昨日の「『平成の修身』#14(女性論)」 で、日本の 家族制度などの素晴らしい文化が壊されようとしていることを取上げました。
偶然でしょうか、ねずさんがその文化破壊の凄まじさを教えてくれています。何と、ここでも、日本が大嫌いな朝鮮人の 影響があ るようです。
何時ものように、全文はリンク元で読んでください。今回も目から鱗です。男言葉と女言葉は、役割の違いを自 覚するた めだそうです。やはり、日本語は凄い。これは、どうあっても日本語こそ世界共通後にすべきですね。
尤も、その前に、日本人が取り戻す必要がありそうです。できるでしょうか。
日本語の大きな特徴として男女による言葉遣いの違いがあります。
「楽しいわね」
「うん。楽しいぜ」
と書けば、どちらが男でどちらが女とわざわざ注釈しなくても、どっちが男でどっちが女かわかります。
ところが最近、特に反日色が濃いと言われるテレビにおいて、そのドラマなどで使われる言葉が、かなりおかしなも のになっ てきています。
女性が男性語を使い、男性が女性語を使うのです。
「お前たち、捜査を実施してくれないか」
「あらまあ、捜査するのよね」
どうみても上が男言葉、下が女言葉です。
ところが、番組では、上のセリフが女性、下が男性のセリフです。…中略
そもそもこうした男言葉、女言葉が、意図的に壊されている背景には、テレビ局の要職に、日本人でない、日本文化を理解 しない人 たちがずいぶんといることが原因だと、局の方から聞きました。
なるほど韓国には、日本語にあるような男言葉、女言葉はありません。
「食事に行こうか」
「いきたいですわ」
などという、言葉による男女の違いがもともとない。
ないから、日本語に性差があるということが理解できない。
だから、日本語にも必要が無いのではないかと、彼らの文化(といえるのかどうかは知りませんが)をゴリ押しする。
そしてそういうものが、いつのまにかクリエイティブだと、すり替えが行われています。
とんでもない話です。
それは、コリエイティブであって、クリエイティブとは対極にあるただの文化痴呆です。
その結果、番組中の男言葉、女言葉が、完全に崩壊してしまっています。
男言葉、女言葉は、もともと「役割語」の一種です。
役割語というのは、落語などを聞くとよくわかるのですが、
町人「へい、旦那、おはようさんです」
男性「おお、熊か。よく来たの。こっちへ来て座りなさい」
女性「あら熊さん、おひさしぶりだこと」
ご隠居「こら、熊!、その服装はなんじゃ!」
などと使い分けられます。
「~じゃ」という言い方は、なんだかちょっと偉い人が使う言葉で、これは江戸に幕府を開いたときに、関西から土木の技術 者の親方 や、設計などの知識人を大量に呼び寄せ、彼らが関西語を話したことに由来します。
要するに、男と女、社会における所属カテゴリーによって、それぞれに言葉の使い分けがあり、なかでも代表的なのが、男言 葉、女言 葉であるわけです。
なぜこのような言葉の性差が生まれたかというと、これがまた実に日本的です。
日本では、男も女も、あるいは武士町人も、すべては人として互いに対等な存在です。
人として対等な中で互いの役割を果たしていこうとします。
ですから、兄弟であれば、弟は「◯夫」と呼び捨てにされますが、兄は常に「お兄ちゃん」と呼ばれます。
人としては対等ですが、兄には兄としての役割を果すための自覚が常に求められるからです。
これと同じで、男は男としての、女は女として、互いの特徴を活かして、子や孫たちが幸せに暮らせるようにしていく。
そのために、「男は男らしく、女は女らしく」と育てられたのです。
そしてこのことがあるから、男女の言葉の違いも生まれてきたわけです。
こうしたことは、人々が奴隷として支配され、収奪されているだけの社会には、絶対に育まれません。
人として対等だから、意図して役割語が育まれるのです。
上下と支配、支配と隷属の関係だけなら、役割語は不要です。
なぜなら、命令には服従しかなく、そこに言葉上の役割語は必要ないからです。
言うことを聞かなければ、殺すだけです。
まして、男言葉、女言葉など、まるで必要性がない。…以下略
おかしな言葉遣いが増えているとは思ってましたが、反日売国左翼メディアの恐ろしさは、こんなところまできているん ですね。
やはり、中韓との国交断絶は、どうあっても成し遂げなければなりません。ネットでも、そんなことは不可能と言われて います が、そんな生ぬるいことでは日本はボロボロにされます。
未来永劫、中韓とは付き合わないという憲法を作りましょう。