現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

白虎隊隊長日向内記の刀「兼定」が170万で落札

2021-08-22 22:20:57 | 虚無僧日記

2018年12月10日ヤフオクで「白虎隊隊長日向内記の遺愛の刀が売りに出され、170万円で落札された。

11代和泉守兼定 慶応三年作」の銘あり。和泉守兼定は会津の刀工。新選組副長土方歳三が会津藩主松平容保から下賜された刀が「和泉守兼定」ということで、近年超人気の刀となった。幕末動乱の中で日向内記も藩侯から賜ったものであろうか。拵えも立派である。

でもなぜ「日向内記」の刀がヤフオクに出たのだろうか。

日向内記は「白虎隊士を置き去りにして城に逃げ帰った」とされ、会津戦争後、姿をくらまし、子孫も名乗り出ることができなかった。それが近年、白虎隊の真実が明らかにされ、日向内記の子孫も名乗り出られ、日向内記のその後も明らかにされた。

日向内記は斗南に移住せず、会津の北、喜多方で生きていた。そして斗南藩の困窮を救うために食料や生活物資を買い集めては斗南に送っていたとのこと。

そのために刀も手放し金に換えたのだろうか。

して、現在はどこに? ぜひ白虎隊記念館に展示していただきたいものである。

鑑定書付 十一代和泉守兼定 慶応三丁卯年 白虎隊隊長日向内記遺愛 人間国宝本阿弥日洲鞘書あり 時代拵付 二尺三寸三分

 


白虎隊の真実が明らかに

2021-08-22 21:45:59 | 会津藩のこと

「今日は何の日」 8月23日は「白虎隊自刃の日」。

 

富田国衛著『会津戊辰戦争・戸ノ口原の戦い・日向内記と白虎隊の真相』という本が出ました。(おもはん社)

白虎隊については、“ただ一人” 蘇生した「飯沼貞吉」の回顧談によってそれが定説となり、ずっと今でも語られています。

それは、「白虎隊は8月22日、戸ノ口原に出陣したが、その夜、隊長日向内記は《食料を調達してくる》と言って去ったまま戻らず、隊員は、翌23日、敵の総攻撃に圧せられて退却し、飯盛山まで来たところで、城の燃えているのを見て全員(20人)自刃した」というもの。

この飯沼氏の証言によって、気の毒なのは隊長「日向内記」です。

「食料調達と言って、隊員を置き去りにして逃げた卑怯者、臆病者」というレッテルを貼られ、「その子孫は名乗り出ることもできない」とまで書かれてきました。

私は、この「飯沼貞吉」の話にはずっと疑問を感じていました。

白虎隊士中二番隊は 37人いて、17人は隊長日向内記とともに城に戻っているのです。

また、数名が戦死したことも他の証言から明らかになっています。

ところが、飯沼貞吉の話は逃げ回っていただけで、戦って戦死者が出たことは語られていません。飯沼貞吉のグループこそ、本隊とはぐれたメンバーではないかと思っていました。

 

日向内記と白虎隊の真実』は、日向内記の無念を晴らすべく、子孫を探しだして、子孫に伝えられた話をはじめ、多くの記録を網羅しての真相解明でした。この本によると

 

「白虎隊は敵の襲撃で散り散りとなり、戦死した者5名。隊長以下17人は無事に城に帰還した。飯沼氏のグループは、飯盛山にたどり着き、その内、飯盛山で自刃したのは飯沼氏を含めて7人だけ。他は「城に帰ろう」と山をおりたが、滝沢口で官軍に遭遇して撃たれて戦死した者、「捕らえられるよりは」と他の場所で自刃した者。無事帰還した者もいたのです。

なぜ、「19士全員が飯盛山で自刃」となったのか。白虎隊士の遺体は、自刃者も戦死者も埋葬することも許されず、野ざらしのままだった。半年以上も過ぎて ひそかに、飯盛山や、妙国寺に埋葬された。その時はもう、自刃か戦死かの区別もつかなかった。

飯盛山に19士の墓が建てられたのは明治23年のこと。

この時、戸ノ口原で戦死した2人。強清水で戦死した2人。他所で自刃した5名。そしてさらに 無事城に帰還したが、その後9月14、15日、一ノ堰の戦いで戦死した「池上新太郎」「簗瀬武治」までが、8/23の自刃者として加えられた。

飯盛山の「建碑・慰霊祭」の発起人には、白虎隊士の生き残り6人も名を連ねているが、その趣意書には「戸ノ口原に屍をさらし、生き残った者僅かに19名。全員が飯盛山で自刃したとなっているという。生存者も全員戦死、自刃になってしまったのだ。

これは、白虎隊の悲劇をことさらに宣伝するための作為だったと言わざるを得ない。

日本政府は、この後、日清、日露、そして太平洋戦争へと突き進んでいく。「白虎隊士全員自刃」のストーリーは、二百三高地の無意味な突貫。太平洋諸島での玉砕に 利用されたものと私は思っています。

太平洋戦争の映画で「全員玉砕と本部に通信したのに、生存者がいて、それは困ると自決を強要する」ドラマがありました。白虎隊も「全員自刃でなければ困る」というのです。全くアホらしい。

 


8/23 今日は何の日「白虎隊自刃の日」

2021-08-22 20:40:48 | 会津藩のこと

今日(8月23日)は会津人にとっては忘れることのできない日です。

「今日は何の日」ネットで検索したら、一番に「白虎隊自刃の日」と出てきました。それででしょうか、ラジオでも「今日は何の日、白虎隊自刃の日」と紹介していました。「白虎隊自刃の日」が150年以上経った今日までこうして語り継がれていることに、会津人としては喜びです。

旧暦の8月23日は、新暦ではもう10月8日でした。北国の会津では秋雨が降り、肌寒い日だったのです。

前日、母成峠が破られ、西軍が猪苗代に突進してきた。

会津藩としては、成人部隊は日光、越後方面に出払っていたため、残っていたのは少年と老人だけ。まさに風雲急を告げ、君公(松平容保)自ら、老人と少年の白虎隊を率いて滝沢本陣に向かった。

 



わが家の先祖の牧原一郎(300石)は63歳、隠居の身だったが、殿(松平容保)の供廻りとして滝沢本陣まで出向いた。そして白虎士中二番隊の50名と、僧侶や神主、相撲取り、郷士、百姓まで駆り集めて総勢数百名が戸の口原に散開して塹壕を掘った。

弟の牧原奇平 (150石) 61歳は、郡奉行として強清水(こわしみず)に向かい、近郷の村々からの食料調達に回った。しかしすでに村々は焼き払われ、食料の調達はままならなかったようだ。

戸の口原に布陣していた白虎隊は 「隊長 日向内記が強清水まで食料調達に出かけたまま帰らず、氷雨降る中、空腹のまま一晩を過ごした」と生存者の飯沼貞吉は語っている。

その晩から翌23日朝にかけて、西軍の砲撃は激しく、所詮、鉄砲も刀も持たない農民、僧侶たち、敵の砲撃に為す術もなく逃散してしまった。牧原奇平は、その責任を負って、強清水で自刃した。

昭和35年ころだったか、強清水村の県道の傍ら、小高くなっているところに、村人たちが、戦死した会津藩士22人と16人を埋葬したという塚が発見された。

牧原奇平も たぶんここに埋葬されたのであろうということになった。

 

牧原一郎は 敵が滝沢峠を越えてきたとの報に、「急ぎ殿を城へ!」と配下の者に命じ、「自分は老齢の身、逃げるにも殿の足でまといになっては」と、その場で自害しようと脇差で喉を突いた。すると君公は「君 あわて早まるなかれ」と一声かけ、城へ向かって馬を走らせた。牧原一郎は殿の言葉に感激し、血の噴き出る首を抑えながら甲賀口の自邸にまで引き上げ、家にいた孫の豊四郎に介錯を頼んで絶命した。



牧原邸の隣家が「井上丘隅」。TBSの 年末時代劇『白虎隊』では、森繁久弥が演じた。ドラマでは、井上丘隅は最後まで生き延びるが、事実は井上丘隅も甲賀口の戦いで自刃する。
ドラマでもあったように、甲賀口を守ったのは年寄りと子供たちだった。あのシーンは一番泣けた。

土佐藩士「氷室隼人」の手記に「この時の(甲賀口の)戦に、七十歳ばかりの老人 槍を引っ提げ躍り出て、味方の一人を刺し、引き込む槍の石突で他の一人の腰を突いたので、遂に鉄砲で撃ち倒した。

それと同時に十四、五歳の少年が 槍を構えて手向かって来たので、其奴を生け捕れ、生け捕れと叫んだが、またぞろ一人が刺されたので、鉄砲で射殺した。

その夜は 酒の宴に その少年の首を大皿に乗せ、“愉快極まるこの夜の酒宴、中にますらお美少年”と歌って、一同、大いに酒を飲みほした」と。その老人と少年は、甲賀口郭門の門番役 佐藤與左衛門(74歳)と孫の「勝之助」十四歳であった。

 

井上丘隈の娘が、青年家老「神保修理」の妻となった雪子。神保修理は、鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜と松平容保が将兵を置き去りにして江戸に逃げ帰った責任をとらされて切腹。西軍の乱入に雪子は薙刀を振るって防戦するも、敵に捕らえられ、「辱めを受けるよりは」と自刃する。会津戦争中最も悲劇の1シーンだ。

こうした混乱の中、飯盛山で 白虎隊士 の何人かが自刃した。





白虎隊士の生き残りの中に牧原豊四郎の名

2021-08-22 19:48:46 | わが家のこと

白虎隊は実は、身分によって「士中白虎」「寄合白虎」「足軽白虎」の三部隊があり、さらにそれぞれ二つの中隊で組織されていた。合わせて300名ほど。

そして「白虎士中二番隊」の隊員は37名。そのうち18名が日向隊長とともに帰城している。残り19名だが、そのうち3人は戸の口で戦死、戦乱の中で撃たれ戦死はぐれ、ばらばらに飯盛山にたどりついた。

 

 

生き残った白虎隊士は開城後東京に護送され、囚人としての扱いを受けた。その中に「牧原豊四郎」の名がある。護送の任に当たったのは小倉豊津藩だった。

豊四郎は、牧原の本家筋。甲賀口で父牧原一郎が切腹した時、介錯をした。その後城に入り、生き残りの白虎隊士の統率に当たったようだ。そして東京に護送されても、会津藩士の名に恥じないよう、隊士たちをよく教導したという。だが、その後の行くへは不明。たぶん、東京にそのまま残ったのであろうか。

10年以上も前になるが、従兄の牧原源治郎が亡くなり、川崎市の鶴見で葬儀を行った。そこの葬儀場の人が「先日、牧原一郎」という方の葬儀がありましたが、ご親戚ですか」と聞いてきた。一昨年、会津の大窪山墓地に行ったら、新しく牧原一郎」の墓が立てられていた。牧原一郎のご家族の方、ぜひ連絡いただきたい。


「牧原奇平」の自刃

2021-08-22 19:37:43 | わが家のこと

私の先祖の一人「牧原奇兵」(62歳)の記録がネットで見つかりました。

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八月二十二日、西軍 猪苗代陥落。
「白虎隊」他 諸志隊、戸の口原、強清水、大野原に胸壁を築く。

郡奉行・牧原奇平は 代官属吏を督し、糧食役夫を提供す。

二十三日早朝、西軍の先鋒土州兵来り戦を挑む。
白虎隊・奇勝隊・敢死隊は十六橋を隔てゝ戦ふ。
我が兵奮戦すと雖も衆寡敵せず且戦ひ且つ退く。
 

敢死隊頭 小原信之助、辰野勇 戦死す。
遊軍隊頭 小池繁次郎、笹山方面に進み兵を督して戦ふ。

小池・安藤・村松・常盤等戸ノ口原に止まり、一歩も退かず戦ひて死す。

我が軍遂に支ふる能はず、水戸兵も亦敗る。
牧原奇平傷を被りて自刃す。


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牧原奇平」は「(こおり)奉行」として、強清水近辺の村々を廻り食糧と人夫の調達に廻っていた。しかし敵の侵攻が早く、強清水で敵弾に当たり、自刃した。


「飯沼貞吉」決死の電線敷設

2021-08-22 19:36:56 | 「八重の桜」

『会津史談会』会誌 第23号(昭和18年2月)で見つけました。

飯沼貞吉」が逓信省に勤めていた時の話です。

(昭和15年10月8日付「読売新聞」に掲載されたという「八木鐘次郎氏」の談話を 要約しました)。

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時は明治27年7月25日、朝鮮半島の豊島沖で 日清戦争の火蓋が切られた。そのニュースは「釜山電信局」からただちに東京に送られた。だが、日本軍はすでに 仁川、京城まで進んでいるが、海岸線には支那軍が上陸していて、陸路の通信は途絶えていた。

そこで、電信敷設の任に当たったのが「飯沼貞吉」改名して「飯沼貞雄」。彼は 300名の人夫を連れて、敵地の中を京城まで電信設備の敷設という難事業に向かった。

出発の時「危険だから、ピストルを持って行くように」と仲間に言われたが「飯沼貞雄」は「私は白虎隊で死んでいるはずの人間ですから、命は捨ててますよ」と 笑って答え、「元気で行ってきます。きっとやりとげますよ。船を使わんでも、東京と通信ができるようにしてみせますよ」と明るく旅立っていった。

白虎隊生き残り「飯沼貞吉(雄)」の決死の電信設備の敷設が、日清戦争の戦況を逐一東京に伝え、勝利へと導いたのだった。

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日本の電信(電報)事業は明治3年1月、東京と横浜間の開通に始まる。電信網の全国整備に伴い飯沼貞吉は技術専門家として東奔西走する。明治6年には東京から長崎まで1340kmが開通。
飯沼貞吉は明治5年10月に下関電信局(赤間関)に勤務し、明治6年4月に小倉電信局に転勤した。
アジアで電信を独力で構築した国は唯一日本のみで、その後の通信大国への基礎となった。そして逓信省仙台逓信管理局工務部長を最後に大正2年(1913年)60歳で退官、正五位勲四等に叙せられている。
 
昭和6年(1931年)2月12日没、享年77歳。
 
 

語られなかった「飯沼貞吉」のその後

2021-08-22 19:36:40 | 「八重の桜」

自刃した白虎隊で唯一人生き残った「飯沼貞吉」は、蘇生してから後のことを多くは語らなかった。そこで、語られた話から「定説」が作られたが、そこには抜け落ちた話があった。

飯沼貞吉は「たまたま息子を探しに来た印出新蔵の妻ハツに助けられ、背負われて塩川に辿り着き、旅館で介抱を受けた」というが、まず、一晩で婦人が 少年とは言え、重傷の男子を背負って、一晩で塩川まで行くのは不可能。また当時 塩川に旅館は無かった。

貞吉の話には、塩川に行くまでの何日間かの話が欠落している。それを補う史料が、40年ほど前、飯盛山近辺の古い農家を取り壊した際、屋根裏から古い鉄砲とともに出てきた。

それは「自分が貞吉を発見し、彼を不動滝の奥の岩屋に連れて行き、毎日食事を届けて、そこで傷が治るまで一ヶ月ほど? 匿った」というもの。

それには最後に、「飯沼氏は、農民に助けられたことを恥じて隠そうとしているのか、士族の印出ハツの名はあげても、自分にはお礼の言葉もない」と
苦言が書かれてあった。

私は、このニュースを「歴史読本」で見たが、その後もずっとこのニュースは無視され、未だに貞吉の証言だけが建て節として流布している。

 

最近、もっとすごい話が出てきた。貞吉は、明治元年、長州藩士「楢崎頼三」に連れられて、長州小杉(現山口県美弥市)に行き、そこで「楢崎氏」に養育されたというもの。“仇敵”長州人の庇護を受けたことなどは、彼は一切語っていない。しかし、本当だとするとすごい話だ。



長州藩士に扶養されたのは、飯沼貞吉だけではない。『八重の桜』にもしばしば登場する会津藩士「秋月悌次郎」は、落城後、長州藩士の「奥平謙輔」を訪ね、将来のある会津藩の少年達を託した。後年、陸軍大佐となった小川亮」と 山川大蔵の弟で東京帝大総長となった「山川健次郎」は、奥平氏の庇護の下に出世したのである。

さて、飯沼貞吉は、その後明治3年、静岡の学問所に入学。
明治5年(1872年)工部省技術教場(東京)に入所、電信技師となり、同年10月5日には赤間関(山口県下関市)に赴任。最初の勤務地が長州山口県だった。

その後、国内各地で電信の開設に尽力し、1894年(明治27年)日清戦争では、大本営付き 陸軍歩兵大尉として出征。その電信技術が日清・日露戦争の勝利に多いに寄与した。

1905年(明治38年)札幌郵便局工務課長となり、1910年(明治43年)に仙台逓信管理局工務部長に就任、日本の電信電話の発展に貢献した。だが、会津戦争のことを人に語ることは無かったという。

死後、飯盛山の白虎隊の墓の横に埋めくれ」と願っていたが、会津では「生き残りは恥だ。それを一緒に並べるわけにはいかねぇべ」と少し離れたところに墓が立てられた。それほど、生き残った者は死に損ない」と侮蔑された時代だったのだ。


白虎隊隊長「日向内記」の名誉回復

2021-08-22 19:36:22 | 「八重の桜」

白虎隊の話は、ただ一人蘇生して生き残った「飯沼貞吉が語った話」というのが元になって、「戸の口原で敵の砲撃を受け、大方が戦死、生き残った者がようやく飯盛山までたどりついたが、城の焼けるのを見て、もはやこれまでと、全員自決した」と、どの本にも書かれているが、私としてはどうも腑に落ちない点があった。白虎隊士の多くが生き残っているから、「全員戦死か自決」というのは嘘であると。

飯沼貞吉の話では、隊長の日向内記食料を取りに行くと言って 強清水まで引き返し、そのまま帰ってこなかった」と。

そのことで、日向内記は、「戦わずに逃亡し、白虎隊士を置き去りにした」と非難され、戦後は姿をくらまさざるを得なかった。子孫も「日向」姓を名乗れずに、長い間消息不明だった。最近になって、日向の子孫が名乗り出、漸く再評価されつつある。



「白虎士中二番隊」は37名いた。23日未明より敵の襲来を受け、3隊に別れて逃走した。

教導役「篠田儀三郎」に従った17人の内、飯沼とともに飯盛山で自刃したのは6名だったようだ。内一人 飯沼貞吉が蘇生。その他の場所で自刃した者3名、合わせて9名。飯沼達が自刃する前に「城へ戻ろう」と飯盛山を下りたところで敵に遭遇し撃たれて死んだ者が4名

半隊長の「原田勝吉」に従った7人と、小隊長の「山内弘人」に従った者が13人、合計20名は無時に帰城しているのだ。



日向内記は、入城できた隊士を再編成して、籠城戦のさなかも隊長として活躍している。

冨田国衛著「会津戊辰戦争 戸ノ口原の戦い 日向内記と白虎隊の真相」

それを考慮してか、『八重の桜』では「日向隊長失踪」の話は登場してこなかった。