日本でも「原爆の開発」は進められていて、核分裂の実験装置では当時 世界最高水準のサイクロトンが東京の「理化学研究所」と京大、阪大の3ヶ所に4台あった。しかし戦後、マッカーサーの指令で、すべてことごとく破壊された。東京の2台は、東京湾に沈められた。
終戦の翌年、昭和46年の10月、アメリカの新聞にこんな記事が載り、米軍関係者を驚かせた。
「終戦3日前の8月12日、日本は朝鮮半島で核実験に成功していた。その後、南進してきたソ連兵が、日本人科学者6人を拘束し連行。彼らはソ連の原爆開発に携わっている」と。
これは誤報だったようだが、アメリカがソ連の原爆開発に神経を尖らせていた時期の疑心暗鬼だった。
日本の高い能力をアメリカも認識していたのだ。
そういえば、湯川英樹は、師の仁科教授の「核融合」の理論をこっそりアメリカに売り渡し、アメリカの原爆開発を手助けした。その功績で、戦後いち早く、
日本人初のノーベル賞に輝いたとか、ネット上にありましたっけ。
福井県に本社を置く非鉄合金の先端企業「大阪合金工業所」の会長「水田泰次」氏(88) が、1988年10月発行の『広島高等学校排球部史』に次の一文を寄稿している。
「4月に 京都大学工学部に入学したが、 5月に冶金の教室主任教授の西村秀雄先生に呼び出されて、広島市内に住居があり、親がいるということで、内密に情報を教えてもらった。米国の学会から秘密裡にニュースが送られて来、当時原爆製作を競争していた日本より先に、米国が成功し、その第1回現地テストを広島で行うことに決まったから、できるだけ早く、親を疎開させなさいということです。その時、湯川秀樹も傍にいて、黙って座っていた」
水田氏は早速帰郷し、理由は誰にも話せず、父を無理やり、廿日市まで大八車で家財を積んで疎開させた。