家訓は「遊」

幸せの瞬間を見逃さない今昔事件簿

ナタのサヤ

2017-02-17 08:58:22 | Weblog
いつも使っているノコギリのキレが悪くなった。

ちょうど10年を経過したところだ。

目立てをしてもらえば、またしばらく使えるのだろうが思い切って取り替えることにした。

これまでのノコギリは刃の巾が広いので細かな部分に刃先が入らなかった。

例えば三つ又になっている枝の真ん中を切るということができなかった。

だから今度は刃先の細いものにすることにした。

その分刃全体の厚みは増える。

購入したのは替刃式のノコギリだ。

それには専用のサヤが付いている。

で新しくナタのサヤを作ることにした。

いつも兼帯というナタとノコギリのセットを持ち歩いていたが、これからはサヤは別にした。

といっても同時に持ち歩くのは今までと同じだ。

2枚の合板を、間に割り箸のような棒をはさんでボンドで貼り付ける。

すぐに出来上がったが「カッコ悪い」。

で、これはやめた。

以前たくさん在った杉の木の薪を使おうと思ったのだが地面に置いておいたものだから半分腐って土になりかけていた。

それでもと思って割ってみたらアリの大群が出てきて卵だらけだった。

「それでは」と杭にしてあった木を引っこ抜いて割ってみた。

「よっしゃ」これで作ることにした。

割った木を半分にしてナタの型で中をくり抜く。

出来上がったらボンドで貼り付ける。

すると、どこが割れていたかが全くわからないように元通りになった。

でもこれだけでは使えない。

ガサガサでトゲが刺さりそうな肌をきれいにサンドペーパーでこすり仕上げにエゴマの油を塗った。

ベルトに通して使うからベルト通しを裏側に付けた。

これで完成だ。

使い勝手は使ってみないとわからない。

だけど作ったのは中身じゃなくてサヤだけだから問題はないはずさ。






富士山も南アルプスも見えた

2017-02-13 16:23:09 | Weblog
海鮮料理を食べて刺身を残すなんてこと考えられない。

だが毎回この事実は起きてしまう。

タイとヒラメが舟盛りで出てくる。

舟にはアワビもサザエも刺身で乗船している。

舟以外にはイセエビ カニ ナマコ イカ刺し などがテーブル狭しと並ぶ。

ビールで乾杯したあとには金目鯛の煮付けが出てきて日本酒の熱燗を飲んでいると「さあ、これから食べてね」と言ってカサゴのフライあん掛けが出てくる。

もう食べるのに忙しくて飲むことを忘れるほどだ。

男7名で食べたにもかかわらず今年も残ってしまった。

という竜宮城状態の翌朝西伊豆を走っていると富士山も南アルプスもはっきり見えた。

青い海の上に陸地があり雪を頂いた富士山や南アルプスの山々が空の下に連なって見える。

我が国土が、いかに美しい姿をしているのかが、はっきり実感できた。

近すぎて見えない景色は、ちょうど良い距離を置くと、こんなにも感動できるものなのだ。

いったい何度この道を走ったことか。

なのに今まで見たこともない美しさなのだ。

昨日の竜宮城にはいつも声かけしてくれる中心人物が欠席した。

彼は昨年12月に突然先立ってしまった。

こうして集まった友人たちと一緒にいると気が楽になり当然冗談も飛び出す。

彼と一対一では、まだ癒されていない部分が鮮血を滴らせそうだ。

一対全員なら怖くない。

この鮮明な富士山を彼に見せたいと思わない。

なぜならこの景色は彼からの贈り物に思えるからだ。

松崎にある山の家という野天風呂に入った。

熱めの湯は湯船に入ると一瞬にして癒しの温度に変わる。

「ああー」と口から流れ出る。

空は青く小鳥たちが逆光で黒く見える枝の間を飛び回る。

皮膚から浸透してくる何ものかが我が身の深部にまではびこっていた何ものかを追い出す。

自宅の風呂では出て行かない何ものかが、この露天では簡単に出て行く。

楽しいという掛け替えのない幸せは辛さ悲しさを乗り越えさせる仲間によって強く生み出される。

あの人恋しい彼は、この喜びを常に浴びていたかった。

その人恋しい彼に連れて行かれないように帰路は安全第一で走った。

ひょっとしたら、この考え方これも彼の贈り物かも知れないなぁ。

山へ柴刈りに

2017-02-10 07:44:03 | Weblog
爺さんは山へ柴刈りに行くことは昔から。

薪については充分な量がある。

火口として使っている枯れた杉の葉も余っている。

炉の中に火がついてから薪に火を移すまでの肝心な部分を担うための柴刈りだ。

私はコナラの枯れ枝を使っている。

枯れるといっても芯まで枯れていると、まるで紙で作ってあるかのような状態になっている。

これに近い状態のコナラがたいへん役に立つ。

火付きはいいし、火持ちもいい。

そして火力も強いのだ。

これを求めてコナラの山を歩く。

昔は背負子というもので集めてきた。

私は現代版背負子で行う。

それはフレームが軽くて丈夫なアルミで出来ている。

まず試しに生きた木を荷台に乗せて背負ってみた。

重くて起き上がれない。

下で見ていた妻が「危ないからやめな。傾いているよ」と大声で警鐘を鳴らす。

たしかに荷台の木のしばり方が下手で偏ってしまっていた。

それならば、と今度はミカンのコンテナを括りつけてみた。

これなら偏りは少ないはずだ。

コンテナに入れるときに重さが偏らないように気を使って入れていく。

コンテナは3個あるので3個とも持っていった。

そんなに時間がかかることもなくそれぞれイッパイになった。

一番下のコンテナは背負子と固定してある。

上の二つは乗せたあとにゴムひもでしばる。

背負いやすいように切り株の上に背負子を乗せて低い場所から背負ってみる。

「あっ危ない」 転んだ。

幸い坂から転げ落ちたのは中に入れてあった内の一部のものだけ。

背負子を立て直し落ちた荷物を元に戻して再挑戦した。

「よし。今度は持てた」

歩き始めるがヨタヨタする。

自分の頭より上にコンテナがあり重心が高すぎるのだ。

いくら軽いものとはいえ数が多ければ重くなる。

後ろに重心がかかると後ろ向きに倒れる気がするので少し前かがみになって歩く。

坂を下りるのにスリルがあった。

舗装路を歩くわけではないのだ。

だがこれだけの量があれば10回分以上あるはず。

背負子に山ほどの枯れ枝を付けて歩く爺さんの姿のイメージがある。

昔の人は凄かったのだなと実感した。