四方源太郎日記(京都府議会議員・綾部市選挙区)

これからの綾部のために、さらなる「挑戦」を!

綾部歴史探訪ツアーに

2020年11月06日 | 歴史の探求

 6日㈮昨日MBTセミナーで、講師をお世話になった奈良県立医大梅田智広教授㈱ライフビジネスウェザー石川勝敏社長ご案内して、「綾部歴史探訪ツアー」ガイドを務めた。

 駅前のホテルでお迎えし、最初グンゼスクウェアへ。グンゼ博物苑、グンゼ記念館案内しながら、グンゼ創業の経緯や創業理念、当時の綾部の様子説明し、ちょうど「錦絵展」も開催されていたので、喜多川歌麿、歌川広重などの貴重な錦絵鑑賞した。

 バラ園では、アンネのバラと綾部市の関係世界連邦都市宣言について説明

 特産館見学していただいて、「宥座の器~グンゼ創業者・波多野鶴吉の生涯」(四方洋著、あやべ市民新聞社刊)購入して差し上げ綾茶カフェ「綾部抹茶」を飲みながら、宇治茶と上林一族と綾部市との関係についても説明

 

 続いて、大本本部へ。みろく殿、長生殿、木の花庵などを案内し、大本開教からの歴史や綾部が合気道発祥の地であることなど説明

 ちょうど神苑は紅葉が色づき始めており、美しい風景をご覧いただけた。

 並松町ゆらり由良川店昼ご飯を食べ、午後は足利尊氏が産まれた安国寺へ。ちょうど本堂の屋根の葺き替え作業が行われていた。杉家や足利家と綾部市、安国寺との関係説明

 帰りに、多田町にある古墳時代で全国最大規模の方墳である聖塚、菖蒲塚ご案内し、綾部市資料館私市円山古墳や綾中廃寺の出土物等を説明し、一通りの「綾部の歴史」を説明させていただいた。

 

 綾部に遺されているのは「スサノオ」の痕跡

「陰」や「鬼」と忌み嫌われるが、大切なもの「土」「農」「酒」の神様でもある。

 叩かれても、粘り強く反発する不屈の精神性を持った土地でもある。

 綾部は「気が高い」ところだ。気遣いが必要な分、精神が鍛えられている。

 

 7日㈯、午前中はマツタケ山へ。1本だけ収穫があったが、今年はこれまでになく不作の年となった。他のキノコも全くというぐらい出ていなかったので、今年のうちの山の生育環境は相当悪かったのかもしれない。

 初めてお連れした方が綾部市マツタケ振興会に入会いただけることになったので、その「収穫」で今年は「良し」としよう。

 午後は事務所にて、来客事務仕事


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髙倉神社と以仁王伝説

2020年07月20日 | 歴史の探求

 20日㈪は夕方、種清喜之幹事長、熊谷正章会計、大槻悟会計監査に集まっていただき、自民党綾部支部の会計監査をしていただいた。

 21日㈫、朝8時から吉美地区髙倉神社土用の丑の祭礼参拝した。

 昨年の「御用聞きの会」の際に、「ぜひ都合がつけば参拝してほしい」という要望をいただき、今回初めて祭礼に参拝させていただいた。

 髙倉神社後白河法皇の第二皇子・髙倉宮以仁王祀っている。

 以仁王「平清盛追討の令旨」を出し、源頼政と共に挙兵したが、宇治平等院での戦いに敗れて、頼政は自刃し、以仁王も奈良へ援軍を求めて落ち延びる途中で命を落とした、とされているが、実は大槻光頼、渡邊俊久ら、十二人の家臣と共に頼政の領地のあった丹波へ落ち延びられ、綾部市吉美地区の里町(現在の里宮髙倉神社)まで来られた。

 人々は尊い以仁王の姿を拝し、笛や太鼓で田楽踊りを舞った。これが今も伝わる「ひやそ踊り」だと言われている。

 治療の甲斐もなく、以仁王の矢傷は次第に悪化し、治承4年(1180年)6月9日「後世、庶民の腹痛の悩みを吾れ代わって救わん」との言葉を遺して、29歳で亡くなられたという。

 翌年9月9日、以仁王の神霊を奥谷の森の髙倉(現在地)に移し、ここに「髙倉天一大明神」として以仁王を祀る髙倉神社が創建され、以来、地元の方々によって守られて今に至っている。

 境内には、以仁王に従った十二人の家臣を祀る十二士神社もあり、十二士の子孫の方々も参拝しておられた。今でも十二家が絶えずに親交が続いているそうだ。

 十二士はあえて神社の近くには住まず、綾部市内の各地に分かれて、平安時代末期から今まで、髙倉神社とはつかず離れずでお守りされていると聞き、驚くべき忠義心だと感じた。

 土用の丑の祭礼では「はらわた餅」が販売されており、人気がある。今日は委員会で府議会に行くので、自民党府議団の他の議員さん方にも食べてもらった。

 

 祭礼後、京都に向かい、11時45分から農商工労働常任委員会正副委員長会、12時半から議員団会議、13時半から農商工労働常任委員会に出席した。

 委員会では「コロナの影響を踏まえた施策展開について」というテーマで、農林水産部、商工労働観光部からそれぞれ説明を聴取した後、委員との質疑を行った。

 電話相談等で寄せられている様々な声や業界ごとの要望についても説明があり、また現在の補助金申請数の報告もあったが、まだまだ予算にはゆとりがあるので、ぜひもっと申請いただければと感じた。

 

 夜は綾部に戻って、久しぶりに「ほろにがクラブ」に出席。アサヒビールの愛好者が毎月集まり、ビールで乾杯している。月に2,000円ちょっとの会費なので、ビール好きの方にはお得な会だ。

 私は都合がついて出席できるのが年に2~3回なのだが、幅広い世代、業種の方がおられて刺激になる。


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四方姓は、どこから来たか?

2020年06月20日 | 歴史の探求

 昨年、「四方姓」のルーツについて書いた。「四方という姓がなぜ綾部に多いのか?」(2019年8月27日付)記事がある。「KYOTO SIDE」というインターネット情報誌から取材を受けたことがきっかけだった。

「KYOTO SIDE」の記事綾部市で多い名字、1位の四方(しかた)さん、2位の大槻さん そのルーツに迫る!」2019年9月20日付けで発表されているが、「四方姓」情報が少なく、ほとんど「大槻姓」の説明になってしまっている。

 私の家の「四方姓」江戸時代初期に初代綾部藩主・九鬼隆季公に従って三重県の鳥羽から綾部に移ってきた際に、殿様に「四方」を名乗ることを許されており、途中からの「四方」で、本来の「四方姓」に関する情報はよく分からなかった。(祖母の実家は綾部市寺町の「四方姓」なので、そちらは本来の「四方」かもしれない)

 先日、父から「綾部市武吉町の四方三知夫さんの家に古い家系図が伝わっているそうだから、見せてもらったらどうか?」と勧められて、今日訪問した。たまたま別の家を探していた時畑仕事中の四方さんに声をかけられ、そんな話になったそうだ。

 その家系図最初、永徳二年(1382年、室町時代、将軍:足利義満の頃)にまとめられており、さらに時代が下って、天正10年(1582年)6月28日追記されていると書いてあった。

 本能寺の変があったのが天正10年6月2日であり、6月13日の山崎の戦で明智光秀は敗れ、落ち武者狩りに遭って死亡したとされている。

 系図によれば、当時の当主・四方久之丞長重?の祖父・四方左近丞長興?の時代に明智光秀に仕えたように読める。「天正八年辰八月 明智日向守殿 丹波國を領した時 家臣と相成り忠勤に勤しむ」と書いてある。

 その子、四方喜三右衛門尉長峯?のところには「明知光秀●ヨリ ●籠御免計也」書いてあるが、これは「駕籠に乗るのを許された」ということだろうか?

 四方三知夫さんの家には天正時代の検地帳だと思われる古文書が残っているので、もしかすると明智光秀の命令で武吉に移ってきたのかもしれない。

 江戸時代には当地を治めた旗本・藤懸氏(城下)の下で庄屋をしておられたことはハッキリしている。

 四方三知夫さんのご先祖は、口上林の武吉町に移られる前は、志賀郷におられたようだ。志賀郷に移られたのは、この家系図が最初に書かれた永徳2年(1382年)より前、室町時代初期ではないかと思われる。

 志賀郷に移る前はどこにいたか?というと、何鹿郡(綾部市)の山家だと書いてある。どうも綾部に移ってきて、最初は山家に居住されていたようだ。

 その前は…というと、京都で「御所の警固をしていた武士」ではないかと思われる。

 どうも「四方」を最初に名乗ったのはこの人ではないかと思うが、四方(佐々木)三郎義宗という人物が、鎌倉時代初期天福元年(1233年)「四院帝」(四条天皇のことか)の時代に「禁官仕ス」とあるので、御所の警固役」として朝廷に仕えていたのではないか。

 この四方三郎義宗の父佐々木政義と書かれており、ここまでくると歴史上の人物としてウィキペディアでも紹介されている。

【佐々木政義】承元2年(1208年)、佐々木義清の嫡男として生まれる。鎌倉幕府第5代将軍・藤原頼嗣の近習となる。父の歿後、隠岐・出雲両国の守護職を相続したが、三浦泰村と諍いを起こし、憤怒に任せて、建長2年(1250年)無断で出家をして心願と号した。この無断出家の罪により政義の職掌・所領は没収され、弟の佐々木泰清が、隠岐・出雲両国の守護を継承した。

 綾部の「四方さん」の多くが使用している家紋「丸に隅立て四ツ目」の由来である近江源氏・佐々木氏と繋がってくる。

 1208年生まれの人の子どもが1233年に武士として朝廷に仕えるというのは、少し年齢が合わないようにも思うが、この系図上ではそうなっている。

 この佐々木政義「近江国志賀」に住んでいると書いてあり、この「志賀(しが、しか)」が「しかた(四方)」の由来ではないだろうか?

 「四方」という地名は富山県にあるが、富山県では「よかた」と呼び、「四方(よかた)」という姓もある。

 「四方(しかた)」という地名がどこにもないのは不思議だったが、滋賀県の「志賀」にルーツがあるのかもしれない。

 綾部の「四方さん」の中には、自分の家は武田氏の関係だとおっしゃる方々もあるし、うちのように途中から名乗った家もあるので一概には言えないが、近江源氏の佐々木氏の末裔だとおっしゃる家が多く、家紋も多くが近江源氏・佐々木氏の「丸に隅立て四ツ目」を使われている。

 最後にまとめると、

 鎌倉時代初期/近江源氏・佐々木義清ー佐々木政義(無断出家で所領没収)―四方(佐々木)三郎義宗(朝廷警固武士になる。最初に「四方」を名乗る)―鎌倉時代末期?室町時代初期?/四方兵部丞忠善の父(綾部に来て、最初は山家に住む)ー四方将監忠輝(志賀郷に移る)ー戦国時代/四方喜右衛門尉長峯(明智光秀に仕えて、志賀郷から口上林・武吉に移ったか?)ー江戸時代/旗本・藤懸氏(城下)の下で庄屋を務め、明治以後も同地に暮らし、現在に至る。

 四方一族が居住した山家、志賀郷は、江戸時代には山家藩の谷氏の領地となっており、同じく谷氏の本家・分家が治めた位田、吉美、西八田、東八田にも「四方姓」が多い。

 また江戸時代には九鬼氏の領地であった綾部地区の中で山家に近い、寺町、味方町も「四方姓」の多い地域である。

 本来の「四方一族」室町時代の間に、現在の綾部市域の各地に広がって、それなりの勢力があったのではないだろうか?

 うちの先祖は九鬼の殿様に従って綾部に来た時に、どういう経緯があったかは分からないが、この「四方」という姓を名乗ることになったのだと思われる。

 

 有意義な訪問で、四方三知夫さんにはお世話になり、ありがとうございました。

 武吉町を通る上杉和知線の和知町との境の峠の登り口には、以前は「薬師寺」という立派なお寺があったとお聞きした。

 そこにあった仏像は今は福知山市のお寺に引き取られているそうだ。こういうことも、いずれ調べてみたい。


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並松史

2020年04月08日 | 歴史の探求

 日㈬昼間人事異動の挨拶地元からの要望対応など。

 山家の荒木敏文市議から、上林川の災害復旧工事に関して、地元の要望があると連絡があり、土木事務所に対応をお願いした。さっそく現場に行ってもらって、地元の要望通りに工事してもらったそうだ。

 物部の種清喜之市議からは、昨秋の「御用聞きの会」で要望のあった箇所について、最近、府民協働型インフラ保全事業で工事に入り、河川や道路の環境がキレイになったので地元自治会長さんから御礼を伝えてほしいと言われたという連絡もあった。迅速に対応いただいた府の土木事務所の皆さんに感謝したい。

 府議は綾部に一人しかいないので、目は2つ、耳も2つしかないが、それぞれの地域にお住まいの市議の力をお借りすることで、この力を何十倍にも高めることができる。

 綾部では学校も始まり、少しずつ、市民生活のリズムが元に戻っていくのではないかと期待している。都市部での感染拡大は止まらず、府北部でも新たな感染が発表されたりもしたが、冷静に捉えていきたいと思っている。

 

 綾部市立図書館から連絡があり「並松史の余部がありませんか?」と訊かれた。平成17年に並松町自治会で発行した地元の歴史をまとめた60頁ほどの小冊子で、図書館では中高生の宿題の調べものに「活躍」しているそうだ。

 作成に取り掛かったのは平成15年頃古くから並松にお住まいの「並松の生き字引」のような方々に集まっていただき、まずお話を伺った。写真には、古和田あさちゃん、山下あんちゃん、山下たーちゃん、ふしみやのおじいさん、現長のおじいさん、余田松ちゃん、荻野昭さん、野谷さん、下西さんの顔が見えるが、その後、亡くなられたり病気になられたりで、最近は皆さん、お顔を見れなくなってしまった。あの頃に話を聴いておいて、本当に良かった。

 発行当時、並松町の自治会員に配布し、余部を公会堂で保管していたが、もう全く残っていないそうだ。うちの事務所に1冊だけ余部があったので、図書館に寄贈した。

 図書館でコピーをとってもらうことをOKしたので、今後、多くの子ども達が綾部の歴史、由良川や綾部大橋、本宮山、水無月まつり、市民センター、熊野新宮神社、綾部高校等の歴史を学ぶきっかけとして活用してもらえたら嬉しい。


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東の片倉、西の郡是(講演のご案内)

2019年09月02日 | 歴史の探求

 1020日㈰10時から約1時間、綾部駅北「ものづくり交流館」(北部産業創造センター内)にて、中央大学の京都北部在住者のOB会(京都北部白門会)からの依頼で講演をすることになっており、最近、案内チラシをお届けいただいた。

 テーマ「東の片倉、西の郡是~郡是製糸の経営から学ぶ」としており、グンゼ創業者・波多野鶴吉二代目社長の生涯を説明しながら、なぜ郡是製糸が片倉工業と並び立つほどの企業に成長できたのか、それを解説し、その成功からわれわれは何を学ぶかという話をしたいと考えている。

 どなたでもご参加いただける講演会ですので、興味のある方はぜひお越しください!

 ※ただし、私はこのテーマでの講演は初めてですので、うまく話せるかどうかは分かりません。


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四方という姓がなぜ綾部に多いのか?

2019年08月27日 | 歴史の探求

 綾部で最も多い姓は「四方(しかた)」だ。「大槻(おおつき)」も多いし、「塩見(しおみ)」「村上(むらかみ)」「田中(たなか)」「梅原(うめはら)」「渡辺(わたなべ)」などが多いようだ。

 村上や田中、渡辺は綾部だけでなく、全国的に多い苗字であり、塩見は綾部よりも福知山の方が多いので、そのルーツは福知山にあるように思う。

 大槻や梅原は綾部や高津の豪族に由来し、江戸時代の最初に帰農したものと考えられる。

 四方がなぜ、綾部に多いのか?その謎についての問い合わせがあり、改めて調べてみた。

 

 祖父・源太郎が晩年に遺していた文章には「綾部の殿様、九鬼公が三重県松阪から綾部へ転封になられた時、羽室家、大槻家などと四方家も屋敷を与えられ、家号は鍛冶屋といい、殿様から花木瓜(はなもっか)の家紋をいただいた」とある。

 伯父・洋は、祖父・源太郎が死の間際に語ったこととして上記の内容に加え「九鬼の殿様の家庭教師のような家柄であった。殿様といっしょに松阪から、綾部へやってきた」と書き遺している。

 我が家に残る記録は、これのみだ。

 今回の調査の中で分かったこととして、綾部の他の四方姓の方は、先祖からの言い伝えとして「近江源氏(佐々木氏)の一族が戦に敗れて落ち延びて来て、素性を明かさないために四方と改姓した」と聞いておられるそうだ。

 四方と共に九鬼家に用いられた羽室家、大槻家のうち、羽室家はグンゼ創業者・波多野鶴吉の生家でもある。「波多野鶴吉翁伝」には羽室家の由来として「京都の公卿・葉室氏が帰農したもので、家号は京屋という」という説(他にも説あり)が紹介されている。

 大槻家戦国時代に高津城主であった豪族・大槻氏の一族だと考えられる。

 九鬼の殿様は綾部に入った際に、元々から綾部に勢力を張っていた「土着権力」であった羽室、大槻、四方に一定の庇護を与えることで、土着勢力との融和を図ろうとしたのではないかと思う。

 四方、大槻の多さに比較して、羽室は綾部でもさほど多い姓でないのは、波多野鶴吉もそうだったが、「羽室家は分家して財産が散逸するのを嫌って、次男三男は早めに他家へ養子に出した」という話があるし、公家の出身であれば、一族であっても簡単には名乗れなかったのかもしれない。

 九鬼の殿様国道173号の三和町との境にある質山のあたりにあった正暦寺を現在の場所(お城のあった大本・長生殿の背後にある本宮山の田野川をはさんで東北)に移している。由良川から正暦寺を見上げると砦のようでもあり、城の守りとして寺を移したのではないかと考えられる。

 同じく、熊野新宮神社今の場所の隣り(市民センターのところ)に移した。これも由良川からの上陸ポイントになっており、敵が川から攻め込んで来た場合の砦であったと考えられる。

 うちの家は正暦寺の檀家で、熊野新宮神社の氏子であり、城防衛の施設を守る役割を与えられた人たちの中にいたのではないかと考えられる。一方、羽室家の菩提寺広小路の浄光寺であり、ここもちょうど江戸時代初期は城下町の西の入り口に当たる場所であり、羽室家にも城下の防衛に当たらせたのではないだろうか?

 殿様から与えられた四方家の屋敷は今の大本・みろく殿の奥あたりにあったと思われる。これはちょうど、お城(陣屋)のあった大本・長生殿の真下になる。城の真下に土着権力者の屋敷を置くとは考えにくい。

 殿様からいただいたという我が家の家紋「花木瓜」を見てみると、もしかしたら…と思うことがあった。

 祖父は「花木瓜(はなもっか)」と記しているが、ネットで調べるとそんな名前の家紋はない。どうも「五つ木瓜 隅立て四ツ目」という紋になるようだ。ただ、この紋は珍しいようで、うちの息子がお宮参りの着物を作る際に「こんな家紋はないから間違いではないか?」と言われたらしい。

 そして、綾部の他の四方姓に言い伝えられている近江源氏の佐々木氏(六角氏)の家紋「隅立て四ツ目」であることも分かった。

 綾部の上林は織田家に侵攻されるまでは近江の浅井氏の勢力下であったので、近江源氏の佐々木氏(六角氏)の勢力も上林方面から流れてきていたのかもしれない。綾部でも四方姓が特に多いのは中上林、山家、東八田、西八田、吉美、物部(白道路)、豊里(位田)、綾部(味方、寺町)という地域ではないかと思うが、ほぼ綾部の全域に広がっているのが、他の姓とは違う特徴だ。

 九鬼の殿様元々から綾部に広がっていた佐々木氏の流れを引く四方一族の家紋を「木瓜」で囲んだ家紋を作り、それを自らが三重県から連れてきた従者に与え、四方という姓を名乗らせたのが、うちの先祖だったのではないだろうか?

 それで信頼されて城の真下に住まわせてもらって、「鍛冶屋」という家号であるように武具の調整などを行っていたのではないだろうか?

 そういえば、大本が戦前に発行していた機関誌には「本宮山の北麓に丹波守義光という名刀鍛冶が住んでいたことがあった」と記されているが、その場所は屋敷のあったあたりになる。

 綾部には「株講」という親戚縁者の集まりがあり、他の四方さんの家にはこの「株講」があるが、うちの家にはそれがないのは、後から入ってきて「四方」を名乗ったからかもしれないなと思った。

 全ては推測であるのだが、今回、「四方」姓についての調査依頼があったことで、改めて調べたり、想像してみた。長文だが、自らの覚えとしてもここに掲載しておこうと思う。

 

追記 記事「四方姓はどこから来たか?」(2020年6月20日付)


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天神さん

2019年07月22日 | 歴史の探求

 参議院選挙が終わり、今週の前半は比較的、時間があったので、溜まっていた事務作業をしたり、来客や取材の対応げんたろう新聞の原稿書き今後の議会活動のための調査などをして過ごした。

 23日㈫は、小源太と二人だったので、小源太の希望でラーメンを食べに行き、学校生活の様子なども聞いた。

 24日㈬は午前中、綾部天満宮の天神祭に参拝した。24日の「天神さん」、28日の「水無月さん」は綾部地区の夏の二大祭りだ。

 天神さんには神様が二体祀られていることに気がついた。菅原道真公が主祭神で、賀茂大神という神様も祀られているようだ。この2祭神がなぜ並んで祀られているのか不思議に感じた。

 菅原氏はもともと土師(はぜ)一族で、秦(はた)氏とも同族だそうだ。秦は「機」と同じ読みなので、綾部とのゆかりもあるのかもしれない。賀茂氏と秦氏、土師氏には何らかの関係があるのだろうか。

 

 明日からは文教常任委員会の視察のため、東京方面に出かけることになっている。


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京丹後へ

2019年05月26日 | 歴史の探求

 午前中は藤岡康治市議のお父さんの葬儀に参列。お父さんは長年、フェンス業を営んでおられて、4月に車いすで市立病院の桜を観に行かれた際も、桜よりも周囲のフェンスを気にしておられた藤岡さんが喪主挨拶でおっしゃっておられた。府議選前からお悪いと聞いており、最後までよくお世話されたと思う。心からご冥福をお祈りいたします。

 

 午後は大阪でIT企業を経営する友人のホンホンと共に京丹後市に行き、旧知の粟倉惣之輔さんを訪ねた。

 粟倉さんとは15年ほど前からのお付き合いだが、じっくり話したのは実は一度だけで、顔を見たのも5回あるかないかなのだが感性が合うというか、常に身近に感じられる人でもあり、諸葛孔明のような人だと勝手に思っている。お互いに同じ存在を信じているという一体感がある。年齢をお聞きしたら還暦になられたそうで、最初にお出会いしたのは今の僕くらいの年齢だったんだなと思った。

 今春の府議選挙の際に公約した「北部産業創造センターをICT教育の拠点に」ということを実現するために、ホンホンには企画をお願いしており、それについての協力要請やアドバイスを求めにお訪ねした。

 約5時間、様々な話をして、ホンホンが考えていた方向性とは違ってしまったのかもしれないが、僕自身は自分の考えに確信を持つことができた。

 政府「IT技術者の養成」を「第四次産業革命の重要ポイント」としており、文科省はそれを受けて学習指導要領を改定して「学校でのプログラミング教育の必修化」を進めようとしているが、現場(特に地方の学校現場)はおそらく指導できる人材の質と量がなく、ついていけないだろう。

 それを先回りして準備し、綾部では新しい「仕組み」が創れないか?と考えている。

 我々は決められた基準に従って努力する側ではなく、基準を創造することに努力する側に立ちたい。


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相根かずお後援会の解散総会

2018年10月29日 | 歴史の探求

 月曜日日帰りで東京に行き、四ッ谷駅から訪問先を地図アプリで探したら、「須賀神社」という文字が目に飛び込んできた。映画「君の名は。」では最後のシーンで主人公の2人が再会する場所でもある。

 昨年、この映画を観て、ずっと心に引っかかるものがあり、それが何なのか?と思って調べていたら、この神社の境内は、大本が東京宣教の拠点として「確信会」の事務所を大正8年に置いた場所だということが分かった。

 須賀神社であり、もちろんご祭神は須佐之男命(スサノオノミコト)だ。「須賀」というのは、菅原道真の「菅」とも同じであるなとも思った。

 予定を終えた後で、四ッ谷駅から10分弱歩いて、須賀神社を参拝した。四ッ谷駅前には洋伯父の葬儀をした聖イグナチオ教会もある。

 

 1031日㈬朝から京都へ。午後に議員団会議に出席した後、自民党議員団の政調会役員会、建築・土木議連役員で建設交通部等との話し合い、府議会・政策調整会議の議会基本条例検証会議にそれぞれ出席した。

 夜は相根かずお後援会(村上幸喜会長)解散総会に出席した。相根一雄前市議は今夏の市議選に出馬せず、後継者を当選させて自らの後援会は解散されることとなった。こういうケジメをきちっとされる方は案外少ない。こういう姿勢は学ばなければならないと思った。

 今後も相根前議員には自民党綾部支部副支部長や私の後援会役員など、様々な形でお世話になりたいと思っているし、ライフワークである綾部市や志賀郷の発展に向けた取り組みにもご尽力いただきたいと思っている。

 

 111日㈭の午前中は京都府公館で開催された桂川治水利水対策協議会(西脇隆俊会長)総会および意見交換会に、府議会環境・建設交通常任委員長として出席した。

 今夏の豪雨や台風時の日吉ダムの運用や情報伝達、今後の河川整備計画などについて、沿川市町の首長、議長、国交省、京都府が集まり、熱心な議論が交わされた。

 北部は自治体の面積が大きいのでそんなに感じていないが、南部のように市域が小さく入り組んでいるところは周辺自治体が流す避難勧告などのエリアメールがたくさん入り、きちんと情報を伝えられないという声も出ていた。

 今日は、他にも「全国水源の里シンポジウム」舞鶴市で開催されており、夜には交流会もあるので、参加する予定にしている。


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雄島参り「聖地」へ

2018年06月01日 | 歴史の探求

 6に入り、1日㈮には4月の知事選の関係で遅れた府の人事異動が行われており「新年度最初の日」のような感じだ。

 今日は舞鶴市池田正義府議に誘っていただき、「雄島参り」にご一緒させていただいた。

 「雄島」は「冠島」の別名でもあり、オオミズナギドリの生息地として知られ、通常は上陸が禁じられている。綾部からみると北東(鬼門、艮)の方向にある「雄島(冠島)」と「雌島(沓島)」は大本の聖地であり、「若狭湾に浮かぶ二つの無人島で、綾部から見て北東(艮-うしとら)の方角にあります。沓島には国祖・国常立尊(こくそ・くにとこたちのみこと。艮の金神ともいう)が、冠島にはその眷属の神々が、三千年の間、隠退されていた霊場です。明治時代に沓島・冠島開きが行われ、ご神霊が綾部の聖地に迎えられました」と説明されている。

 大本出口なお開祖、出口王仁三郎聖師ら一行5人は、明治33年(1900年)旧暦6月8日に、京都府舞鶴市沖の冠島(おしま)の老人嶋(おいとじま)神社に参拝し、さらに1ヵ月後の旧暦7月8日、開祖・聖師ら一行9人冠島に並んで浮かぶ沓島(めしま)に参拝しており、そういう「聖地」を初めて訪れることができたのは本当に嬉しいことだった。

 

 山田啓二前知事ともご一緒し、行きの車の中山田前知事池田府議そういった綾部と冠島との関係を説明させてもらった。前知事も驚いておられ、池田府議「そういえば、毎年、綾部から大本の人が参拝しておられるわ。なんでかな?と思っとったんや」とおっしゃっていた。

 今回は三浜港から島に向かった。三浜、小橋、野原の三区が一年交代で当番をしておられて、今年は三浜が当番区だったそうだ。

 海は荒れており、ジェットコースターに乗っているようだったが、開祖や聖師もこういうところを手漕ぎの小舟で渡られたのだろうか?と思いながら乗っていた。

 冠島に近づき、ボートに乗り換えて次々と上陸した。「沓島(雌島)」も、よく見えた。

 海辺の石の上を歩いて、老人嶋(おいとしま)神社へ。神社での祭礼に参列した。

 祭礼の後浜辺での直会になった。

 約1時間の直会の後、再びに乗って、三浜港に戻った。三浜港では三浜区の直会があり、また約1時間ほど、ご一緒させていただいた。

 今回は池田府議のお誘いで、本当に良い経験をさせていただいた。聖地の気をたくさん浴びて、元気が出てきた気がする。多くの皆さんにお世話になり、ありがとうございました!


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音霊と言霊 歌の力と癒し

2017年10月15日 | 歴史の探求

 15日(日)は、朝からあいにくの雨めったに中止になることがない綾部地区の秋祭りの神輿渡御が中止となった。

 午前中は熊野新宮神社の当番氏子として祭礼の準備と祭礼に出席。終了後、片づけをしてお弁当をいただいて帰った。

 午後は新日本研究所(島薗進代表)シンポジウム「音霊と言霊ー歌の力と癒し」に出席した。様々な合唱団による合唱とパネルディスカッションが行われた。

 パネルディスカッション島薗代表のコーディネートで、宗教学者鎌田東二さん、作曲家新実徳英さん綾部市内で音楽教諭として勤めてこられた久木久代さんというメンバーだった。

 鎌田先生からだったか、「聴く」という「聴」の字は「十四歳の心で聞く」という意味だという発言があった。そういう素直な心で人の話を聴かなければならないのだということだった。

 音楽の持つ力と言葉の持つ力、それは両刃の剣であって、使い方を誤ると悪いことにも使えてしまう。

 

 夜は鎌倉川越などから綾部にお越しいただいた世界救世教いづのめ教団鎌倉教会松田妙子教会長はじめ関係者の方々新日本研究所の先生方合唱団の皆さんとの懇親会に出席し、乾杯の発声をさせていただいた。


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綾部藩祖・九鬼隆季公のお墓参り

2016年11月30日 | 歴史の探求

 最終日和歌山の川湯温泉を出発し、三重県の鳥羽へ。鳥羽では九鬼家の殿様ゆかりの地を探訪した。

 バスの中では初日から様々なDVDが放映された。聖地の予習、復習、そして現地での見学や法話を何度も繰り返すことで、何かよく分かったような気になってくる。

 修験者が急な坂道を登る時の言葉、「懺悔(さんげ)、懺悔、六根清浄(ろっこんしょうじょう)」頭の中に焼き付けられていく。

 

 鳥羽に着くと、現地のガイドさんの案内で、鳥羽城の見学九鬼家の菩提寺である常安寺(綾部藩初代藩主、九鬼隆季公が眠る)などを参拝した。

 常安寺では、九鬼家の祈願寺であった正暦寺玉川正信老僧の先導で、皆さんで般若心経を読経地元のガイドさん「こんなことをされる団体は初めてだ」と喜んでおられた。

 

 鳥羽での見学が終わると、一路、綾部へ。

 今回の旅行では、田中利典さんや世話役の皆さん、参加いただいた皆さんと共に、たいへん楽しく、有意義な経験をさせていただき、綾部にゆかりのある歴史も勉強できた。

 一生の思い出にも残るツアーだったと思う。修験のトップが綾部の出身であるということにも誇りを感じる旅だった。


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高野山から熊野本宮大社へ

2016年11月29日 | 歴史の探求

 高野山の宿坊・普賢院では6時半から朝のお勤めに参加。

 その後、地下の仏舎利殿などを見学した。住職がネパールからお釈迦様の遺骨(仏舎利)を持ち帰られたそうだ。

 朝のお勤めの後、朝ご飯。また精進料理日頃の荒れた食生活のありがたさを感じる。ご飯の大盛りをおかわりした。

 

 宿坊を発ち、高野山の中心、金剛峯寺にお参りした。高野山の若い職員の方に案内していただいた。金剛峯寺「こんごうぶじ」ではなく、正式には「こんごうぶうじ」と呼ぶそうだ。

 本来は高野山全体が金剛峯寺というお寺だったが、明治になって寺をどこかに決めろと政府から言われて、豊臣秀吉が母の菩提を弔うために建立した青厳寺と高山寺というお寺を合わせて、金剛峯寺と決めたそうだ。それで金剛峯寺には豊臣家の家紋が掲げられている。

 皇族や国賓クラスの方々が高野山参拝された時に宿泊される奥殿というところも特別に見せていただいたり、詳しく説明を聞くことができた。

 その後は、弘法大師の眠る奥之院へ。奥之院の参道には織田信長や豊臣秀吉の墓など、戦国大名や様々な企業のお墓もたくさんあった。

 奥之院では参加者全員で般若心経の読経を行った。

 

 高野山を後にして、龍神村で昼食の後、熊野本宮大社を参拝した。ここには綾部藩の殿様の末裔である九鬼家隆宮司がおられる。

 九鬼家は水軍大名として織田信長、豊臣秀吉に仕えたが、江戸時代になり、お家騒動で鳥羽藩から但馬の三田藩(久隆)と丹波の綾部藩(隆季)に国替えとなった。

 綾部藩の隆季公の子孫が九鬼家隆宮司であり、元々、熊野本宮の別当であったことから熊野本宮大社の宮司となられている。

 九鬼宮司にお迎えいただき、拝殿での参拝の後、熊野本宮大社の由来など、お話を伺った。

 

 この日の宿は近くの川湯温泉へ。川原に露天風呂があり、良い泉質の温泉宿で人間界に帰ってきた気がした。


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利典さんと巡る吉野・高野・熊野ツアー(初日)

2016年11月28日 | 歴史の探求

 28日(月)~30日(水)2泊3日「田中利典さんとともに巡る吉野・高野・熊野の三霊場参拝の旅」参加した。

 田中利典さん吉野山金峯山寺宗務総長を務められ、昨年、退任されて、出身地である綾部市渕垣町の林南院に戻られた。綾部でも少しずつ活動の幅を広げられているが、今回のツアーもそうした一環で催された。

 後援会長鹿子木旦夫さん、副会長木下芳信さん私の父と三人が世話人で、人数が少し足りないからということで参加させていただくことになったが、結果としては大変有意義な旅となり、参加して良かったなと感じられる濃密な内容だった。

 吉野金峯山寺熊野本宮大社、九鬼の殿様の鳥羽城、菩提寺である常安寺は初めてだったし、高野山は3度目だったが、金剛峯寺にお参りするのは初めてで、綾部ゆかりの地にまとめて行くことができて良かった。

 綾部駅に集合し、バス吉野山金峯山寺へ。

 現在の金峯山寺の五條良知管長は利典さんの実弟であり、そのお寺である東南院で、まずは食事をさせてもらった。

 食事の後は蔵王権現が祀られる蔵王堂を参拝した。五條管長もお待ちいただいており、一緒に記念撮影をしたり蔵王堂の中でご挨拶をしていただいた。前宗務総長の利典さんからも詳しく吉野修験道のことやご本尊・熊野大権現の説明があり、本当によく分かった。

 自由時間に、頭の神様である脳天大神までお参りに行ったら、すごい長い階段息が上がった。

 

 吉野を後にして、次は高野山へ。

 17時に宿坊・普賢院に着いた後、高野山の前管長である松長有慶猊下法話を聴かせていただいた。弘法大師の生い立ちや歩み、その上での真言宗や宗教のあり方について約1時間ていねいに聴かせていただいた。

 松長前管長は高野山の歴史でただ一人、管長を二期務められた方であり、特に人望厚い高僧である。この方がこういう個人的な旅行団の前で1時間も法話していただくというのは通常、あり得ないことだ。

 これは利典さんが紀伊山地の世界遺産登録のことで松長猊下と一緒に活動してこられた個人的関係があることや、父が現在、高野山金剛峰寺の枢議として高野山改革に取り組んでいることによりできた関係で可能になったことだろう。

 

 夜は宿坊に泊まった。精進料理ばかりではお腹がすいたが、夜は一緒に泊まった方々といろいろな話がゆっくりできて良かった。


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久高島オデッセイ

2016年10月30日 | 歴史の探求

 午前中は京都府PTA研究大会に出席するため、綾部小学校PTAひこばえ編集部長渡邊正則さん舞鶴市総合文化会館へ行った。

 表彰式では綾部中学校PTA表彰を受けておられ、会長哲史さん壇上に上がっておられた。

 講演漫画家高野優さんという方で、マンガを描きながら子育てについて、面白く分かりやすくお話をされた。行った価値があった講演だったと思った。

 

 午後はITビルで開催された新日本研究所(代表:島薗進上智大学教授)主催「久高島と綾部の祈りの地下水脈」というシンポジウムに出席した。

 「久高オデッセイ第三部風章」という映画を観た後、映画に関わられた宗教学者島薗進先生、鎌田東二先生、作曲家新実徳英先生鼎談をされた。

 閉会挨拶紀藤正樹弁護士から。

 鎌田先生の法螺貝最後に登場した。

 夜は18時から、シンポジウムにご参加の皆様との懇親会に出席。鎌倉、広島、三重、長野、埼玉などから約100名の方々がこのシンポジウムを聴くために綾部にお越しいただいた。

 私も乾杯の発声をさせていただいた。

 仕掛け人世界救世教いづのめ教団鎌倉教会松田妙子教会長ご挨拶された。

 合唱もあり、なごやかに時は過ぎた。


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