以前、NHK「ラジオ深夜便」で、「日本兵捕虜尋問所の真実」の著者、ノンフィクション作家 中田整一氏の話を聞いた。
「 トレイシー」と呼ばれる「日本兵捕虜秘密尋問所」の膨大な記録を精査した内容の本だそうな。
著 者: 中田整一
出版社:講談社
発売日: 2010/04/09
アメリカは、日本と戦争になりそうと判断すると、日本語教育を始め、海軍で1,000人、陸軍で5,000人、日本語を話せる兵隊を養成した。
そのためには、日系二世だけでなく、日本人の捕虜が必要だった。それで、捕虜を大切に扱った。捕虜には、暴力的なことは一切せず、煙草を与え、食事をもてなし、まず安心させた。そして捕虜収容所では、快適な二人部屋を与え、尋問には黙秘権を与え、「話たくなければ、何もしゃべらなくてもいい」と言いながら、部屋での、日本人同士の会話は全部盗聴し、日本語、日本人の性格、思考回路から方言まで、徹底的に記録したという。
その膨大な資料が公開されたのだ。アメリカにとって捕虜は貴重な情報源だったのだ。
しかし、日本は逆だった。日本本土には16,000名もの連合軍捕虜がいた。そしてその1割が死んだとも。捕虜を徹底的に虐待した結果だ。「捕虜になったらこうなる」との見せしめにし、「生きて俘虜の辱めを受けるなかれ」と、教えた。
これは、軍上層部としては「捕虜となって情報を敵に漏らすことを怖れたため」だったのかもしれない。
日本人捕虜の多くは、思わぬ厚遇を受け、懐柔され、驚くほどよく、しゃべったという。そこには「捕虜となったからには、生きては国に帰れない」というあきらめもあったという。
中には、捕虜となっても一切無言で通し、自決したもの。機会を伺って、反乱を起こし、射殺された者もいた。彼らに共通していたものは、「生き恥を晒して、日本には帰れない」「もう死んだも同然」の思いだったという。すでに、故郷では「戦死」と伝えられ、立派な墓も立てられ、軍神として祭られているはずだ。今さら帰れないという思いがあったのだ。
こうして捕虜として、かの地で亡くなった人たちは、もっと哀れだった。厚生省も彼らの存在は無視し通してきたという。100万柱とともに、まだまだ、知られざる兵士の遺骨が帰国できずに眠っているのだ。