日本軍は中国大陸で誰と戦っていたのか?
中国では蒋介石の国民党軍と毛沢東の共産党軍が激しく対立し内戦状態にあった。中国北部の華北地方では関東軍によって清朝最後の皇帝溥儀を迎え満州国が成立。その満蒙開拓団は馬賊と、毛沢東率いる共産軍(八路軍)の襲撃に悩まされていた。8月9日ソ連が国境を越えて侵入してくると、関東軍はいち早く逃げ出し、置いてきぼりにされた満州開拓団はソ連兵と馬賊と八路軍の襲撃に遭い、さらにソ連へ抑留とその悲劇は言語に絶する。
だが、中支・南支方面の日本軍は連戦連勝、優勢だった。
蒋介石の国民党軍は南京を首都としていたが、1937年(昭和12)12月日本軍に攻められて重慶に逃れた。日本軍は、蔣介石と対立して重慶を脱出した汪兆銘を担いで、1940年(昭和15)3月「南京国民政府」を新たに樹立した。であるから南京、上海では日本軍は我がもの顔だった。
しかし日米開戦によって重慶国民党軍を支援するアメリカが日本軍への空爆を行った。国民党軍は逃げまわるだけで、日本軍の敵はアメリカの飛行機だった。
8月15日の停戦で、日本は重慶国民党軍に降伏した。蒋介石は共産軍との争いに備えて、日本軍の力を借りたいという気持ちもあって、日本軍に寛大な処置を命じた。
父は会津若松65連隊に入隊したが、翌年主計少尉になって第13師団、新潟県新発田の歩兵116連隊に転属。
帰還した者 3,500名。帰れなかった者 1,700名である。3人に1人が命を落とした。
中国に残してきた戦友のことを思うと「すまぬ、すまぬ」の思いで、父も戦争を語ることは無かった。
定年退職後65歳を過ぎて、秘かに『従軍記』を書き遺していた。
父の『従軍記』を読むと敗戦で「中国人の報復を怖れたが、「多くの中国人は、温厚で寛大で、同情してくれ、友好的だった」という。
父は主計だったので、食料の調達、調理、衣服などの運搬に、何人かの中国人を苦力(クーリー)として使っていた。苦楽を共にしてきた仲でもあり、情も通いあい、「我々の撤退に、どこまでも着いてきた」とも。
「壮年を苦役に連行した」という罪で、父も戦犯に問われるところだったが、訴え出る人が居なかったために救われた。
武装解除も整然と行われ、中国人による略奪などは無かった。捕虜収容所といっても、土地を指定されて、そこに自分たちで宿舎を建て、自炊生活をすることとなった。中国の村の長は、将校を自宅に迎えて、食事の接待などもしてくれた。勝者の驕りも威圧も無く、「(日本帰国後も)また、来ることがあったら、歓迎しましょう」と、その寛容さに感服した。
捕虜収容所での生活は、軍隊同様、規律正しく、各種作業も分担してスムースに行われていた。兵隊は、収容所を出て、道路や家の復旧、農耕の手伝いをして
その報酬として、食料・煙草を分けてもらったりした。
時には、無聊を慰めるため、運動会や相撲大会、演芸大会なども行われた。これがまた、芸達者な人がいるもので「玄人はだしの芸に、拍手喝采、沸き立った」
という。
武装解除でも自衛のためのピストルと日本刀は所持を許された。それで世話になった中国の村長にお礼として日本刀を置いてきた。
いよいよ上海に集められると、中国の警備兵に腕時計、毛布類まで略奪されたが、ただひたすら、日本に帰れるならばと、されるがままに耐えた。
最後の最後、江順丸で支那海を渡り、佐世保に着いた所で、海が荒れ船が座礁する。「ここまで生き長らえてきたのに、ここで天命尽きるか」と、覚悟したが、アメリカの上陸用舟艇に救助される。「昨日まで“鬼畜米英”と憎んできた米兵に助けられるとは」と、父は述懐している。