終戦記念日を前にして、以前書いたものですが、もう一度
載せずにはいられません。
『今なお屍とともに生きる』という小冊子のことです。
沖縄戦で重傷を負い、ガマ(洞窟)に 取り残されて3カ月。
雨水を飲んで生き延び、奇跡的に助かった「日比野勝広」
さんのことを、4人の娘さんたちが 2008年に 自費出版
したものです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日比野さんは右腕をやられ、破傷風に罹った。「破傷風は
99%死ぬのだから治療するのは無駄。食料も与える
必要なし」と、軍からも野戦病院からも見放され、多くの
重傷患者とともにガマに取り残された。
灯りも無い 真っ暗な闇、次々死んでいく仲間の死臭と
垂れ流しの汚物の中、深夜 聞こえるものは 傷口に
群がるウジ虫が蠢(うごめ)く音。まさに阿鼻叫喚の
地獄。
まもなくして、一人の兵隊が 民間人とともに食料を
持って逃げこんできた。しかし、その兵隊に「ひと粒の
米もやれん」と云われたことで、「人の助けをあてに
してたら 恨みだけが残る。自分のことは自分で」と
“生”への執念を燃やす。
すると 不思議と 破傷風も治り、夜には 空気穴から
這い出して、水を汲んだり、野草などを採って、
動けない仲間に食べさせたりした。その友も次々
死んでいった。
5月15日から3ヵ月、その間も、空気穴から
爆弾を投げ込まれたり、入口を爆薬で封鎖され、
近くにいた仲間が吹き飛ばされる。
それでも日比野さんは生きつづけ、助け出されたのは、
戦争も終わった1カ月後の9月。
日比野さんは分隊長だった。多くの部下を死なせ、
自分ひとりが生き残ったという悔悟の念で、戦後、
部下や同僚の遺族を訪ね歩いた。その時 浴びせ
かけられた言葉は「あなただけどうして生き残った
のか。どこに隠れていたのか」との謗(そし)りだった。
そして、日比野さんは戦後何度も沖縄に行き、戦跡と
「糸数のアブチラマガマ」を巡り、「おーい、おーい」と
亡き戦友の名を呼んで、供養を行ってきた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
父「勝廣」さんの手記や話しをまとめた後、娘さん
たちが それぞれ 父について書いています。
長女は「子供の頃は、しょっちゅう戦友たちが家に
来ており、父は 家族より戦友の方が大事でした。
生活も苦しいのに、お金を工面して沖縄に行く父。
いつも戦友のことばかりに心を向けている父に
反感すら覚えた」と。
「勝廣」さんは、戦後もずっと、暗闇を恐がり、
夜中に寝言で「お~い、お~い」と人を呼ぶ声を
口にした。
そして「勝廣」さんは 戦後 何度も沖縄を訪れて
いますが、晩年になって、年老いた父親に付き添って
娘さんたちも沖縄に行くようになります。
アブチラガマ(洞窟)に着くと、「勝廣」さんは
「お~い、お~い」と亡き人の魂に呼びかける。
その父親の後ろ姿に、娘さんたちは「父は 今なお
屍とともに生きているのだ」と判ったと。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
薬が無くても、右腕の銃創と破傷風が治り、光の無い
闇の中で、汚物と蛆にまみれて、草をかじってでも、
3ヵ月も生きれた。まさに奇跡なのでしょうが、
人間の運命と生命力の強さを信じさせられます。
私の父もそうでした。マラリヤに罹り、薬も無く、
戦場に取り残されます。戦場で一人残された時の
恐怖が ふと甦るのか、時折「お~い、お~い」と
仲間を呼ぶ声をあげていました。
父も、奇跡的にマラリアが治ります。(この父の
体験から、「薬など無くとも マラリアでもなんでも
病気は、自力で治せるというのが、私の信条です。
3ヵ月ほど前 痛かった虫歯が、歯医者に行かずとも
治りました!
そして私も、父の口ぐせが移ったのか、一人で
いる時、「お~い、お~い」と 口にします。
戦後まもなくは、引き揚げてきて住むところの無い
戦友をわが家に泊めていたようです。
載せずにはいられません。
『今なお屍とともに生きる』という小冊子のことです。
沖縄戦で重傷を負い、ガマ(洞窟)に 取り残されて3カ月。
雨水を飲んで生き延び、奇跡的に助かった「日比野勝広」
さんのことを、4人の娘さんたちが 2008年に 自費出版
したものです。
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日比野さんは右腕をやられ、破傷風に罹った。「破傷風は
99%死ぬのだから治療するのは無駄。食料も与える
必要なし」と、軍からも野戦病院からも見放され、多くの
重傷患者とともにガマに取り残された。
灯りも無い 真っ暗な闇、次々死んでいく仲間の死臭と
垂れ流しの汚物の中、深夜 聞こえるものは 傷口に
群がるウジ虫が蠢(うごめ)く音。まさに阿鼻叫喚の
地獄。
まもなくして、一人の兵隊が 民間人とともに食料を
持って逃げこんできた。しかし、その兵隊に「ひと粒の
米もやれん」と云われたことで、「人の助けをあてに
してたら 恨みだけが残る。自分のことは自分で」と
“生”への執念を燃やす。
すると 不思議と 破傷風も治り、夜には 空気穴から
這い出して、水を汲んだり、野草などを採って、
動けない仲間に食べさせたりした。その友も次々
死んでいった。
5月15日から3ヵ月、その間も、空気穴から
爆弾を投げ込まれたり、入口を爆薬で封鎖され、
近くにいた仲間が吹き飛ばされる。
それでも日比野さんは生きつづけ、助け出されたのは、
戦争も終わった1カ月後の9月。
日比野さんは分隊長だった。多くの部下を死なせ、
自分ひとりが生き残ったという悔悟の念で、戦後、
部下や同僚の遺族を訪ね歩いた。その時 浴びせ
かけられた言葉は「あなただけどうして生き残った
のか。どこに隠れていたのか」との謗(そし)りだった。
そして、日比野さんは戦後何度も沖縄に行き、戦跡と
「糸数のアブチラマガマ」を巡り、「おーい、おーい」と
亡き戦友の名を呼んで、供養を行ってきた。
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父「勝廣」さんの手記や話しをまとめた後、娘さん
たちが それぞれ 父について書いています。
長女は「子供の頃は、しょっちゅう戦友たちが家に
来ており、父は 家族より戦友の方が大事でした。
生活も苦しいのに、お金を工面して沖縄に行く父。
いつも戦友のことばかりに心を向けている父に
反感すら覚えた」と。
「勝廣」さんは、戦後もずっと、暗闇を恐がり、
夜中に寝言で「お~い、お~い」と人を呼ぶ声を
口にした。
そして「勝廣」さんは 戦後 何度も沖縄を訪れて
いますが、晩年になって、年老いた父親に付き添って
娘さんたちも沖縄に行くようになります。
アブチラガマ(洞窟)に着くと、「勝廣」さんは
「お~い、お~い」と亡き人の魂に呼びかける。
その父親の後ろ姿に、娘さんたちは「父は 今なお
屍とともに生きているのだ」と判ったと。
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薬が無くても、右腕の銃創と破傷風が治り、光の無い
闇の中で、汚物と蛆にまみれて、草をかじってでも、
3ヵ月も生きれた。まさに奇跡なのでしょうが、
人間の運命と生命力の強さを信じさせられます。
私の父もそうでした。マラリヤに罹り、薬も無く、
戦場に取り残されます。戦場で一人残された時の
恐怖が ふと甦るのか、時折「お~い、お~い」と
仲間を呼ぶ声をあげていました。
父も、奇跡的にマラリアが治ります。(この父の
体験から、「薬など無くとも マラリアでもなんでも
病気は、自力で治せるというのが、私の信条です。
3ヵ月ほど前 痛かった虫歯が、歯医者に行かずとも
治りました!
そして私も、父の口ぐせが移ったのか、一人で
いる時、「お~い、お~い」と 口にします。
戦後まもなくは、引き揚げてきて住むところの無い
戦友をわが家に泊めていたようです。