現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

日本も原爆開発に取り組んでいた

2021-08-09 10:21:44 | 太平洋戦争

日本でも「原爆の開発」は進められていて、核分裂の実験装置では当時 世界最高水準のサイクロトンが東京の「理化学研究所」と京大、阪大の3ヶ所に4台あった。しかし戦後、マッカーサーの指令で、すべてことごとく破壊された。東京の2台は、東京湾に沈められた。

終戦の翌年、昭和46年の10月、アメリカの新聞にこんな記事が載り、米軍関係者を驚かせた。

「終戦3日前の8月12日、日本は朝鮮半島で核実験に成功していた。その後、南進してきたソ連兵が、日本人科学者6人を拘束し連行。彼らはソ連の原爆開発に携わっている」と。

これは誤報だったようだが、アメリカがソ連の原爆開発に神経を尖らせていた時期の疑心暗鬼だった。

日本の高い能力をアメリカも認識していたのだ。
そういえば、湯川英樹は、師の仁科教授の「核融合」の理論をこっそりアメリカに売り渡し、アメリカの原爆開発を手助けした。その功績で、戦後いち早く、
日本人初のノーベル賞に輝いたとか、ネット上にありましたっけ。

福井県に本社を置く非鉄合金の先端企業「大阪合金工業所」の会長「水田泰次」氏(88) が、1988年10月発行の『広島高等学校排球部史』に次の一文を寄稿している。

「4月に 京都大学工学部に入学したが、 5月に冶金の教室主任教授の西村秀雄先生に呼び出されて、広島市内に住居があり、親がいるということで、内密に情報を教えてもらった。米国の学会から秘密裡にニュースが送られて来、当時原爆製作を競争していた日本より先に、米国が成功し、その第1回現地テストを広島で行うことに決まったから、できるだけ早く、親を疎開させなさいということです。その時、湯川秀樹も傍にいて、黙って座っていた」

水田氏は早速帰郷し、理由は誰にも話せず、父を無理やり、廿日市まで大八車で家財を積んで疎開させた。

新家博/Niinomi Hiroshi on Twitter:  "ノーベル物理学賞の湯川秀樹の日記のこと。興味深く読んだ。人間悲しいかな。たとえノーベル賞受賞者の頭脳を持ってしても人間の本能(闘争本能)とそれに基づく「政治」については、事が終ってからでないとピンとこないのである  ...

 


「焼き場に立つ少年」

2021-08-09 10:03:49 | 太平洋戦争

10年ほど前、日本原水爆被害者団体協議会のポスターを見て、衝撃を受けた。

アメリカの報道官だったジョー・オダネルが撮影した「焼き場に立つ少年」の写真が全面に使われていた。

そして、オダネル自身の説明が添えてあった。

1945年長崎の爆心地近くの火葬場で撮影されたもの。 

考えると、火葬場で、待つ、姿は。 - 二言瓦版

 

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「10歳ぐらいの少年が、歩いてくるのが目に留まりました。

おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。

重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、強い意志が
感じられました。しかも裸足です。

少年は、焼き場のふちまで来ると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしています。

この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に、初めて気付いたのです。男達は、幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。まばゆい程の炎が、さっと舞い立ち、直立不動の少年のまだあどけない頬を、赤く照らしました。

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 以来ずっと、この少年の写真のことを気にかけていたら、2008年にNHKで

ドキュメンタリー番組として放映されていたものを、YouTubeで見た。

NHKスペシャル
解かされた封印~米軍カメラマンが見たNAGASAKI

語り 柴田祐規子

この写真を撮った「ジョー・オダネル」について取材したもの。

ジョー・オダネルは2007年の8月9日、まさしく長崎原爆の日に85才でこの世を去った。そして、この写真は、50年封印され、彼が、その封印を解いて、公開する気になった動機。公開してからのアメリカ国内での反感、特に退役軍人からのいやがらせに、彼の家族はさいなまれることに。

そして、オダネルのからだも、原爆症に侵され苦しむことに。

彼の死後、息子によって トランクの中から オダネルの肉声を録音したテープが発見される。

 

『アメリカは きのこ雲を見て、戦争は終ったと思っていた。

でもそれは、この50年に渡る、生き残った日本人にとっての苦しみの始まりだった。

確かに日本軍は、中国や韓国に対してひどいことをした。

「原爆は戦争を終わらせるために必要だった」と教え込まれてきた。

しかし、あの小さな子どもたちが、何をしただろうか。

戦争に勝つために、本当に、彼らの母親を殺す必要があっただろうか。

1945年、あの原爆は、やはり間違っていた」。

 

「はだしのゲン」の露骨な表現より数倍も、この一枚の写真が

戦争のすべてを語って、見たものの心を揺り動かす。