日曜日は、綾部商工会議所青年部主催のドッヂボール大会に小源太と涼子が出場するため、朝から上杉体育館へ。
初めてドッヂボールの試合を観戦した。両方のチーム共、1勝もできずに敗退したのは残念だったが、声を出して、すばしこく、よく頑張っていた。
温二郎も来年は出場するのだろうか?
日曜日は、綾部商工会議所青年部主催のドッヂボール大会に小源太と涼子が出場するため、朝から上杉体育館へ。
初めてドッヂボールの試合を観戦した。両方のチーム共、1勝もできずに敗退したのは残念だったが、声を出して、すばしこく、よく頑張っていた。
温二郎も来年は出場するのだろうか?
7日(金)は一日、休みにして、子ども達を木下大サーカスに連れて行った。京都競馬場の駐車場で行われていた。
僕も子どもの頃に一度だけ、舞鶴かどこかに観に行った覚えがある。
8日(土)は午前中、事務所で「げんたろう新聞」を作成し、昼はグンゼ集蔵で開催されていた「原田正義遺作展」へ。
原田さんは晩年、少しお付き合いさせていただいただけだったが、「鎧」や「枕木」の黒っぽい絵ばかりを描かれていたのかなと思ったら、明るい絵や黒っぽいところに薄桃色の桜を描かれているものもあり、興味深かった。
原田さんにはグンゼ創業者・波多野鶴吉の生涯を描いた「宥座の器」(四方洋著)の表紙絵も描いていただいた。
午後は、自民党の安藤和明支部長の誕生日をネタに飲む集まりに行き、夜は中丹文化会館で開催された「ドンドコ夏祭り」へ行った。綾部市太鼓連合会が中心となり、毎年開催されている。
朝5時から、実践倫理宏正会の平和祈念朝起会に出席。
広島に原爆が投下された日であり、アメリカによって、人類史上、例を見ない大量殺戮が行われた日だ。
福島原発事故と同列に論じる方もあるが、これらは全く次元の違うものであり、同列に取り扱うことは非常識で不見識だと思う。
午前中、元民主党代議士の牧野聖修先生が、父に会いにうちに来られて同席した。静岡市で中東和平プロジェクトを実施していただけるそうだ。
夜は市立病院の医師確保に関する件で京都へ。
火曜日は、夜に自民党綾部支部役員会を開催。20名程の本部役員、支部長さんに集まっていただき、今後の行事予定などについて、協議させていただいた。
水曜日。昨夜、櫻井春代さんの訃報をお聞きし、弔問に伺った。
あやべ福祉フロンティアの理事・介助部長として、綾部市立病院での病院介助ボランティアの立ち上げ期に大変お世話になった方だった。福祉移送の車椅子車両の利用が急増し、対応が追いつかなくなったとき、車椅子車両を寄付していただいたこともあった。
選挙や政治活動についても、積極的にご支援いただいた。「げんたろう新聞」のシール貼り作業にもよく来ていただいていたし、川糸町での新聞配布が増えるよう声をかけていただいたりしていた。
突然で、まだまだお若く、残念でならないが、心からのご冥福をお祈り申し上げます。
お寺のご都合もあり、6日(木)にご家族だけで密葬され、21日(金)に改めて告別式をされるとのこと。告別式にはお参りさせていただこうと思う。
夕方は顧問をつとめている卓球チーム「綾部紫遊クラブ」の全国2部優勝の報告に山崎市長を訪ねた。
初登録、全国大会初出場で、いきなり初優勝という快挙を成し遂げられ、今後は綾部市および周辺の子ども達や一般愛好者への指導にも力を入れて取り組んでいきたい思っておられる。
チーム結成の話を聞いたとき、僕は名前の冠にぜひ「綾部」と入れてほしいと提案し、受け入れてもらった。全国大会で活躍してもらうことで、「綾部」の名を全国に轟かしてほしいと思っていたが、いきなり、成し遂げてもらえた。
次の目標は、綾部からオリンピック選手を生み出すこと。ぜひ頑張ってほしい!
夜は、綾部幼稚園PTAの「お父さん会」に出席。
今は綾部幼稚園の園児が10名だけになってしまって、そのうちの6名が集まった。PTA会長の平魯さんにお世話になり、花山に集まらせてもらった。
初めて会うお父さんばかりで久しぶりにコンパをしているようだった。微妙な沈黙の時間もしばらくあったが、出身や勤め先を聞いたりして、少しずつ、いろんな関係も分かって打ち解けることができた。
午前中は来客等。
午後も来客等の後、家族で京都に向かい、ホテルグランヴィア京都で開催された「二ノ湯夏祭り」に参加した。
夏休みだが、ほぼどこにも連れて行っていないので、急きょ、二ノ湯真士府議にお願いしてチケットを押さえてもらった。前回行ったのは、まだ確か落選中で、小源太がかろうじて覚えているかどうかくらいだったが、今回は三人ともいろいろと楽しめるようになっていた。
僕は途中で離脱して、綾部出身の若手府職員さんの集まりに参加した。
朝7時から、正暦寺の掃除に参加。あまりの暑さに、熱中症で倒れる方もあった。並松班は客殿下などの草刈りを担当した。
午後からは事務所に来客あり。
夜も暑くて、クーラーをかけていても寝苦しい。
8月1日。綾部市制施行65周年の記念式典に出席した。綾部市になって65歳。還暦をすぎ、高齢者になっていくのだなあと思った。
功労者表彰では、四方源太郎後援会の役員もしていただいている川北淳元市議会議長、木下芳信元市議会議長、田中正行元市議会副議長も表彰を受けられた。
15時半からは、行政書士会中丹支部の研修会に講師としてお招きいただき、「集団的自衛権と憲法9条」というテーマで、お話をさせていただいた。
国会での安保法制の議論を聞いていても、何が正しいのか分かりにくいことではあるが、歴史を年表にして、時系列に添って説明させていただいた。
昭和20年8月に日本は無条件降伏し、翌21年11月に日本国憲法は公布された。
第9条は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」というものだ。
元々の草案は、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。②陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」というものだったが、衆議院帝国憲法改正案委員小委員会の芦田均委員長によって、下線部が追加修正された。(芦田修正)
9条がなぜ作られたかには諸説あるが、元々の草案を読めば、まさに日本を武装解除するためのものであり、最近、朝日新聞のアンケートに対して、憲法学者の多くが「安保法制も違憲、自衛隊の存在も違憲」と答えるのも分かる。
しかし、昭和25年朝鮮戦争が勃発するとアメリカの都合が変わり、警察予備隊が設立され、今の自衛隊につながっている。昭和26年にサンフランシスコ平和条約(同時に日米安保条約)が結ばれるまで、日本は占領下にあった。その中で作られたのが今の憲法であり、自衛隊である。
昭和30年に自民党が結党し、自主憲法の制定を党是に掲げ、これまで活動している。
自民党の憲法草案では、第9条は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。②前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。」となっている。
「戦争は絶対にいけない」というのは誰しも一致しているが、「戦争を仕掛けるのはもちろん、仕掛けられるのも避けられる限り、避ける対策をとらなければならない」という点に見解の相違があるように思う。
安全保障や危機管理というのは、最悪に最悪の想定を重ねて、取りうる最大の対策を取る必要がある。
それを「戦争屋」とか、「戦争法案」と言ってしまい、恣意的に新たな火種を生み出そうとしている人たちがいることは決して「平和」への道ではないと思う。
終了後は懇親会にも出席させていただいた。