「今日は何の日」 8月23日は「白虎隊自刃の日」。
富田国衛著『会津戊辰戦争・戸ノ口原の戦い・日向内記と白虎隊の真相』という本が出ました。(おもはん社)
白虎隊については、“ただ一人” 蘇生した「飯沼貞吉」の回顧談によってそれが定説となり、ずっと今でも語られています。
それは、「白虎隊は8月22日、戸ノ口原に出陣したが、その夜、隊長日向内記は《食料を調達してくる》と言って去ったまま戻らず、隊員は、翌23日、敵の総攻撃に圧せられて退却し、飯盛山まで来たところで、城の燃えているのを見て全員(20人)自刃した」というもの。
この飯沼氏の証言によって、気の毒なのは隊長「日向内記」です。
「食料調達と言って、隊員を置き去りにして逃げた卑怯者、臆病者」というレッテルを貼られ、「その子孫は名乗り出ることもできない」とまで書かれてきました。
私は、この「飯沼貞吉」の話にはずっと疑問を感じていました。
白虎隊士中二番隊は 37人いて、17人は隊長日向内記とともに城に戻っているのです。
また、数名が戦死したことも他の証言から明らかになっています。
ところが、飯沼貞吉の話は逃げ回っていただけで、戦って戦死者が出たことは語られていません。飯沼貞吉のグループこそ、本隊とはぐれたメンバーではないかと思っていました。
『日向内記と白虎隊の真実』は、日向内記の無念を晴らすべく、子孫を探しだして、子孫に伝えられた話をはじめ、多くの記録を網羅しての真相解明でした。この本によると
「白虎隊は敵の襲撃で散り散りとなり、戦死した者5名。隊長以下17人は無事に城に帰還した。飯沼氏のグループは、飯盛山にたどり着き、その内、飯盛山で自刃したのは飯沼氏を含めて7人だけ。他は「城に帰ろう」と山をおりたが、滝沢口で官軍に遭遇して撃たれて戦死した者、「捕らえられるよりは」と他の場所で自刃した者。無事帰還した者もいたのです。
なぜ、「19士全員が飯盛山で自刃」となったのか。白虎隊士の遺体は、自刃者も戦死者も埋葬することも許されず、野ざらしのままだった。半年以上も過ぎて ひそかに、飯盛山や、妙国寺に埋葬された。その時はもう、自刃か戦死かの区別もつかなかった。
飯盛山に19士の墓が建てられたのは明治23年のこと。
この時、戸ノ口原で戦死した2人。強清水で戦死した2人。他所で自刃した5名。そしてさらに 無事城に帰還したが、その後9月14、15日、一ノ堰の戦いで戦死した「池上新太郎」「簗瀬武治」までが、8/23の自刃者として加えられた。
飯盛山の「建碑・慰霊祭」の発起人には、白虎隊士の生き残り6人も名を連ねているが、その趣意書には「戸ノ口原に屍をさらし、生き残った者僅かに19名。全員が飯盛山で自刃した」となっているという。生存者も全員戦死、自刃になってしまったのだ。
これは、白虎隊の悲劇をことさらに宣伝するための作為だったと言わざるを得ない。
日本政府は、この後、日清、日露、そして太平洋戦争へと突き進んでいく。「白虎隊士全員自刃」のストーリーは、二百三高地の無意味な突貫。太平洋諸島での玉砕に 利用されたものと私は思っています。
太平洋戦争の映画で「全員玉砕と本部に通信したのに、生存者がいて、それは困ると自決を強要する」ドラマがありました。白虎隊も「全員自刃でなければ困る」というのです。全くアホらしい。