写真:河野宮に登る階段から見る金剛寺の屋根
後南朝ゆかりの場所のうち、金剛寺は<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>で最も重要で有名な史跡です。大迫ダムの北にある大平橋を渡り細い山道を登るので、山奥に分け入った雰囲気ですが、お寺からの前景は見晴らしが良いことに驚きます。
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写真左:妹背山金剛寺は修験道と深いつながりがあります
写真右:毎年2月5日、自天王の命日に「朝拝式」が執り行われます
<o:p></o:p>本尊「地蔵菩薩像」は、「修験道の開祖である役業者が彫り、大峯山からここに投げた」と伝わる「投げ地蔵」で、それもなるほどと思えるロケーションなのです。寺伝では1336年に後醍醐天皇より「金剛寺」という寺号を賜ったとされます。
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写真:金剛寺にあるけやきの大木。
推定樹齢800年といわれ、高所の境内にあるために
永年の風雪や雷などで痛んでいますが、青々として
います。
金剛寺の右側には「朝拝式を執り行うための社務所」、そして自天王の遺品である甲冑、刀剣などが納められている「宝物庫」が続き、一番奥に自天王をお祀りする「自天王神社」が鎮座しています。
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そして本堂の左側には大きな石碑「自天王碑」があり、たくさんの文字が刻まれています。さらに御陵の手前には「南帝自天皇陵」の石碑もあるのですが、御陵の柵の入り口には「宮内庁 河野宮墓」と掲げられているのです。
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自天王とは「兄・尊秀(たかひで)王」あるいは「一ノ宮・北山宮」と称され、「河野宮」は「弟・忠義(ただよし)王」で「二ノ宮」などとも呼ばれます。事情がわからないと「いったいどっち?」と思ってしまいます。<o:p></o:p>
写真:河野宮墓周辺には「長禄の変の際に両王とともに
命を落とした人たちの墓」も。
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明治15年2月に当時の宮内省は「金剛寺のお墓を自天王の墓」と公認し、そのときに「自天王碑」が建立されました。ところが明治45年に行われた改定で、ここのお墓は「河野宮」、つまり弟忠義王のお墓であり、自天王の墓は<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:上北山村;" Address="上北山村">上北山村</st1:MSNCTYST>瀧川寺にあるお墓とされたのです。
そのあたりの事情を『悲運の南朝後胤並自天王祭祀について』(伊藤 獨、檜書店、昭和47)では次のように説明しています。「・・・明治45年1月29日に至り、宮内省は突如として次の告示を発表した。
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【宮内省告示第壱号<o:p></o:p>
恒性皇子墓 後醍醐天皇皇子<o:p></o:p>
富山県射水郡二塚村大字二塚<o:p></o:p>
北山宮墓 後亀山天皇玄孫<o:p></o:p>
<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:奈良県吉野郡上北山村大字小橡 ;" Address="奈良県吉野郡上北山村大字小橡 ">奈良県吉野郡上北山村大字小橡<o:p></o:p></st1:MSNCTYST>
河野宮墓 後亀山天皇玄孫<o:p></o:p>
奈良県吉野郡川上村大字神之谷】
<o:p> 写真:墓前で吟じるガイドのMさん</o:p>
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「この北山、河野両宮の御墓の治定については川上村は宮内省より事前になんらの内示も受けていなかったので、この告示の発表は村民にとってまったく晴天の霹靂(せいてんのへきれき)であった」
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続きは近日中に。<o:p></o:p>
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