現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

人間機雷「伏龍」

2013-08-17 17:02:34 | 太平洋戦争
8/17中日新聞「中日春秋」より転載。


靖国神社にある「遊就館」の片隅に奇妙な像がある。
潜水服姿で頭には大きなかぶと。両手で長い棒を持ち、
身構えている。先端に付けられているのは機雷である

▼八月十五日の遊就館は見学者であふれていたが、
この像をあまり気に留める人はいない。それはそうだろう。
本土決戦を水際で食い止める「人間機雷」の存在は
ほとんど知られていないのだから

▼敗戦直前に横須賀や呉などで部隊が編成され、三千人
近くの若者が潜水訓練を受けた。上陸する米軍の舟艇を
水中で待ち構え、竹ざおの先の機雷を突き上げて自爆する。
「伏龍」と名付けられた水際特攻隊である

▼空を飛ぶ夢を失った予科練の少年兵たちは、ひたすら
死に向かう訓練に明け暮れた。本土決戦が回避されたために
実戦には至らなかったが、潜水具には構造的な欠陥があり、
多くの若者が訓練中の事故で命を失った

▼当時の戦争指導者の愚劣さが凝縮されている人間機雷を
考えたのは、参謀として真珠湾攻撃の作戦を立案した人物だ。
自らを犠牲にして祖国を守ろうとした少年たちの命を
ここまで軽く扱うのか。以前、取材した時に心底、怒りが
わいた

▼戦争が長引けば伏龍の要員になるはずだった人物に
「城山三郎」さんがいる。特攻を命じた側に常に厳しい
視線を向けた作家の原点だろう。「日本が戦争で得たのは
憲法だけだ」。城山さんの言葉が重く響く。


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私も8/15 靖国神社の「遊就館」に行ってみましたが、
すごい人でとても入館できず。以前見学しましたが、
この「像」には気がつきませんでした。
「伏龍」については知っていました。

ネットで検索すると、中日新聞(東京新聞)記者の
「瀬口晴義」氏が『人間機雷「伏龍」特攻隊』(講談社)と
いう本を出していました。

横須賀だけで3名、全国では数十名の命が、うやむやに
葬りされた。軍部首脳の愚劣ここに極まれり。あの戦争を
「聖戦」と称える「遊就館」ですが、「伏龍」の像を
見た人は、どう思うのでしょうかね。

全く「人間機雷」は「人間嫌い」に通じる。

容保の養子「喜徳」と実子「容大」について

2013-08-17 16:51:30 | 会津藩のこと
会津藩主「松平容保」の養子「喜徳」と 実子「容大」について、
コメント欄に、詳しい情報をいただきましたので、掲載させて
いただきます。

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喜徳は「容大」が生まれたから、水戸に帰されたのでは
ありません。

明治6年 実父の旧水戸藩主「徳川斉昭」の22男である
松川藩知藩事「松平頼之」が死去したため、「喜徳」は
「容保」との養子縁組を解消し、実弟である「頼之」の
養子となって、その家督を相続したはずですが。

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いやぁ、徳川斉昭には驚きました。正室のほかに9人の側室があり、
男子22人、女子15人の計37人の子沢山。正室が生んだ
7男「慶喜」が 最期の将軍となります。そして第19男の「喜徳」が
弟(第22男)の養子になるとは・・・。

さらに、詳しく御教授いただきました。

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「容保」は14歳の時に(養父で会津藩主)「容敬」の5女{敏姫」と
結婚するが、「敏姫」は19歳で死去。

側室は田代孫兵衛の娘の「佐久」と、川村源兵衛の娘の「名賀」の
2人いた。 「佐久」は容保が京都守護職時代、身の周りの世話を
していた。その佐久との間に、長男の「容大」、次男の「健雄」、
5男の「英夫」、7男の「保男」を生む。

一方、「名賀」との間には、長女の美称、次女、3男、4男、
6男の「恒雄」が生まれる。


「容大」は 明治2年6月3日(新暦1869 年7月11日)生れですから、
「佐久」が身篭ったのは、旧暦で言うと7月25日前後。二本松が
陥落する前です。


「容保」は「敏姫」が亡くなった後、加賀「前田家」の14代藩主
「前田慶寧」の長女「禮姫」と婚約していました。
しかし、京都守護職、戊辰戦争と時局多難の折、婚儀は延期され、
明治4年(1871年)、婚約は解消されています。「禮姫」は「容保」と
逢うことは無く、後に「榊原政敬」に嫁いでいます。

「敏姫」の後「浦乃局(関山通子)」を正室に迎えたという話も
ありますが、公式記録にはありません。

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以上、コメントにいただいた文章は、もっと詳しいのですが、
略させていただきました。

ところで、小生「容保に隠し子が?」という記事を読んだ
記憶があるのですが・・・。その子は、桑名?にいて、
明治になって、小学校に上がり、「父は容保」と明かすと、
教師や仲間から「賊の子か」とさんざんいじめられた為、
以後 出自をひたすら隠してきた」という内容でした。
「葵の紋入りの短刀」を所持していたとのこと。
京都守護職在住の時の子でしょうかね。