何年か前、松江市教育委員会が「はだしのゲン」を「閉架」措置とした件で、
「戦争の惨酷さ、愚かさ、原爆の悲惨さを描き、平和を訴える本」なのに、子供たちに自由に読ませないようにするとは何事かと、各方面から批判が起きた。
それに対して、産経新聞の論説。
◆残虐な表現多い
「中国人の首を面白半分に斬ったり、妊婦の腹を切りさいて中の赤ん坊を引っ張り出したり、女性の性器の中に一升ビンがどれだけ入るかたたきこんで骨盤をくだいて殺したり…。旧日本軍の「蛮行」が「これでもか」というほど描かれている。
「平和の尊さを学ぶ」というより、人間社会の「悪意」と「憎しみ」ばかりを印象に刻み、グロテスクな表現と、登場人物の自己中心的な言い分にうんざりさせられる内容で、「平和への思いに子どもたちが共感する」とは 思えない。
◆特に天皇に対して、作者の思想の反映か、異様なまでの憎悪が向けられる。
「いまだに戦争責任をとらずにふんぞりかえっとる天皇」「殺人罪で永久に刑務所に入らんといけん奴(やつ)はこの日本にはいっぱいおるよ。まずは最高の殺人者、天皇じゃ」
◆反日運動に利用されている
「はだしのゲン」は、韓国では全10巻3万セットを売り上げるベストセラーになっている。それは「原爆の悲惨さ、平和の尊さ」を学ぶというより、韓国の「反日」運動の 論拠の一つとして利用されている。
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なるほど、全10巻、全部を読まずに、閉架措置を批判している人も多そう。
「下村博文文部科学相」は、松江市教委の「閉架」措置についてOKを出した。
「子どもたちが誤って解釈する恐れがあるため、『教員と一緒に行う学習活動を大切にしたい』という考えに基づくもので(閉架措置は)問題はない。学校図書館には、子どもの発達段階に沿う教育的配慮の必要がある。
児童生徒の自由な閲覧を避ける判断は、教委の当然の権限」と。
さすが 文科相としての冷静な判断。
さて、これを読んで、同調する人と、嫌悪する人に分かれる。それは生まれ育った環境、出自にもよるものか。
『はだしのゲン』をめぐっての賛否両論。つづき
松江市教委が市内の小中学校に閲覧制限を求めたことが発端。
松江市には「閉架措置撤回」を求める声が 3,000件も寄せられた
とのこと。
ネットでの「賛否」対決の結果は。
堺市の学童保育指導員「樋口徹」氏が、「制限撤回」を求めて呼びかけた電子署名は「約 2万1千人」。
これに対し、「やっぱりいらない『はだしのゲン』閲覧制限支持」派の署名は、出遅れたこともあって1000票に届かず惨敗。
松江市が「閲覧制限」に踏み切ったのは、たった一人の人の陳情だった。
その内容は、「ありもしない日本軍の蛮行が描かれており、子どもたちに間違った歴史認識を植え付ける」というもの。
これには、私としては反論したい。『はだしのゲン』に描かれている軍人の蛮行行為は、五味川純平の『人間の条件』にも書かれているし、元日本兵の証言も多くある。私の父の『従軍記』にも捕虜の首切りの話が書かれてある。それを「ありもしない蛮行」とは言い切れない。
しかし、「原爆の被害を受けたのも、軍部のせい、その最高指導者である天皇を殺せ」とか「国旗・君が代」の拒絶まで書かれていることは、教育の現場にはふさわしくないと云える。
「公益社団法人・実践倫理宏正会」の創始者「上広哲彦」氏は、広島で原爆に遭い、原爆病と被爆者への差別、日教組と闘いながら、「アメリカを恨んではいけない。国を責めてもいけない。どんな境遇の中でも、すべてを受け入れ、たくましく生きる力が必要」と、日本人の誇りである「日の丸」を掲げて「朝起会」を始めたのでした。その方がよほど教育的であろう。
アッツ島が全員玉砕したのに対して、全員無事撤退したのがキスカ島。
キスカ島はアッツ島よりさらに東、アラスカに近い島。
1943年(昭和18年)5月12日、アメリカ軍はアッツ島に上陸。
アッツ島の日本軍守備隊2600名は全滅、玉砕した。
キスカ島には 陸海軍あわせて6,000名余がいたが、、周囲をアメリカ軍に包囲され、完全に孤立してしまった。
陸軍大本営はアッツ島の救出は放棄したが、その代償として海軍と連携し、キスカの守備隊救出を決めた。
当初、潜水艦による救出を試みたが、アメリカ軍にレーダーで捕捉されて攻撃されたりで、成果は上がらなった。
日本軍はガダルカナルの撤退でも失敗しており、北に向かわせる船も重油も余裕が無いなか、駆逐艦10数隻でキスカに向かった。
途中、濃霧で艦船同士が衝突し離脱する船もあり、最終10隻で決行。
7月30日、濃霧で視界ゼロの中、船と船をロープでつなぎ、島の西側から岩づたいに東の湾に侵入。一時的に晴れ間も出、わずか55分で5200名を収容して帰還した。
当時、アメリカ側は、島を包囲していた巡洋艦等を、燃料補給のために一時的に撤退させていたことなど、偶然が重なっての奇跡の脱出だった。
その後、アメリカ軍は猛攻を開始、上陸を試みるが、日本軍のバンザイ突撃を警戒して、疑心暗鬼、同士討ちをするなど一時混乱したが、結果、島はモヌケの殻。
日本軍は米軍を撹乱させるため『ペスト患者収容所』と書かれた立て看板を兵舎前に残して行った。通訳官として従軍していたドナルド・キーンがこれを翻訳すると上陸部隊はパニック状態に陥ったという痛快話も。
なお、キーンはペスト感染を疑われ、検査のため後方に送られて、そのまま終戦を迎えたとのこと。
辰口信夫 | |
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1911年8月31日 – 1943年5月31日 | |
30歳頃。近衛第一連隊への配属直後の辰口。
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生誕 | 大日本帝国・広島県 |
死没 | アメリカ合衆国・アッツ島 (アリューシャン列島) |
最終階級 | 曹長 |
辰口 信夫は、1911年生、父親もアメリカに留学し、敬虔なキリスト教徒であったため、彼もアメリカに留学、医師免許を取得、医術をもってキリスト教の伝道師として帰国。
昭和16年 軍医として招集されたが、敵国アメリカの大学を出ているという経歴か将校にはなれなかった。
昭和18年(1943)5月12日、アメリカ軍がアッツ島に上陸。
日本軍の守備隊は約2700名。圧倒的な艦砲射撃と空爆で死傷者続出。
1000人余が野戦病院にいたという。
守備隊は、物資や援護の補給もないと判断し、傷病兵を自決させ、自力で死ねない者を殺し、最期全員バンザイ突撃をして玉砕した。
戦死者の一人、堀口信夫の胸のポケットから日記が発見された。
その中にアメリカ人の名前と住所が書かれていたことから、注目を集め、その日記がアメリカに渡り、翻訳されて広まった。
5月12日の日記では、「母艦機飛翔、我軍応射、霧低きも山頂は明瞭、山頂に退避す。空襲は十時ごろ頻繁。地上炸裂音を聴く、それは艦砲射撃なり。
(中略) 一日中多忙。空襲、艦砲射撃、米軍の上陸」。
夜20時 本部前に集合あり。野戦病院隊も参加す。最後の突撃を行ふこととなり、入院患者全員は自決せしめらる。僅かに33年の命にして、私は将に死せんとす。但し何等の遺憾なし。天皇陛下万歳。
聖旨を承りて、精神の平常なるは我が喜びとすることなり。
18時 総ての患者に手榴弾一個宛渡して、注意を与へる。
私の愛し、そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻 耐子よ、さようなら。どうかまた会ふ日まで幸福に暮して下さい。
ミサコ様、やっと四才になったばかりだが、すくすくと育って呉れ。
ムツコ様、貴女は今年2月生れたばかりで父の顔も知らないで気の毒です。
○○様、お大事に。○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、さようなら。
敵砲台占領の為、最後の攻撃に参加する兵力は一千名強なり。
敵は明日我総攻撃を予期しあるものの如し」。
アメリカでは、「軍医であり、クリスチャンだった堀口が傷病兵を殺した」とショッキングに伝えられたが、やがて「それが日本人の社会、精神文化」と、擁護する者も現れ、日本人を理解する貴重な資料として、アメリカでは広く読まれたという。
瀬戸線清水口駅前の小さな洋品店。私の舞台衣装のタキシードは皆ここで仕立ててもらった。ブランド名を「Attu」。
店の主 曰く。 「太平洋戦争で、アッツ島の守備隊は全員、無事脱出したんですよ。それにあやかって」と。
おいオイ。無事脱出したのはキスカ島。アッツ島は全員玉砕したのだ。でもそう信じている人に 言っても気の毒かと、そのまま否定はせずにいた。
ネットで「アッツ島の戦い」を見れば、実に詳細に語り尽くされている。大半が、軍上層部の無能、無策、責任隠蔽で、「全滅」よりは「玉砕」の方がかっこいいと、その後の戦意高揚に利用されることになった と。
兵隊はずっとずっと「援軍が来る」と信じていたのだ。それが最後の最後、「全員玉砕せよ」の命令を受けて、重症者は自決、かろうじて歩ける傷病兵も、武器も持たされず、米軍の前に立ちはだかり、非業の死を遂げたのだ。その幽鬼の如き形相に、米兵の中には発狂する者もいたとか。
戦死 2,638名。負傷して意識を失い捕虜となった者29名。うち一人は、意識が回復すると投身自殺した。他の者も意識が回復すると、自決しようとしたという。
なんということだ。生き残った者も「戦史」から消され、戦後は悲惨だった。
アッツ島守備隊を見捨て、見殺しにした責任を転嫁し、それを戦意高揚に利用した軍上層部に怒りがこみあげてくる。守備隊長「山崎保代」は、僧侶の次男だった。名古屋の陸軍幼年学校を出ている。最後のバンザイ突撃では真っ先先頭を駆け、銃弾に倒れた。カナダの医学校に学んだ医師「辰口信夫」の日記も 涙が止まらない
アッツ島は「熱田島」と呼ばれていた。名古屋に縁があったのだ。
広島・長崎への原爆投下は、戦争を終結させたいと願う天皇とその側近にとって、本土決戦を主張する「徹底抗戦派」を封じ込めるためのシナリオだった。
しかし、その被害の大きさ、悲惨さは想定外で、終戦1ヶ月も過ぎると、被害報道は禁止された。
しかも、「今後70年は草木が1本も生えないだろう」との噂を否定し、アメリカからの調査団が、早々と「放射能の汚染は無くなった」と発表し、生き残った人も次々と原爆症で死んでいく事実が伏せられたのである。
マッカーサーは「アメリカは原爆被害者の救援をする必要はなし」と日本政府に通告し、日本政府は、スイス、ジュネーブの国際赤十字からの救援を断ったという。
アメリカは、原爆の被害を他国に知られたくなかった。「原爆がいかに人道場許せない結果を招いたか」などと、世界にアッピールされることは、アメリカにとっては、対ソ外交上も不利であったからだ。
もう一つは、原爆の効果を測るデータは、アメリカだけの極秘にしたかった。生き残った人たちの証言は、「病院に行けといわれて、てっきり治療してもらえるのかと思ったら、全身裸にされて、じろじろ見られ、被爆した時の場所、爆心地からの距離などを細々聞かれただけだった。その後も定期的に病院に行かされたが、その都度、病状の経過を測定するだけで、治療はなにもしてもらえなかった」という。
こうして、治療も受けられず、毎日何人もの人が死んでいった。もっとも、原爆の治療法など、当時のアメリカも判らなかった。広島・長崎の被爆者は、原爆症のモルモットにされたのだ。
その代償として、天皇の地位は保全され、国体は護持され、日本はアメリカの統治によって、ある意味では信じられないほどの“恩恵”に浴することになった。
破壊しつくされた広島
爆心地から4㌔離れて残った旧陸軍病院宇品分院。ここで181冊の報告書になる最初の調査が行われました。
収容された被爆者は、2ヶ月間でのべ6,000人を超えました。
大本営の指揮の下、宇品での調査を指揮したのは陸軍省医務局です。
原爆投下から2日後の8月8日、広島に調査団を派遣し敵国アメリカが使った新型爆弾の調査にのりだしていました。
調査の結果は1冊の報告書にまとめられました。
タイトルは「原子爆弾に依る広島戦災医学的調査報告」
・ 被爆した人がどのように亡くなっていくのか放射線が体をむしばんでいく様子が詳細なデーターとともに記載されています。
・ どのように進行していくのか
証言者 沖田博(89才)さん
広島の部隊にいて爆心地から1㌔の兵舎で被爆。突然異変が現れ宇品に運ばれてきまし た。治療を受けられず毎日検査ばかり続いた。
報告書には沖田さんの記録も。危険な様子が克明に記録されている。
回復の過程も調査の対象にされた。2ヶ月間調査「モルモットだった」と言います。