8日㈰、今朝は電車で大阪へ。伯父の阿部淳六が平成12年(2000年)から世話人として続けてきた随筆集「くりっぷ」の「100号記念の会」がリーガロイヤル大阪で開催されたので、当初から事務局を務めてきた立場で参加した。
集まったのは10数人の同人や関係者の皆さん。初めてお出会いする方、数十年ぶりの方が多かったが、文章を通じての関係がここまで続いてきたことに敬服する。伯父は住友金属に長く勤めたので、その仕事関係の方が多かっただろうか。
また、すでに亡くなったもう一人の伯父、四方洋が主宰していた日比谷一水会という異業種交流会のメンバーも当初の同人には多かった。私は大学を出て東京の洋伯父の下で働いていた時に日比谷一水会の事務局を務めており、会員の皆さんには大変かわいがっていただいた。わずか2年弱の東京生活だったが、その内容は濃密で、今でも当時のことをいろいろと思い出す。
今日もお話をしていると思い出してきて、あの人、この人、とお世話になった方々が今は亡くなられたり、音信が途絶えていることに寂しくなって、涙が出てきそうになった。
第1号は私の手元にはなぜかないのだが、伯父のところには残っていたので、今日見せてもらった。11名の同人のうち、6名は残念ながら鬼籍に入られた。
途中からほとんど書かなくなったが、最初のうちは毎回投稿していた。第1号には「源太郎という名前の力」という文章を載せていたようだ。
今回の100号にも久しぶりに投稿した。随筆集「くりっぷ」はこの100号をもって、区切りをつけることになった。始めた頃は淳六伯父も60代半ばだった。私は20代だった。同人の皆さんもそれぞれ高齢になられ、100号が良いタイミングなのだと思う。
しかし、無性に寂しい。こんな想いになることは滅多にないのだが、自分の若かった日々が終わってしまったようでもある。
さようなら、くりっぷ!本当にありがとうございました。記録として、100号に載せた原稿をここに掲載しておきます。
『源点』くりっぷ100号に寄せて
四方 源太郎
私の手元に「大正五年正月 冬休日誌」という古い冊子がある。「本科三年、四方きく枝」と署名があるので、それは伯父の洋、淳六、そして父八洲男の母である祖母が女学校時代に書いたものだろう。
冬休みの毎日の様子が克明に記されており、「重要記事」「一般記事」「反省録」などと内容が仕分けしてある。
たとえば、十二月二十八日火曜日の「反省録」には「祖母に『女が包丁で怪我をする程、恥なるはない』とつねづねより承りぬ。不注意なりしは明かなれど一つは俎の下に物のはさまりゐてガタガタ動くをも忙しさに忘れてそのままにしゐたるより起りき…」などと書いてある。
祖母は女学校を卒業してすぐに祖父に嫁ぎ、戦前戦後の何もかもが欠乏していた時代に十人の子どもを産み育てた。伯父の洋が書いた作文を祖母が丁寧に添削した原稿用紙が昔、蔵から出てきたことがあったが、そこから見えてきたのは子どもの教育に熱を込め、厳しく育て上げようとする「教育ママ」の姿だった。
祖母は子どもや孫から届く手紙や作文を読むのをとても楽しみにしていたと伯父や父から聞いている。子ども達は皆、「おかあちゃん」が喜ぶ顔を思い浮かべて近況をつづり、せっせと手紙を出していたことだろう。
この祖母の影響もあったのだろうか、洋伯父は新聞記者となり、生涯「書く」ことを仕事とした。私は大学卒業後、洋伯父に東京での仕事を用意してもらい、その下で2年弱働いた。自分が書いた文章を添削してもらったり、伯父の文章をテキスト入力したりすることもあった。
伯父が私の文章の語尾や順番を少し変えるだけで、急にのびのびとした文章に変わっていくのはマジックのようだった。新聞記者独特の漢字使いで、我々が漢字にするところもひらがなで書いていたが、あれほど柔らかく、速く、洒脱な文章を書く人に私は出会ったことがない。私にとっては「文章の神様」だった。
東京時代には文章だけでなく、人との付き合い方など、様々な勉強をさせてもらったことを思い返して感謝している。
一方、淳六伯父には「書く」イメージがなかった。その淳六伯父が現役を退いてしばらくした頃、随筆集「くりっぷ」をやりたいと相談があった。
「原稿用紙をコピーしてクリップで止めたくらいの簡単なもので、印刷というようなものでなくても良い」と言われたが、当時、印刷デザインの会社を始めた頃だった私は、編集ソフトを使ってそれらしい冊子を作り、伯父に喜んでもらった。
失礼を承知でいうと、淳六さんの文章力は「くりっぷ」によってどんどん上がり、洋さんとは違った意味で味のある面白い文章を書かれるようになったと思う。
淳六さんは洋さんと逆で、我々がひらがなで書くところも漢字にされる。漢字になると意味や語源がはっきりしてくるし、文章の裏付けとなる知識の豊富さとしつこいほどの調査力には感心させられる。
山が好きで山に登る人に様々なルートや登り方があるように、洋さんと淳六さんは違った手法ながら、結局は同じように「読むことも書くことも大好きな人」だった。そしてその二人の根っこには同じく「読むことも書くことも大好き」だった祖母がいるのだと思う。
「くりっぷ」100号の記念に何か書こうかと考えた時、「くりっぷ」「淳風」、読み切れないほどのたくさんの文章を渡す淳六さんと「淳六が書いてくれた!」とそれを嬉々として受け取る祖母の姿が思い浮かんだ。
淳六さんは「おかあちゃん」に喜んでもらおうと、たくさんの文章を書いた、「くりっぷ」への愛情、熱情はそこから来ていたのかもしれないな、とその時に思った。
私は「くりっぷ」のことは事務所の田中久美さんに全てお任せで長らく投稿もしていませんでしたが、時々、校正をすることで、同人の皆さんのこれまでの経験やお考え、様々なエピソードを楽しく読ませていただいていました。
久しくお出会いしていない方、出会ったことがない方もほとんどですが、皆さんが本当に「読むことも書くことも大好き」なことは、その文章やいただくお便り等から強く伝わってきていました。
「くりっぷ」100号、おめでとうございます!皆さんとの良い思い出、文章を通したつながりができたことに心から感謝いたします!そして、本当にありがとうございました。