A Lady Seated at a Virginal, 「ヴァージナルの前に座る婦人」
c.1675, oil on canvas, 51.5 x 45.6 cm,
Inscribed at right, next to the lady's head : IVMeer (IVM in ligature)
The National Gallery, London, UK
この絵は「#34/ヴァージナルの前に立つ婦人」と対になる絵と思われているが、絵の具の処理の仕方が違っている。 この絵の技法は幾分簡略化されており、婦人の後にある絵の額縁は数筆で描かれているが、後者の絵にある金色の額縁は絵の具の盛り上げの変化で描かれている。 この絵は1675年又はその直前に描かれた、フェルメール晩年の作品である。
「絵の中の絵」は、ユトレヒトの画家 Dirck van Baburen (c.1595-1624)の作品「The Procuress」(娼家にて/1622/現在はボストン美術館所蔵)として知られおり、この絵ではエロチックな禁制の愛の例を示しており、ヴァージナルを引く婦人から発散されている澄み切った平安さとコントラストを成すものとして使われている。
フェルメールの最後の作品の製作時期を特定する事は、この時期彼が1660年代の構図にインスピーションを求めた為、特に難しい事である。 例えば、この絵の若い婦人のポーズと誘惑的な眼差しは「#20/手紙を書く婦人」(c,1665)のそれを呼び起こさせる。 フェルメールはまた、昔の2作品「#14/ミュージック・レッスン」(1662-64)と「#23/コンサート」(1665-66)の前景に単独で描かれた Viola da gamba (チェロの前身)のモチーフをこの絵に使っている。 更に、「#23/コンサート」の後方の壁に掛けたDirck van Baburen の作品「娼家にて」(Procuress)(1622)をこの絵でも使っている。 しかし、この絵とスタイル的テーマ的に最も近いのは、裕福そうな若い婦人が鍵盤の上に手を置いて鑑賞者を真直ぐに見つめている「#34/ヴアージナルの前に立つ婦人」(1672-73)であろう。 実際、絵のサイズとテーマ、また描く技法の類似性から、両者が対になるものとしてフェルメールが製作したらしいことを示唆している。
しかし、幾つかの事実がその仮説を否定している。 1682年、Diego Duarte は両者の内の一方しか所有していなかった事で、もし両者が対であるなら、そんな初期から別々にはならないはずである。 更に、使われている技法の違いは、フェルメールが少し違った時期に描いた事を示している。 最も明白なスタイル的な違いは、ドレスの描き方である。「#34/ヴァージナルの前に立つ婦人」のドレスの堅い材質のはっきりした襞(ひだ)は明らかなアクセントになっているが、この絵の婦人の明るい青の襞は、材質の描写というよりも平坦な色のパターンを創り出している。
アプローチの明らかな違いが、金色の額縁を描く絵の具の処理に見られる。 「#34/ヴァージナルの前に立つ婦人」では複雑な額縁の物理的な構造を、絵の具の盛り上げ方の違いで表現しているが、この絵ではVan Baburenの「娼家にて/The Procuress」の額縁を黄色の大旦なフラットな筆使いで大まかに描いている。 このフォルムの簡略化は、他の作品よりも一層明白で、フェルメールがこの絵をほとんど晩年(c.1675年)頃に描いた事を示している。 従って、これらの2作品は対ではなく、テーマのバリエーションと見るべきである。
実際、フェルメールは個々の絵のメッセージを基本的に異なる方法で伝えようとしている。 彼はテーマのイメージを補強する為に、婦人の後方に絵を置いているが、”絵の中の絵”は異なる役割を果たしている。 恋/愛の純粋さを表わすキューピツドは「#34/ヴァージナルの前に立つ婦人」のモラル的意味を補強しているが、エロチックで禁制の行為を暗示するこの絵の「娼家にて/The Procuress」は、「理想の愛と世俗的な愛の選択」というもっと複雑なテーマを描く構図の一要素に過ぎない。
「娼家にて/Procuress」が後方の壁にある事実は、若い婦人の眼差しを世俗的な愛への誘惑と解釈すべき点もあるが、「娼家にて/Procuress」の中の若い女がつま弾くリユート以上に高尚な形の愛をヴァージナルは示している。 家族の前で婦人が弾くヴァージナルはハーモニー/調和と融和のシンボルとしてオランダ絵画ではよく描かれている。 更に、前景にあるViola da gamba がハーモニーとの関連性を補強している。 よく知られたJacob Catsの象徴学の本”Quid Non Sentit Amor”(「#14/ミュージック・レッスン」参照)の男性音楽家と同様(たとえ離れていても二人の心はハーモニーの中に存在する事ができるのと同様に、置かれている楽器が演奏されている楽器に共鳴呼応する、という解説文がある)、Viola da gamba は使われずに置かれているが、婦人はヴァージナルを演奏している。
愛のハーモニーを陰喩する音楽賞賛は「#23/コンサート」の基礎を成している。 フェルメールは楽器を演奏し音楽と歌の拍子を合わせ、完全なハーモニーで合奏している3人の人物を描いている。 即ち、「#23/コンサート」のように、後方にあるVan Baburenの「娼家にて/The Procuress」の存在は、禁制の愛に関連する音楽と、ハーモニーと中庸に関連する音楽のテーマ的な対比を創り出している。
フェルメールは光の処理によっても彼の選択を補強している。 薄暗い室内は温かい誘惑的な環境を示しているが、カーテンの後方から発した強い光が、背景から分離させるように婦人を照らし、さらにViola da gamba とヴァージナルの前端を照らしており、それら三つの構図上の要素間のテーマ的な関連性を補強している。
この絵とGerrit Dou の”Woman at the Clavichord”(c,1665)との著しい類似性は、フェルメールがこのライデン(都市名)の画家の作品から構図を借用したことを示している。 婦人のポーズだけでなく、前景に目立つように置いたViola da gamba、一方の側に引き上げられたカーテンが愛の関連性という象徴的寓意的な意味を知らせている。 フェルメールの婦人と同様にDouの婦人もハーモニーのある束縛する愛に参加することを鑑賞者にアピールしている。
人生の最後に於いてもフェルメールは、テーマ的な複雑さと制限された構図を同時に創り出す努力を続けたのである。 Douは大きな室内空間に婦人を置き、ワイングラス、楽譜、フルート、葡萄の枝、デカンタといったテーマを知らしめる多数の構成物を付け加えているが、フェルメールは人物を画面近くに置き、テーマの意味を伝える為の数少ない明瞭な物体を注意深く配置しているだけである。 結果としてフェルメールのイメージは、視覚的により直接的で、図像学的により暗示的である。