尾が相変わらずホワンホワンと上下に揺れる。
私はシロがとても憎くかった。運動神経も悪く木にも登れないし足も遅い。そんな猫失格のような奴が・・・・・。数々の喧嘩に因って片耳が折れ曲がり、片足をひきずり、体に対してアンバランスに見えるほどの大きな顔にはギョロリと光るふてぶてしい小さな眼がある。この7年間の過ごし方の違いが体形や行動となって如実に現れていた。
それは人間界でも、どうしようもない奴が全くの善良な市民を理不尽に襲うようなケースにも思われた。
シロが去って言った後麿君の行方は全く分からなくなった。シロに追いやられたため、もうこの近くには居ないかもしれないと思い捜索範囲を広げた。しかし隣接する住宅地を探してみたが見つからない。

冷静に考えてみれば夜猫を探そうとすることが無理なのだと気づいた。もし仮に見つかったとしても呼びかけに応じてくれまい。また逃げていってしまうだろう。先ほども私の姿が怖かったのだから、シロに威嚇された今はもっと恐怖感が増しているに違いない。

私は妻に「家に帰って待とう」と言った。
麿君が帰って来たくなるのを待つしかない。

裏口を開けたまま、できるだけ我々の常の生活のように話し声を聞かせようという作戦にした。妻は麿君の餌の入っている容器を持ってきた。容器を振るとカリンカリンとキャットフードの音がする。

妻が「玄関に猫の声がする」と言った。私には聞こえなかったが私は裏口から探してみようと思い裏口からでようとした。すると麿君が居た。
「麿君」と声を掛けるとササッと逃げてしまう。
玄関に居る妻を呼び戻した。
「裏に麿君が居るのだけど呼ぶと逃げてしまうから」と言うと妻は顔を見せずに部屋の中で「麿君。おいで」と餌の容器を振った。
しばらくして妻が裏口からそーっと覗くと、家の中に入りたいけど怒られてしかたなく外に居る、というような姿の麿君を見つけた。できるだけ刺激の少ない声で
「マーロ君。さぁ、おいで。いい子だね」とやると、すっと家の中に入ってきた。
あわてず窓を閉めて一件落着。17:15~18:30までの7年ぶりの外出であった。

戻ってきた麿君の体を雑巾で拭きながら怪我は無いかと探した。私が麿君の体を支え妻が体を拭いていく。その時私のズボンとシャツに麿君の放出物がかかった。水様便のような物で猛烈に臭い。また体の毛がまとまって抜けている。帰宅してもまだなお興奮していることが分かった。
幸い怪我は全く無かった。シロから喰らった一撃も、たいしたことはなかったようだ。

落ち着いてから考えた。
捜索している間私はパニックしている妻が腹立たしくてしかたがなかった。麿君を自分の不注意で逃がしてしまった上にケータイもマナーモードにしていたことを忘れていて、私からの連絡が全く届かず連係プレーができなかった。誰にでも不注意はあることだが、その後の処置如何で失ったものの回復が可能なことは多い。このように不注意に不注意を重ねることは問題を大きく複雑にしていってしまう。
しかし逃がしてしまったことを素直に認め、さらに反省しながら探している妻を罵倒することはできなかった。逃がしてしまっていちばん辛いのは妻なのだろうから。
「こんな時こそ、しっかりしてくれよ」とは大声で言ったが「馬鹿ヤロウ!」のような言葉は浴びせなかった。正直、浴びせて私のストレスをぶつけたかった。私にも麿君は掛買いの無い存在なのだ。

また今危篤状態の妻の母親が麿君を連れて行ってしまうのか、とも考えた。
交通事故に合わせるなり猫同士喧嘩をさせることによって麿君の命を奪ってしまう。
妻の母親は常に感情的に行動するタイプで、しかも自分の失敗は、いつも他人のせいにしてきていた。特に身近に居た妻に対しては、ひどかった。今死の瀬戸際に居て妻の大切にしているものを奪い去り妻の涙を見てからあの世に行くのかと。
だがそれも私の思い過ごしであったようだ。3日後の11月28日午前9時15分妻の母親は静かに息を引き取った。

シロが麿君を攻撃したが全く怪我をさせていないし深追いもしなかった。結局それはシロの挨拶程度のものだったのかもしれない。人間には猫同士の喧嘩にしか見えないが、その実お互いの演技であったのかもしれない。
妻はその夜下痢をした。何年ぶりかだという。麿君が戻った段階でお腹がゴロゴロとなったという。その後も立て続けに4回トイレに駆け込んだ。やはり精神的にかなりのショックがあったのだろう。
私の怒鳴り声が原因だと後日妻は証言した。

数日たった現在でも麿君の異常さは完全には直っていない。
隙あらば逃げ出そうという姿勢が見られる。
玄関が開く瞬間を良く知っていて、玄関の隅で待っている。幼い子たちがピアノのレッスンに来たときには最大のチャンスが到来する。
危険極まりないので、そんなときには麿君を2階に連れて行き下に下りて来られないように扉をロックしておく。
1時間ちょっとの外出が7年ぶりに外界と接触して、それはそれは目眩めく感覚を覚えたに違いない。危険というのは一面甘い誘惑なのは猫も人間もかわりはないのだろう。

妻の下痢も治り私の膝でトロトロとまどろむ麿君を見るにつけ不意に起きた麿君外出事件が最も良い方向で終息したことに感謝し、この家族に、今まで以上に幸せを感じている。 



ビートルズ

2005-12-22 10:50:34 | Weblog
ビートルズ

昨日義母が生前お世話になっていた病院を訪れた。
当然義母はもう入院していない。
義母が入院している時に他の患者さんとの友情が育まれ、その人物KW氏に会いに行ったのだ。
KW氏はパーキンソン病を患っている。
何かを考えたり何かをしようとする時身体が大きく揺れてしまって自分自身では制御できなくなってしまう。脳内物質がそうさせるのだ。だから私の姿を見つけベッドから車椅子に移ろうとするとき、激しく身体が反応してしまってベッドから落ちそうになってしまう。また車椅子で落ち着いて話をしていても時として大きくのけ反ったり、また頭が左右に振れて車椅子全体が揺れてしまうこともある。
最近は私のほうが症状に慣れてきて揺れているのを見ても、あまり大げさに心配したり気遣うことを止めている。そのほうが本人にとっても楽なようなのだ。
KW氏は義母が危篤のとき
「もしお母さんが亡くなったらもう来なくなるよね。俺、友達居ないもんでね」
と寂しそうに尋ねた。
「いや、KW氏に会いに来るよ」と私は答えた。
実際義母が亡くなった後も病院には挨拶に訪れたり事務手続きに訪れたりしていた。
先日KW氏を訪ねたときに驚いたことがあった。
KW氏は趣味でクレヨン画を描いている。揺れる身体を何とかだまして描き続けている。私も数点いただいたことがある。稚拙ではあるが魅力のある作品も多い。
その絵が、とても暗かったのだ。
「これはね、夜だよ」と言う。夜の景色の中に人物らしきものが描かれている。
今まで動物や植物あるいは病室から見た景色などを描いていたのだが、いずれも
明るい絵ばかりであったのだ。
咄嗟にKW氏の心が今とても暗い気分になっているのでは、と感じた。
これは何とかしてあげたいなと思った。
以前KW氏からビートルズが好きだと聞いたことがある。
彼はまだ66歳。こよなく音楽を愛する人間の一人だ。
この病院の室内スピーカーで以前は音楽を流していたという。たまにビートルズがかかると天井に埋め込まれたスピーカーの真下に移動して聞き入っていたという。
だが病院では、このところ全く音楽をかけなくなってしまっていた。
私にとって音楽無しの生活は考えられない。好きな時に好きな音楽を聴くことができる。この自由を奪われたら生きていく価値を大きく失ってしまう。それほど音楽というものが私自身の身体や精神に影響を与えている。普段当たり前のように音楽を聴いていた私は、それを奪われたらなどと考えてもみなかったのだ。
KW氏の話を聞いて愕然とした。
義母の葬儀の残務処理に忙しく動いていたときジャスコで980円のラジオを見つけた。AMのみならずFMも聴ける。
「これだ」と直感してすぐにラジオと乾電池を購入した。
今日はそれをKW氏に渡した。
パッケージから本体を取り出して乾電池を装着しスイッチを入れてみた。
鳴った。ちゃんとFMNHKが入った。とりあえず、これで好きなときに音楽は手に入れることができる。
KW氏は嬉しさのあまり身体が大きく揺れて横腹が車椅子に当たってガッシャンガッシャンと音を立てた。おもちゃをもらった子どものような笑顔でスイッチの切り替えやらボリュームの調整をしていた。
私は今までのように毎週定期的に病院を訪れるというわけにはいかない。しかしこのラジオで少しは今までに無かった安らぎを受けられるようになったと思う。
今後もKW氏は私の友人である。病院に行けば必ず会える友人である。


墓参り

2005-12-20 13:27:23 | Weblog
義父が亡くなって丸々9年が経過した。今日はその命日。義父の家に咲いていた黒っぽい赤色の菊を摘んでいって供えた。

墓にお礼を言った。

前回の墓参りのとき義母が病床で苦しんでいたため
「おじいちゃん 早く連れに来て上げて」と頼んだところ
義母は、その翌日召されていった。
きっと、おじいちゃんが連れに来てくれたのだ、と信心の無い私でも思った。

今頃あの世では義母を迎えて、たいへんなことになっているのであろう。
元々夫婦仲が悪かったから。
おじいちゃんの大好きだった犬と二人で気楽にしていた所に再び義母が入っていったのだ。9年間の犬との楽しい生活も終わりを告げて・・・・・。
と勝手にあの世でも、もう一度同じ人同士が夫婦になるみたいに想像してしまったけど、それでは困る人達のほうが多いのではないかな。
私は同じ人(今の妻)で満足なのだけど。

昨日までの寒さとは打って変わって今日は暖かい墓参り日和であった。
墓苑管理事務所に寄って納骨について聞いてきた。
書類さえ提出すれば勝手に納骨してもよいという。
来春の良い日に納骨しよう。
また暖かい日になってくれると良いが。

泣いた

2005-12-19 16:43:29 | Weblog
今年私の書いた文章で数人が泣いた。

ジャズライブの感想文を主催者に読んでもらった。
主催者が泣いた。

義母の世話をしてくれた病院に感謝を込めて挨拶文を送った。
介護師が泣いた。

義母の葬式で読んだ「送る言葉」を出席出来なかった人達に送った。
泣きながら電話をかけてきた。

ありがたくて私も泣いた。