現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

広島原爆は予告されていた 4

2021-08-08 19:58:38 | 太平洋戦争

広島も長崎も、原爆投下の日時は予告されており、軍の首脳部は知っていた」という。

原爆投下の前日に「(西部方面)第二総軍」の幹部クラスの会合が行われていた。

畑俊六総司令官以下、若松只一岡崎精三郎の両参謀、太宰博邦特高警察課長、さらに、高野源進広島県知事といった最上級幹部クラスは生き残っているのだ。

高野知事は、前夜遅くまで畑俊六司令官と酒を飲み交わしておりながら、翌朝8時15分の原爆投下の時間には なんと福山に居た。昼間の空襲を避けて、夜に移動する情勢下にあったとはいえ、なぜ福山に行ったのか、用件ははっきりしていない。
原爆投下の後、10時間かけて広島に帰り、即「復興対策本部」を立ち上げている。

畑司令官自身、原爆の破壊力のすごさは把握できていなかったであろうが、とりあえず、何人かの人に原爆投下の危険を知らせた。

前日の会合に集まったメンバーの中で、畑俊六に楯突いた粟屋広島市長は 家族とともに爆死している。「6日の朝8時までに、西部方面の将校全員、学徒動員の中学生を集めろ」という命令に対して、粟屋広島市長は「今、広島に集めても仕事も無いし、食料もない」と反対した。それに対して畑は「一週間たてばわかる」と答えた。

広島市長が抱いた疑問「なぜ、6日の朝8時までに、大勢の人を集める必要があったのか。それは、

広島は当時市民の大半が疎開してしまって、空っぽだった。「これでは原爆の被害者のサンプルがとれぬ」というアメリカの極秘要請にこたえたものだった。

天皇とアメリカとの間に秘密の通信があり、天皇の承知のもとに、広島・長崎への原爆投下が行われたのだ。

そして「終戦後の天皇の地位保障」を条件に、アメリカの 原爆投下を受諾した。

追記

テニアンとエノラゲイ搭乗員との交信は東京の陸軍・特殊諜報部隊でも傍受していた。

広島の「(西部方面)第二総軍本部」にも当時最新の通信システムが置かれており、インド・デイリーからやテニアンから発せられる通信をすべて傍受していた。その通信所は原爆で吹き飛ばされたので、通信に携わっていた職員は全員亡くなっている。彼ら職員に緘口令を強いていたとしても、大事のことであり、秘かに身内に口外していたであろうことは考えられる。


やはり知らされていた広島原爆

2021-08-08 19:54:58 | 太平洋戦争

以前、中日新聞で こんな記事が連載されていた。

藤原章生 広島の謎」 その中で

 福井県に本社を置く 非鉄合金の先端企業「大阪合金工業所」の会長「水田泰次」氏(88) が、1988年10月発行の『広島高等学校排球部史』に次の一文を寄稿している。

 

「4月に 京都大学工学部に入学したが、 5月に冶金の教室主任教授の西村秀雄先生に呼び出されて、広島市内に住居があり、親がいるということで、内密に情報を教えてもらった。米国の学会から秘密裡にニュースが送られて来、当時原爆製作を競争していた日本より先に、米国が成功し、その第1回現地テストを広島で行うことに決まったから、できるだけ早く、親を疎開させなさいということです。早速帰郷し、理由は誰にも話せず、父を無理やり、廿日市まで大八車で家財を積んで疎開させたものです」

 

ジャジャジャ~ン。

さて、この後も執筆者の「藤原章生」氏は、いろいろ疑問を呈している。

西村教授は、アメリカの学会からどうやって、そのような情報を得たのか。

無線も手紙もすべてチェックされている中、情報を得る手段は無かったはず。

不思議とのこと。その時、湯川秀樹も傍にいて、黙って座っていた。

何か意味ありげ。

 

 原爆が完成し、西部ニューメキシコ州の砂漠で世界初の実験に成功したのは

45年の7月16日。日本のいくつかの都市を攻撃目標と定めたのは、7月25日。

最初の投下を広島と決定したのは8月2日。

 

それが、なぜ、5月の時点で「広島に投下される」という情報がはいったのか

これまた不思議。まるで未来を見通せるタイムマシーンでもあったかの話。 

 


「原爆投下は知らされていた」関連出版物

2021-08-08 19:54:18 | 太平洋戦争

「原爆投下は予告されていた」で検索すると、次のサイトと関連書籍が出てくる。

①「Author:ひろもと」のブログ『読書日記』

②『原爆投下は予告されていた!第五航空情報連隊情報室勤務者の記録』黒木雄司著(1992年)
  岡山市在住の黒木雄治さん(77)=元安治川鉄工建設和歌山工場長の証言

  Amazonでは「この本は現在お取り扱いできません」となっている。「発禁本」か!?


③『原爆の秘密 昭和天皇は知っていた』大分県在住のノンフィクション作家「鬼塚英昭」著(2008年)


④『原爆投下は予告されていた。国民を見殺しにした帝国陸海軍の犯罪』 古川愛哲著 講談社(2011年)
 
「なぜ広島と長崎では高級将校の死がほとんどないのか? 福島原発事故と原爆投下、
 2つの悲劇に隠された驚愕の真実! 被爆直後の長崎に上陸した米軍捕虜救出部隊の証言、
 そして原爆投下を黙認した日本軍上層部の陰謀…「昭和史最大の闇」を東日本大震災が暴いた。


長崎も予告されていた?

2021-08-08 18:18:37 | 太平洋戦争

今日8月9日は、長崎にも原爆が落とされた日。

広島の原爆はウラン。長崎型はプルトリウム爆弾。プルトリウムは自然界では存在せず、原子炉で人工的に製造する。そのため爆弾の動作原理と構造は両者は全く異なる。プルトリウム爆弾は広島型の1.5培の破壊力があったとされるが、長崎は山で囲まれているため、爆風はさえぎられ、被害は広島より少なかった。

 

長崎で アメリカの飛行機から撒かれたというビラがある。

「日本国民に告ぐ!
 このビラに書いてあることを 注意して 読みなさい。
 米国は今や 何人もなし得なかった極めて強力な爆薬を
 発明するに至った。今回発明せられた原子爆弾は、只
 その1発を以てしても 優に あの巨大なB-29 2千機が
 1回に搭載し得た爆弾に匹敵する。

 我等は今や 日本本土に対して 此の武器を使用し始めた。
 若し諸君が尚 疑いがあるならば、この原子爆弾が 唯1箇
 広島に投下された際、如何なる状態を惹起したか調べて
 御覧なさい。

 この無益な戦争を長引かせている軍事上の凡ゆる原動力を
 此の爆弾を以て破壊する前に、我等は 諸君が 此の戦争を
 止めるよう 陛下に請願することを望む。
 
 米国大統領は曩(さき)に 名誉ある降伏に関する13ヶ条の
 概略を諸君に述べた。この条項を承諾し、より良い平和を愛好
 する新日本の建設を開始するよう 我らは慫慂するものである。

 諸君は直ちに 武力抵抗を中止すべく措置を講ぜねばならぬ。 
 然らざれば我等は 断平この爆弾 並びに其の他 凡ゆる優秀な
 武器を使用し 戦争を迅速 且(かつ)強力に終結せしめるであろう」。

 

家永三郎・小田切秀雄・黒古一夫編『日本の原爆記録1』
(1991年)の中の「長崎22人の原爆体験記録」にも

 8月7日の15時頃、米軍機がビラをまいて、「皆さん、我が軍は
 昨6日広島に原子爆弾を落しました。それで、皆さんの親、子、兄、
 妹、知人など20万人近くもけがをされました。この爆弾は1発で
 これだけの力があります。この爆弾が落ちたところは、70年間は
 草も木も生えません。上空で爆発するので其の力は、直径20キロ
 メートルもあります。皆さん、この次は★8日に長崎に落とす
 予定です。皆さん、今ならば まだ間に合いますから、早く戦争を
 止めるように言って下さい」というようなビラを落してゆきました。

ジャーン。長崎への原爆投下は予告されていた?。

8日に投下されなかったので、やはりデマかと安心していたら、9日の昼に落とされた」との証言もあった。

これについては、米軍は「第一目標を小倉、第二目標を長崎」と決めていた。

小倉上空にさしかかった時、霞と煙で町を目視できず、あきらめて長崎に向かったことになっているから、「長崎に予告するはずはない」という意見もある。いや「小倉または長崎」だから予告はあり得たとも。

小倉では広島の情報から「B29が単機で来たら原爆投下の可能性がある」と警戒していて、B29の接近をキャッチしてタールを燃やして煙幕を張ったという。これはすばらしい。

小倉に落とされていたら北九州から下関まで灰燼に帰していただろう。

 

Nagasaki

 


日本でも原爆開発

2021-08-08 16:21:56 | 太平洋戦争

昨晩8月7日深夜                                                                                                                                                                                                                                                                                  NHK/ETV特集で放映された

「日本の原爆開発〜未公開書簡が明かす仁科芳雄の軌跡〜」

物理学者・仁科芳雄はスゥェーデンに留学の後アメリカを視察し、原子エネルギーの研究開発に着手していた。その仁科芳雄が記した1500通の未公開書簡が発見され、石油の供給を絶たれた日本としては、原子エネルギーを動力として活用する研究が急務となっていた。その研究開発費を軍から援助してもらうことで、仁科は原爆の開発にも取り組んでいくことになる。

 

しかし、 1945年 (昭和20年)の アメリカ軍 の 空襲 によって東京にあった理化学研究所は焼失し、その後金沢に移ったが、原爆の開発はアメリカに先を越され潰えることになる

 8月6日 広島市 に 「新型爆弾」が投下 されると、仁科は 8月8日 に政府調査団の一員として現地に入り、レントゲン フィルム が 感光 していることなどから原子爆弾であると断定し、政府に報告した。仁科は8月15日終戦の日にはラジオで「原子爆弾」について説明している。

さて先日、「実践倫理宏正会(朝起会)」の二代目会長「上広栄治氏」が子供の頃原爆に遭遇し、学校からの帰り道、空から降って紙ふぶきを拾って帰ると、母親が「すぐに捨てなさい」と叫んだ。母親はすでにラジオのニュースで広島に恐ろしい新型爆弾が落とされたことを知っていた。聞けばあれはピカドンという恐るべきウラン爆弾で・・・・

と、広島の一市民が「ウラン爆弾と放射能の恐ろしさ」を知っていたことに私は疑問だった。

昨日のNHK/Eテレで「仁科芳雄氏が資金調達のために新聞やラジオ等で原子爆弾の開発の必要性を説いていた」ことがわかった。「マッチ箱程度のウランでロンドンの町を破壊できる爆弾の製造が可能になる」と。

1944年7月9日 朝日新聞に『決勝の新兵器』と題して「ウラニウムに中性子を当てればよいわけだが、宇宙線には中性子が含まれているので、早期爆発の危険がある。そこで中性子を通さないカドミウムの箱に詰め、いざという時に覆をとり、連鎖反応を防ぐために別々に作ったウラニウムを一緒にして中性子を当てればよい」という記事が掲載された。

全国民がこれを読んで理解したとは思えないが、知っていた可能性はあったことになる。