8月9日は長崎の原爆の日です。
長崎県の実家を訪れている今、テレビで原爆忌の式典を見ていると、以前に平和公園や原爆資料館で見たその時の悲惨な状況を改めて思い出しています。
私はその頃、長崎には住んでいませんでしたので、原爆のことは知らないで生きてきましたが、私の夫は小学校1年生の時に被爆しています。幸いに今のところ健康に暮らしていますが、当時のことはよく覚えていて、悲惨な状況を何度も聞かされました。
眼鏡橋の傍の川の中にはたくさんの死体が転がっていて、後始末のお手伝いをしたのだそうです。
自分達の小学校の校舎は原爆病院になり、夫は小学校6年まで近くのお寺で勉強をしたそうです。
被災地の中心にあった城山小学校の生徒達が平和を願う歌を歌っていました。昨年までこの学校の校長先生をしていらした前波先生は、大學の山岳部の後輩ですが、学校に残されていた原爆関連の貴重な資料を整理し、写真を復元して、資料館を作るのに貢献されたと聞いています。
オバマ大統領の「世界から核をなくす!」ことが一日も早く現実になるよう祈らざるを得ません。
長崎県の実家を訪れている今、テレビで原爆忌の式典を見ていると、以前に平和公園や原爆資料館で見たその時の悲惨な状況を改めて思い出しています。
私はその頃、長崎には住んでいませんでしたので、原爆のことは知らないで生きてきましたが、私の夫は小学校1年生の時に被爆しています。幸いに今のところ健康に暮らしていますが、当時のことはよく覚えていて、悲惨な状況を何度も聞かされました。
眼鏡橋の傍の川の中にはたくさんの死体が転がっていて、後始末のお手伝いをしたのだそうです。
自分達の小学校の校舎は原爆病院になり、夫は小学校6年まで近くのお寺で勉強をしたそうです。
被災地の中心にあった城山小学校の生徒達が平和を願う歌を歌っていました。昨年までこの学校の校長先生をしていらした前波先生は、大學の山岳部の後輩ですが、学校に残されていた原爆関連の貴重な資料を整理し、写真を復元して、資料館を作るのに貢献されたと聞いています。
オバマ大統領の「世界から核をなくす!」ことが一日も早く現実になるよう祈らざるを得ません。