家訓は「遊」

幸せの瞬間を見逃さない今昔事件簿

11日ぶりの春野

2010-10-28 07:35:52 | Weblog

16日に行ったきり11日ぶりの春野だった。


1週間行かなかったことはあるが10日空けることはなかった。


「春野に行きたい」という気持ちが募っていた。


これをしなければいけない、という仕事はない。


ただやたらと春野に行きたいのだ。


あまりにも行きたい気持ちが強くて


「これは愛だ、いや恋だ」


と思ったほどだ。


春野に着くと草は伸びているし落ち葉は溜まっている。


のんびりやればよい仕事がたくさんある。


魚にエサをくれて所有地を点検してまわる。


Y爺さんが来て「久しぶりじゃないか」と積もる話をした。


続いてNさんが通りかかりY爺さんは去り今度はそちらと長話。


彼らも待っていてくれるのだ。


二人とも私の車がないと寂しいとまで言ってくれる。


私のシアワセ感に彼らが人のぬくもりを上乗せしてくれた。


腰痛で少し横になっていたが地下足袋を掃きサルスベリの折れた枝をノコギリで切り落とした。


すると元気が出てきて腰痛が嘘のように治っていった。


愛の相手も恋の相手も春野であれば妻公認だ。

 


かぐや幻想

2010-10-24 10:09:23 | Weblog

臨済宗方広寺派の寺に私の父方も母方も墓がある。


その大本山方広寺でコンサートがあった。


「観月の夕べ 音詩劇 かぐや幻想」である。


その作曲を担当した鳥山妙子さんからお誘いを受けた。


グッと気温の低い境内を歩いていくと今夜の会場である本堂が現われた。


「ここが会場か」と思っていると後の鐘楼で「ゴーン」と腹に響く音が鳴った。


弁当を受け取って本堂に移動した。


早めの夕食をとっていると800名の聴衆が集まり外も暗くなって、いよいよ始まった。


大井際断管長(大正4年2月26日生まれ 95歳)の挨拶があった。


「はい」と、とてつもなく大きな声で始まった。


意表を突かれた大声と内容に他の来賓たちの挨拶の印象は消えてしまった。


劇は竹取物語のうち月に帰っていくあたりのシーンが主だった。


開け放たれた本堂から見える夜の空。


空から吹き降ろす冷たい風に逆らって本堂で繰り広げられる劇や音が月に向かって駆け上がっていく。


月と本堂との交流だ。


琴の調べは空の寒さを教えてくれた。


私の想像もピアノの鍵盤に乗って月に上った。


衣装や照明また本堂の外に設えたスクリーンのおかげで「かぐや幻想」にのめり込むことが出来た。


不安 喜び 宇宙の広がりなどを直接感じられるのは鳥山さんの音 音楽に拠るころが大きい。


過ぎてみれば彼女の思い通りに操られた感はあるが、それは違和感の全くないものだった。


おとぎの世界なのに臨場感を持つことが出来た。


帰り道に置かれていた発電機付きの大きな電灯。


工事現場と同じ物が、それすら幻想的に見えてきた。


味気ない蛍光灯に照らされた500羅漢が、やさしく我々を見送りしてくれる。


山門を出る頃には身体も暖まり現実の世界に戻った気がした。

 


遠州横須賀街道ちっちゃな文化展

2010-10-23 08:40:18 | Weblog

遠州横須賀街道ちっちゃな文化展に行ってきた。


毎年顔を出している。


ほぼ変わらぬ町並みと少し変わる出品者。


変わらぬところに安らぎがあり変わるところに目新しさを感じる。


熱くも寒くもないこの時期、古い町並みをゆっくり歩くのは気持ちが良い。


気になった展示場にブラリと入り作家に話を聴く。


また次の展示会場に移る。


朽ち果てそうな民家や、さぞかしオダイサマ(大金持ち)だったのであろう家、また寺が展示場に早変わりしている。


そんな町全体が参加しての文化展だ。


いつもは普通の町が、このときだけは作家と客を主人公にしてくれる。


開け放ってくれているから誤って展示していない民家に入りそうになった。


そんなのどかな時間と空間が私を含めた年配者には、ちょうど良い。


麩菓子製造所で作りたての麩菓子を購入した。


奥では現在製造中だ。


製造しているところが見られるのも嬉しい。


ここは有名な店とみえて近所を行きかう人々が皆大小の麩菓子の袋を持って歩いている。


それが客寄せに一役買って再び客を呼び込むようだ。


妻も二組から麩菓子の売り場を聞かれていた。


新宿や渋谷の歩行者天国とは違って人の多さに辟易することもなくマイペースで楽しむことが出来る。


去年あまり元気じゃなかった出品者が今年は元気良く自転車に乗っていた。


それも毎年顔を出す私の喜びだ。


屋台が立ち並ぶお祭り気分とは違って民家が、そのまま利用されているので自然な雰囲気がある。


町民もまた戸外で客の入りを眺めている。


最も楽しみにしているのは客でも出品者でもなく舞台を貸している町民のような気がした。


 


装幀家 菊地信義氏

2010-10-22 07:01:18 | Weblog

社会人大学の講師は 装幀家 菊地信義氏であった。


装幀というのは本の表紙のデザインのみならず、その本の特徴を表す総合的デザインともいえる。


文字 色彩 図像 素材 時間 空間そしてそれらのレイアウトということだ。


書店に置かれる書物が、まず人の目に触れる必要がある。


見つけた人が次に手にとって見る。


すると見るから触るに変化する。


そしてペラペラとページを繰ってみる。


本文に行き着くまでの時間で手にとった人の心に訴えかけて、その人を読者にしてしまう。


巧妙な作戦のうえに成り立つのが装幀なのだ。


視覚や触覚さらに時間的空間的演出によって人の心を獲得する。


本は本体より3ミリ大きく作られているのが世界標準である。


そこをも変えて本体を5ミリ縮めた。


つまり本文より8ミリも大きいわけだ。


武士が本を読むときに利用していた書見台をイメージしたという。


すると売れ行きがグッと良くなるものらしい。


菊地氏は早口でたくさん喋る。


決められた時間内に多くを語る必要があるからだ。


しかし余分な話は一切ない。


「この話は装幀に繋がりますからね」と言う時もある。


一瞬「無関係の話をし始めたのかな?」という我々の心も見抜いていてグングンと引っ張っていく。


時おりテーブルに当たり小指にはめた指輪の音がカンと鳴った。


装幀するのには勿論本を読まなくてはいけない。


それは膨大な数にのぼるであろう事は想像に難くない。


それらは、やはり菊池氏の装幀に役立つことになっている。


本は心(私)を作る道具だという。


装幀の要らない電子書籍は端末という機械を使う。


辞書を引くと、その端末という言葉の隣には断末魔という言葉が並んでいる。


端末は断末魔につながることをイメージする。


けだし言い得ているであろう。


 


市民公開コングレス

2010-10-21 08:05:36 | Weblog

「第3回都市・自治体連合アジア太平洋支部コングレス2010浜松」


というのが正式名称らしい。


浜松市長や静岡県知事も出るし、またソウル市の隣の城南市長も来るしオーストラリアから全豪地方自治体協会長も来る。


もう1人地元の経済界から鈴木修氏も出る。


それが入場無料で聴くことができるのだから私としては是非とも見聞を広めたいという思いで、のぞいてみたくなったのだ。


一般参加の受付で予めいただいた参加許可書を提出して資料と同時通訳機を受け取る。


ホール中央あたりで通路の角の席を確保した。


まわりは男も女も暗い色のスーツを着た人たちばかりだ。


私は、いつものようなジーンズに黄色のボタンダウンにジャンパー姿だ。


むしろ目立つ。


外国語でのスピーチを翻訳機を通した同時通訳で聴くということが目新しいことだった。


TVで二ヶ国語放送を左右のスピーカーを別言語で鳴らしているようだった。


内容は「お役所的」で片付けられそうなものだった。


時間的制約の中では、それしかないかとも思う。


私の隣は韓国のおねえちゃんだった。


隣に座った課長(カジャンニム)と喋っている。


英語で通訳を聞きメモを取っていた。


「チラッ」と見てみた。


「わけわからん」


読めるが人のメモなど見ても内容が分かるわけがなかった。


かわいい顔をしているのだが私に肘が当たっても平気だし遅刻はしてくるし課長は途中で出て行くし。


出入りの度に私は荷物を持って短い足を引っ込める。


だがその際何も言わない。


「カムサハムニダ」くらい言ってみろってんだ。


「はいね」って日本語で言うから。


川勝平太静岡県知事の話は面白かった。


原稿ナシなので同時通訳が訳し易いように、ゆっくりしゃべった。


内容は分かり易いうえに説得力にあふれ時間ピッタリに終わった。


「さすがー」と言いたくなった。


新聞では悪く書かれていたが鈴木修氏の話も面白かった。


ただ世界的な話ではなかったが。


こういう会は内容よりも集まることのほうが大切なのかもしれないと感じた。


外国の人たちがスピーチ中に歩いて写真を撮っているし出て行ってしまうし。


肌の色 着ている服 着けている香水 喋っている言語


目から耳から鼻まで、おまけにイラつく感覚まで外国を感じたから今日の出席は意義があった。


 


山本一樹展

2010-10-20 07:23:38 | Weblog

ギャラリーケイブ(http://www3.tokai.or.jp/cave/)で行われている「double coreのおひとり山本一樹氏と会った。


モーガンO氏の紹介で本来なら土日祭日しか開館していない、そのギャラリーを開
けてもらった。


山本氏も奥様もオートバイで駆けつけてくれた。


山本氏は静岡文化芸術大学で デザイン学部 生産造形学科の教授をされている。


ギャラリーでまず目に付いたのは柔らかな木を使っていると錯覚した作品だ。


「鉄です」と言われなければ木製だと思ってしまうほど見た目が柔らかい。


なだらかな曲線に錆の茶色、階段を下りていくと良い具合に朽ちかけたベンチがある。


木立の影が地面に広がる。


夢で思い描く「好きな場所」のようだ。


鉄板にミシン目が入っている。


紙ならミシン目を入れるためのローラーでカラカラと穴を空けてゆくのだが鉄の場合そうはいかない。


一つ一つドリルで空けていくしかない。


だが出来上がった鉄を見ると、
こことここを持ってビリビリと破けそうに見える。


まるで柔らかく軽やかで暖かい。


だが触ってみれば硬くて冷たい鉄だ。


鉄も別の命をもらったかのようで嬉しいであろう。


私も錆びた鉄が大好きだから話が面白いこと。


鉄の錆を出す液体や銅に緑青を浮かせる「秘伝のタレ」を持っているそうだ。


また武器や鎧(よろい)の活躍していた時代から鉄にウルシを塗ったり焼き付けたりしているそうだから、その歴史は長いらしい。


話は作品から車に移りオートバイになり修理から旅行からあっちに行きこっちに戻り。


山本氏も奥様も本当に飾らない気さくな人たちだった。


作品同様暖かく包容力に富み希望に満ちている。


笑いながらの楽しい時間は本当に短い。


残念ながら帰ってきた。


今度は、わが妻も交えてお会いしたいと思っている。


 


ジーンズとレギンス

2010-10-19 08:01:06 | Weblog

ここんとこ少し瘠せた気がする。


ジーンズも綿パンも下に押すと脱げてしまうからだ。


元々少し太目の物を穿いていたから極端に瘠せたわけではないが。


それでも不都合なのでイオンに行った。


安価なジーンズを買うためだ。


今まではウエスト82センチだった。


その下は79センチだ。


さっそく1本持って試着室に入った。


腿と腰のあたりが少し細い気はするがウエストはピッタリだ。


何せ880円だから迷わず購入した。


ウエスト79センチ レングス66センチ 


かなり小デブの短足なのだが、ちゃんとそのサイズも揃えてある。


そこがまた嬉しい。


以前だとウエストで合わせて買うから切り捨てる部分の多かったこと。


切り捨てられた筒状の布を2本もらっても使い道はない。


親戚関係で183センチという高身長もいるが彼は足が長すぎて合うパンツがないらしい。


そこへゆくと私は楽だ。


小は大を穿ける。


さて目当ての物を買った後ふと目に留まったレギンス。


これも坐骨神経痛と仲良く暮らさせてもらう私の必需品だ。


9部丈となっているから私には10部丈で丁度合うだろう。


足を冷やすイコール坐骨神経痛様のゴキゲンを損なうイコール激痛。


早めのパブロンじゃないが早めのレギンスで暖かく坐骨神経痛様をもてなそう。


こちらの値段は1280円。


ジーンズより400円も高いじゃないか。


MとLの2種類しかないし素材も大量生産可能な物だ。


ジーンズはサイズが豊富なのに安い。


このカラクリが分からん。


レーザーポインター

2010-10-18 07:30:38 | Weblog

レーザーポインターを使って吹矢で実験してみた。


レーザーポインターを吹矢の筒に留める装置は我が支部名人が担当してくれた。


筒とレーザーポインターが平行になって留められた。


的に対していつものように狙いを定める。


「ここならど真ん中」という場所でレーザーポインターの位置を見る。


すると左右には真ん中に在るが的の中心よりずいぶん上に位置している。


的を大きく逸脱して的の枠より20センチも上だ。


光の直進性からいって、筒とレーザーポインターの取り付け誤差を加味しても、ほぼ間違いなく的上20センチあたりを狙っている。


ところが発射された矢は真ん中に刺さる。


数人で試してみたが同じような結果が得られた。


それは矢が放物線を描いて落下するからだと思われる。


筒の向きが的の上ではあっても私の場合視覚的には的の下を狙っている。


その時の手の揺れが確実に緑の点の動きで示される。


ケッコウ揺れ続ける中で発射していることが分かった。


またその揺れは発射後に大きい。


発射時の体の動きと連動しているのだろう。


毎回同じような動きを見せる。


それが、その人の癖だ。


点数に表れない発射後の筒の動きが掴めた。


さて、この緑の点を的の真ん中に位置させて吹くと真ん中に当たるという調整をしてみたくなった。


それは自分の狙う位置で実際に示す緑の点をずらせばいいのだから可能だ。


それを次の課題にして楽しもうと思う。


狙いが固定されていても真ん中に矢が刺さらなかった場合は吹き方に問題があるということだ。


科学的と言えるのかどうか。


伊賀者や甲賀者の忍者たちは、どのようにして正確に的に的中させたのだろうか。


5分間の花火

2010-10-17 08:48:46 | Weblog

今年も春野のお祭りがあった。


地元民ではないが春野を愛する者として春野に感謝を込めてお祭りの寄付だけはさせてもらっている。


日が落ちると急に気温が下がった。


半袖から長袖に着替えた。


お囃子が聞こえてきた。


我が家の対岸の362号線に屋台の灯りが見えた。


ゆっくり移動しながらも威勢のよい掛け声と太鼓の音が聞こえる。


私は妻と組み立て式の椅子を持って外に出た。


涼しいというより寒いのでベストをさらに着た。


懐中電灯を持たないと道路が見えない。


街灯は1箇所しかないので、そこ以外は空の明るさが補助となるだけだ。


振り返ると我が家に灯っている電灯に暖かみを感じた。


いつも通っているものの夜の坂道は不気味な闇の世界だ。


夜間に行動するケモノとの遭遇が想定されて気を引き締める。


サルが散らかした栗のイガを退けて椅子をセットした。


懐中電灯を消して星を眺め飛んでいる飛行機の点滅灯を楽しんだ。


さきほど1発だけ上がった花火を期待していた。


まだ6時半だというのにジットしていると冷え込んでくる。


「去年は流星群が見られたね」と話していたら「ドーン」と上がった。


炸裂音は川面に響き渡り谷という谷を駆け巡って幾重にもこだました。


およそ1発の花火で、これほど余韻を楽しめる地域も少なかろう。


単純な花火であったが間近に見ると美しくて迫力満点だ。


杉林を背景に立ち上がる1本の火の筋が見えたかと思うと「シュパッ」という打ち上げの音が聞こえる。


花が開き消えかかる頃に「ドーン」と腹に響く音がする。


坂の中腹に陣取った我々の正面に上がる花火。


6時47分終了した。


5分間のみであった。


数も種類も少なく贅沢の極みのような花火ではなかった。


だがこの地形で、この場所でのみ味わえるものがある。


豊作だったY爺さんの田んぼも花火で照らされた。


今夜だけは獣たちも違う地域に移動したに違いない。

 


農機具溶接遊び

2010-10-16 07:42:27 | Weblog

使えなくなった農機具の先端に鉄筋を溶接した。


鉄筋の部分を地中に刺してオブジェにする。


スコップ  ジョレン 名前知らず など。


農機具の形そのものも美しいが、その鉄に付く錆がなんとも良い味を醸していると思う。


鉄筋を付けておけば、どこにも持ち運び可能なオブジェの出来上がりだ。


先日木を抜いてしまった入り口のところに刺してみた。


刺しただけでは、なんとなくまだ寂しい。


それらの上に植物を置くことにした。


山で拾った目薬のビンも使ってみた。


それには水を入れて花瓶代わりだ。


鉄の錆とグリーンはよく合う。


ついでに鬼瓦も置いて。


苔なんかも似合うだろうからセットする。


苔球にする時間的余裕がない。


思い切って苔をハート型にした。


何を思い切ったかというと年齢に伴う趣味。


少し大人気ないが自分を許す。


あれもこれも置いてみたら取りとめがなくなってきた。


「何気なく」のコンセプトは見事に外れて腹立たしい景観になった。


少し冷静になってから水を撒いてみた。


ダメなものはダメだと分かった。


また触ると発狂しそうだからそのままにしておく。