こんにちは、ネーさです。
2011年の七夕も曇り空でがっかりだったわ……と落胆するなかれ!
まだ旧暦の七夕がありますよ~♪
「こんにちわッ、テディちゃでス! こんどはァ、はれるとォ、いいなッ♪」
「ぐるる!がるがるがるるるーぐる!」(←訳:虎です!旧暦の七夕は8月6日だよー!)
8月の夜空にかかる星座はどんなかなぁ?と想像しながら、
本日の読書タイムは、
どすん!と厚く重たい、こちらの御本を、さあ、どうぞ~!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/7c/69fd00979f982dda01de76a371950e0b.jpg)
―― 子規、最後の八年 ――
著者は関川夏央さん、2011年3月に発行されました。
『子規』とは、言わずと知れた正岡子規さんのこと。
初めて『子規』と御自身で号したのは明治22年(1989年)、
もとの名は常規(つねのり)さんといい、のちに升(のぼる)と改め、
御家族やお友達からは、ノボさん、と呼ばれていたそうです。
「ぶんごうさんッ、でスねッ!」
「ぐるがる!」(←訳:偉人さんだ!)
日本の近代文学史にまぎれもない、
大文学者――正岡子規さん。
この御本では題名の通り、
子規さん晩年の8年間が細密に描かれています。
晩年……とは申しましたが、
子規さんの生涯は、わずか34年と11ヶ月。
短い、あまりに短過ぎる生でした。
「むむゥ~、さんじゅうごねんにもォ、みたないィ……!」
「がるるる~…」(←訳:つらいよぅ~…)
『最後の八年』の一年目は、
子規さん28歳の、明治28年(1895)。
この年、子規さんはひどく体調を崩してしまいます。
いえ、本当は、病は、だいぶん以前から進行していたのでした。
病名は、結核。
明治の当時には、不治の病とされていました。
結核治療の特効薬として抗生物質『ストレプトマイシン』が用いられるようになるのは、
1940年代後半のこと……
子規さんを救うのには、
明治期の多くの結核患者さんたちを救うのには、
間に合わなかったのです。
リュウマチだと思っていた――思おうとしていた。
胃弱だと思っていた――思おうとしていた。
思いたかった、信じたかった、結核ではない、と。
それでも、とうとう、病に支配される日々が
やって来てしまいました。
寝付いた子規さんは、それゆえにこそ、
俳句に、歌に、小説に、随筆に、
何かを見出だし、
生み出そうとします。
そんな子規さんを慕い、
子規庵に集う大勢の友人、知人さんたち。
彼らとともに、
食いしん坊で大食漢の子規さん、
美味しいものをたらふくと
「いただきまァースゥ!」
「がるぐるるぐる!」(←訳:いっぱい食べよう!)
「たべたらァ、げんきにィ、なるゥ!」
「がるぐる!」(←訳:きっとね!)
元気になったら、大好きなベースボールがまた出来るかしら。
友人の漱石くんのように、外国へ行けるかしら。
せめて、自分の力で立ち上がって、
庭まで歩いてゆけるだろうか……。
明治35年、9月。
高浜虚子さんは詠じます。
『子規逝くや十七日の月明に』
家族と、虚子さんに看取られて、
子規さんの長く辛い闘病生活は終わりました。
司馬遼太郎さんの小説『坂の上の雲』ファンの方々に、
いえ、すべての活字マニアさんに読んでいただきたい労作です。
近代日本文学はここから始まった!
といっても過言ではない《子規庵》の、
巨大な恒星・子規さんを囲む星々たちの歴史を、ぜひ!
「ほしのおまつりにィ、ふさわしィ、のんふぃくしょんッ、でス!」
「ぐるがるる!」(←訳:星に、祈りを!)
2011年の七夕も曇り空でがっかりだったわ……と落胆するなかれ!
まだ旧暦の七夕がありますよ~♪
「こんにちわッ、テディちゃでス! こんどはァ、はれるとォ、いいなッ♪」
「ぐるる!がるがるがるるるーぐる!」(←訳:虎です!旧暦の七夕は8月6日だよー!)
8月の夜空にかかる星座はどんなかなぁ?と想像しながら、
本日の読書タイムは、
どすん!と厚く重たい、こちらの御本を、さあ、どうぞ~!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/7c/69fd00979f982dda01de76a371950e0b.jpg)
―― 子規、最後の八年 ――
著者は関川夏央さん、2011年3月に発行されました。
『子規』とは、言わずと知れた正岡子規さんのこと。
初めて『子規』と御自身で号したのは明治22年(1989年)、
もとの名は常規(つねのり)さんといい、のちに升(のぼる)と改め、
御家族やお友達からは、ノボさん、と呼ばれていたそうです。
「ぶんごうさんッ、でスねッ!」
「ぐるがる!」(←訳:偉人さんだ!)
日本の近代文学史にまぎれもない、
大文学者――正岡子規さん。
この御本では題名の通り、
子規さん晩年の8年間が細密に描かれています。
晩年……とは申しましたが、
子規さんの生涯は、わずか34年と11ヶ月。
短い、あまりに短過ぎる生でした。
「むむゥ~、さんじゅうごねんにもォ、みたないィ……!」
「がるるる~…」(←訳:つらいよぅ~…)
『最後の八年』の一年目は、
子規さん28歳の、明治28年(1895)。
この年、子規さんはひどく体調を崩してしまいます。
いえ、本当は、病は、だいぶん以前から進行していたのでした。
病名は、結核。
明治の当時には、不治の病とされていました。
結核治療の特効薬として抗生物質『ストレプトマイシン』が用いられるようになるのは、
1940年代後半のこと……
子規さんを救うのには、
明治期の多くの結核患者さんたちを救うのには、
間に合わなかったのです。
リュウマチだと思っていた――思おうとしていた。
胃弱だと思っていた――思おうとしていた。
思いたかった、信じたかった、結核ではない、と。
それでも、とうとう、病に支配される日々が
やって来てしまいました。
寝付いた子規さんは、それゆえにこそ、
俳句に、歌に、小説に、随筆に、
何かを見出だし、
生み出そうとします。
そんな子規さんを慕い、
子規庵に集う大勢の友人、知人さんたち。
彼らとともに、
食いしん坊で大食漢の子規さん、
美味しいものをたらふくと
「いただきまァースゥ!」
「がるぐるるぐる!」(←訳:いっぱい食べよう!)
「たべたらァ、げんきにィ、なるゥ!」
「がるぐる!」(←訳:きっとね!)
元気になったら、大好きなベースボールがまた出来るかしら。
友人の漱石くんのように、外国へ行けるかしら。
せめて、自分の力で立ち上がって、
庭まで歩いてゆけるだろうか……。
明治35年、9月。
高浜虚子さんは詠じます。
『子規逝くや十七日の月明に』
家族と、虚子さんに看取られて、
子規さんの長く辛い闘病生活は終わりました。
司馬遼太郎さんの小説『坂の上の雲』ファンの方々に、
いえ、すべての活字マニアさんに読んでいただきたい労作です。
近代日本文学はここから始まった!
といっても過言ではない《子規庵》の、
巨大な恒星・子規さんを囲む星々たちの歴史を、ぜひ!
「ほしのおまつりにィ、ふさわしィ、のんふぃくしょんッ、でス!」
「ぐるがるる!」(←訳:星に、祈りを!)